キューピッド
七月の期末テストが終わり、夏休みが近付いていた。
進葉の部屋ではエアコンを付けながら、妖怪猫のブチに頭を乗せたエロスが恋愛指示表を宙に浮かべた。
「えーっと。今日のターゲットはこいつらだ」
進葉は半袖のパジャマ姿で、映し出された画面を見つめる。
眼鏡を掛けた男と、茶色い髪の女が映し出される。
それは見知った二人だったので、進葉は目を開いた。
「谷村耕太と松田満佐子……って、私のクラスの担任の谷村先生と、保健の松田先生じゃない!」
「先生同士をくっつけろ」
「先生同士?」
進葉は恋愛指示表に表示された見慣れた顔を眺めた。
「せ、先生同士か……」
進葉は画面を見つめながら唸った。
「こ、この二人か……」
「この二人」
「この二人?」
「この二人」
翌日。
四時間目の授業は数学だった。
谷村耕太は、進葉のクラスの担任で、数学教師だ。
彼が淡々と説明しながら、チョークで黒板に数式を書くのを、進葉はぼんやり見つめていた。
(谷村先生と……保健の松田先生?)
余り話しているところを見たことがないので、進葉はうーんと唸った。
谷村耕太は真面目そうな顔つきで眼鏡を掛けている。
養護教諭の松田満佐子は、茶色っぽい髪に白衣姿の明るい美人で、男にも女にも人気がある。
それが、進葉の中の二人のイメージだった。
隣でエロスが説明する。
「馴れ初めは良くわからんが、いつの間にか仲良くなったらしい」
「……そ、そうなんだ」
谷村が黒板から振り返って、半目で進葉を睨んだ。
「おい。聞いてんのか、山河」
「……えっ」
進葉はびくっとして口を閉じた。
「前に出てこの式を解いてみろ」
「はい……」
進葉はがっくりしながら黒板の前に出て、図式と睨めっこする羽目になった。
(えーっと……。サイン、コサイン、タンジェント。サイン、コサイン、タンジェント)
昼食の時間、進葉は屋上で、いつも通りに乙女や克美と一緒に弁当を食べた。
最近は桑瀬菖蒲も一緒で、可愛い柄もののランチマットや弁当箱を開いていた。
七月も半ばで、太陽が強く照っている。
「ねえ、谷村先生と松田先生って話してるところ見たことがある?」
突然の進葉の質問に、乙女と克美は小首を傾げた。
「うちの担任の谷村先生と、保健の松田先生? どうだったかなあ」
「私は話してるところ、見たことある」
「どっちかというと、谷村先生は眼鏡で頭が良さそうで、松田先生は気が強い美人って感じだよね」
「いや、えーっと……」
進葉が言葉に詰まると、菖蒲が口を開いた。
「……私は色々データがある」
進葉は、少しドキリとして菖蒲を見つめた。
キューピッドの仕事に関することだと、恐らく菖蒲は察している。
乙女や克美が傍にいるから、その話をしていいものかどうか、進葉はわからない。
「……話していいかしら?」
「うん」
「何々」
菖蒲の言葉に、乙女と克美が勝手に次々に聞くものだから、進葉が何か言う前に、菖蒲が口を開いた。
「恋人。内緒で付き合ってる」
乙女と克美が吃驚して騒ぎ立てる。
「えっ、マジで?」
「本当? えっ、付き合ってるんだ!」
「付き合ってる」
進葉は内心で(それ、言っちゃっていいのかな)と悩んだが、突っ込むべきかわからなかった。
傍で、オムツ姿のエロスがパタパタ、小さな羽根で飛んでいる。
進葉は小さな声で、エロスに聞いた。
「……具体的にどうすればいいの?」
「普通に『愛の矢』を撃てばいいだろ」
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り、進葉達は慌てて屋上から教室に向かった。
途中の廊下で、白衣を着た松田満佐子が通りかかる。
「廊下を走っちゃ駄目よ」
「あ、はーい」
進葉は返事をしながら、松田満佐子を見つめた。
「松田先生って美人ですね」
「褒めても何も出ないわよ」
そう言って笑いながら去っていく松田満佐子の後ろ姿を、進葉は見つめた。
(……谷村先生と松田先生か)
五時間目、六時間目の授業が終わって、担任の谷村耕太が入ってきた。
スーツ姿で眼鏡を掛けている。
谷村耕太は淡々と今月の予定の説明をして、その日の授業を終わりにした。
「はい。以上。皆、好きに帰ってよろしい」
クラスの皆、鞄を手に次々と教室を去ってゆく。
進葉は乙女と克美に声を掛けられるが「用事があるから」と、教室に残った。
「ここのところ、用事があるって教室に残るのが多いよね。用事って?」
克美に痛いところを突かれて、進葉はうーんと唸った。
「と、図書館に寄ろうかなって」
「私達も一緒に寄ろうか?」
「い、いや。いいよ」
「遠慮することないよー。私も図書館で本でも借りるしさ」
「……え、えーっと」
進葉はどうしようかなあと頭を抱えた。
「用事があるって言うんだから帰ろうよ」
乙女が克美に言って、克美は渋々、一緒に帰ることにした。
「そうだね。無理言っちゃってごめん」
「ううん。いいよ」
笑う進葉を残して、克美と乙女は一緒に帰宅の途に付いた。
二人が校門を通り過ぎるのを教室の窓から眺めて、進葉は溜息を吐いた。
「……なんだか、付き合いが悪くなってるかなあ。私」
「知らね。もうちょっと気を使った方がいいかも知れないな」
傍でパタパタ羽根を動かしながらエロスが言う。
「……『友情の矢』ってないの?」
「あるけど」
「……あの。それ、後で撃っていい?」
進葉は、女子トイレでキューピッド姿に変身すると、早速、職員室に向かった。
職員室では、谷村耕太は他の職員に混じり、机上で期末試験の成績結果を見つめていた。
「えっと。出でよ、恋心」
進葉は、谷村耕太の恋心を出して『愛の矢』を撃った。
「……あと、保健の松田先生は……」
松田満佐子は職員室内にいなかった。
「あれ、松田先生どこだろう」
「あそこだろ」
エロスの指差す方に進葉が行ってみると、松田満佐子は職員室近くの冷蔵庫で、こっそりお菓子を隠していた。
「……ま、松田先生。そういえば、保健室に行くたびに何か瓶詰のお菓子があって、飴とかう○い棒とかくれたな」
お茶類が並べられた棚を見ると、何だかコーヒーやらココアやら色んな飲み物が並んでいる。
進葉は、松田満佐子の恋心を出して、『愛の矢』を放った。
エロスはぼんやりその様子を見つめていて、桑瀬菖蒲がひょっこり顔を出した。
「あの二人、くっつけたんですね」
「うん。なんか、そういう指示がおりたから」
「最近、山河さん頑張ってますね」
「まあな」
影から妖怪猫のブチが「にゃーん」と出てきたので、エロスはブチを枕にして寝転んだ。
松田満佐子は、カップを手に谷村耕太に話し掛けていた。
「谷村先生。今日、一緒に帰って下さいよ。同じ電車通勤でしょう」
谷村耕太はプリント類を眺めていた。
「いや、そういうことは職員室で言われても」
「……」
「い、一緒に帰ります」
谷村耕太は顔をピンクに染め、松田満佐子はニコニコ嬉しそうに笑っていた。
部活が終わり、殆どの生徒が帰宅した頃に、谷村耕太と松田満佐子が、駅に向かう道を共に歩いた。
「私達。高校時代、この愛ヶ丘学園が母校で。同じクラスだったね」
「……ああ。そうだな」
「中学も同じだった。私、あの時代からあなたのことが好きだった」
「俺も」
「本当に?」
「……えっと。どうだったかな」
耕太は眼鏡を外した。
駅へ続くまでの田んぼの道はすっかり暗くなって、虫が鳴いている。
殆どの人間が帰宅した学校の校舎は、非常灯だけが薄暗く灯っている。
所々に置かれた街灯や、通り過ぎる自動車の明かりが道を照らしていた。
「俺は、部活に熱中してたしなあ」
「青春燃やしてたよね」
「恋愛のことは、余り頭になかったかも知れない。どうだったろ」
「私は、高校時代ってどうしてたっけ」
「勉強ばっかりしてたんじゃないか」
「そうだったかも知れない」
暫く歩いて、満佐子が口を開いた。
「駅前の居酒屋でちょっと飲まない?」
「そうしようかな」
二人は駅前近くの居酒屋チェーン店に入ると、枝豆や焼き鳥などのつまみ類や、アルコール類を注文した。
松田満佐子は、カクテルの注がれたグラスを手にしながらだべる。
「だからあ、本当に最近の若い子達って、もう、やってらんないんだってば!」
「……はあ」
「ちょっと、あんた達それでいいのっていう」
「何かあったのか?」
「何でもないけど。いや、偶然に生徒同士のキスシーンを見てしまって」
満佐子の愚痴を聞きながら、耕太は笑った。
「見ちゃったんだ」
「ちょっとね」
「でも。俺らの時代から比べると、随分、茶髪とか減ったよな」
「昔より、今の方が大人し目な気がする。アイドルも黒髪率高いしね」
「俺らの時代ってちょっと凄くなかったか。何か、色々乱れていたというか。今より」」
「今って、比較的、落ち着いてる気がする」
「そうだね。多分、時代なんだろうね」
満佐子は店員を呼び止めて、新たにジントニックを注文した。
「谷村くんは何か注文しないの」
「じゃあ、俺はウーロンハイでも頼むわ」
*
その頃、進葉は、宮園乙女と長瀬克美を追い掛けていた。
二人は、何やら駅前のファーストフード店で話していた。
「うう、最近一緒に帰れてないからなあ。何か二人とも仲いい気がする」
「……えーっと、友情の矢。友情の矢。って私、こんなの駄目でしょ」
進葉は溜息を吐いた。
その晩、進葉は自室でエロスに怒られていた。
エロスの近くで妖怪お化けのブチがあくびをしている。
「あのなあ。何でもキューピッドの力で解決しようとするなよ。あくまでも恋愛指示帳に指示された任務を行うのが、キューピッドの仕事なんだからな」
「す、すみません」
進葉は謝りながら、ふと、思ったことを尋ねてみた。
「ねえ。こういう人とこういう人をくっつけろって、恋愛の指示しかないの? こういう人達を友達同士にしろ、みたいなのはないの?」
「友達同士?」
「そう。友達同士」
エロスはぽりぽり頬を掻きながら言った。
「あるぞ。何だって仲悪いよりは、いいに越したことはないしな」
エロスは恋愛指示帳を宙に表示させると、左に並んだタブの一つに触れた。
すると、何だかパスワード入力画面に出た。
エロスがパスワードを打ち込むと、画面は恋愛指示表から友情指示表に切り替わった。
「あ、恋愛以外もあるんだ」
「そう。友情指示帳だ」
エロスが色々と指示を眺めていく。
「極端な話だと、日本や韓国や中国とかの極東周辺とか。アラブとアメリカとか。韓国と北朝鮮とか。白人と黒人とか」
「な、なんか、そういう風に並べられると吃驚するなあ」
「撃ってみるか?」
「そ、そうだね」
進葉はキューピッドに変身すると、早速、羽根を広げて、エロスと共に空へ羽ばたいた。
外の世界は夜の帳がおりて、空は月と星だけが明るく、地上もまた星のように街灯りが灯っていた。
夏の気だるい暑さも、風が吹いて爽やかだった。
「何だか、空より地上の方が明るい気がする」
「……そうだな」
エロスは夜空を眺めながら言った。
「昔は、空に浮かぶ星も、もっと、はっきりと見えて明るかったんだけどな」
そう言って溜息を吐くと、エロスは背中に背負った矢筒から、綺麗に装飾された大きな矢を数本取り出した。
「じゃ、『友情の矢』でも撃っとくか」
「うん。何だか、恋愛の矢ばかりで疲れてたし」
「じゃ、まずはアジアの友情を願って」
「うん」
「向こうの方に目掛けて撃ちな」
進葉はエロスに言われた方向に目掛けて、友情の矢を撃った。
友情の矢は花火のように撃ちあがると、弾けて、沢山の眩い流星が空中に広がり、流れた。
それから進葉は、日本や韓国や中国などの極東周辺とか、アラブとアメリカとか、韓国と北朝鮮とか、白人と黒人などの友情を願って『友情の矢』を放った。
夜空は、光り輝く沢山の流れ星に包まれていた。
街中を歩く人々が空を見上げて呟く。
「あ、流れ星」
家やマンションに住む人達も、沢山の流星群が走る夜空を見上げて、感嘆の声を上げた。
「すごーい」
「流星群だね」
流れ星が降り注ぐ夜空の中で、エロスが言う。
「多分、地上では何かしらの星座の流星群だとか、言われてるだろうな」
「そうだね」
進葉は、空中に流れて行く流星達を眺めて嬉しそうに呟いた。
「あ、そうだ。……あと」
「あと?」
「イジメが無くなるように撃っておこう」
そう言うと、進葉は、再び『友情の矢』を番えて、思い切り夜空に撃ち放した。
真っ暗だった空は、沢山の降り注ぐ流星群が咲き乱れ、光り輝き、沢山の人が見上げていた。
瞳に流星を映した人々の、その心の一つ一つに『友情の矢』は溶けて、染み込んでいった。
翌朝、進葉の傍に田村伊緒里がいた。
彼女は本当は女の筈なのに、少年の姿でそこにいた。
「知花志季はふったよ。君には僕の妻になって貰いたい」
「伊緒里さん……?」
何を言われているのか、進葉にはわからない。
だが、エロスが少年の姿で「駄目」と言った。
「俺と付き合ってるの。昔からね」
風が吹き抜けた。
END
ちなみに私が自己投影してるのは
普通に主人公である進葉です