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きゅーぴっど  作者: 諫山菜穂子
6/7

火坂敦

進葉がエロスからキューピッドの仕事を請け負ってから、進葉は随分働いた。

恋愛指示帳の指示の元、手始めに愛ヶ丘学園の生徒達、それから、今は愛ヶ丘市中の人々に、たくさん愛の矢や離別の矢を放った。

たまに的を外したり失敗したが、まあ、大体は上手く行った。

昨日も授業の後、キューピッド姿で愛ヶ丘市中を飛び回り、色んな男女に愛の矢を放った。

眉毛の太いサラリーマンとその部下の明るい美人とか、引越センターでトラックを運転する男と花屋で働く美人とか。

妻子がいるくせに若い女の子と不倫していた男には、その若い女の子と離別の矢を放っておいた。

中には、男と女だけでなく男同士をくっつけるものもあった。

それと、ゼウスが憑依している人間は思った以上に多くいて、進葉はこれも狙わなければならなかった。

進葉は他に、エロスに似た、金髪で羽根の生えた素っ裸の、小さい赤ん坊のキューピッドをたくさん見た。

エロスより一回り小さくて、エロスは「俺の分身。兄弟達で仲間達だ」と説明した。

素っ裸の小さなキューピッド達はクスクスと可愛く微笑んで、適当に愛の矢を射つと、話す間もなく、すぐどこかへ行ってしまうのだった。

今日は土曜で学校が休みだったが、朝から小雨が降っていた。

進葉がのんびり目を覚まし、のろのろと家のリビングに降りると、母や次雄がテレビを見ていた。

エロスも、妖怪お化けの猫、ぶちと一緒にテレビを眺めている。

母や次雄には見えていない。

窓には、雨が打ち付けて水滴がたくさん流れていた。

「ああ、進葉おはよう」

「次雄お兄ちゃんおはよう。お母さんもおはよう」

「おはよう、進葉」

テレビでは天気予報がやっていて、次雄も母もエロスも、今日の天気について見つめていた。

「お父さんは?」

「まだ部屋で寝てる。昨日飲み会で遅かったから、疲れてるのよ」

「……ああ。どうしようかな。俺、今日はデートの約束なんだけどな。……午前中は雨か」

「でも、テレビでは午後から晴れるって言ってるよ」

「そうだね。晴れるといいんだけどな」

進葉は、しげしげと兄の次雄を見つめた。

寝起きのスウェット姿で、寝癖がついてぼんやりしているが、本当に整った目鼻立ちをしている。

「……次雄お兄ちゃん、本当にかっこいいよね」

「あのなあ。だから、褒めても何も出ないって言ってるだろ」

「最近、人気出て大変だね」

「ははは……」

次雄は苦笑して溜め息を吐いた。

「進葉は、好きな男の子はいるのか?」

「うん、秘密」

「そうか、それは良かった。……じゃ、俺はちょっとシャワー浴びて、それから部屋で音楽でも聴こうかな。まだ約束の時間まで余裕あるし」

そう言うと、次雄は浴室に向かった。

「私もお洗濯しなくちゃ。今日は部屋干しにしようかしらね」

母親もそう言って立ち上がり、脱衣場に入っていった。

「次雄、ちょっと洗濯するから早くして」

「……ええ、今、俺が風呂に入ろうとしたのに」

「早く洗濯機に脱いだ服入れて、入っちゃってよ」

脱衣場からはそんな会話が聞こえてくる。

進葉はパジャマ姿で、テレビを見つめながら呟いた。

「……私、どうしようかな」

「恋愛指示帳は随時、指示が入ってるぞ、進葉」

「おしごと?」

妖怪お化けの猫、ぶちと一緒にちょこんと座っていた、羽根の生えた小さい金髪の男の子、エロスが言った。

宙に浮かぶ青白い光を帯びた文字の羅列を見つめている。

「今日はどういう指示があるの?」

「……そうだなあ。駅前繁華街や商店街、郊外の工場地帯、各幼稚園や小学校、中学校、高校、大学。色々あるけど、これなんかどうだ」

エロスが提示した青白く光る情報を、進葉は覗き込んだ。

「駅前オフィス街の企業に、愛の矢を射ちまくる?」

「結婚率に一番繋がりやすそうだからな。それに、ゼウスが憑依してる奴もいるみたいだから。小雨が止んだら、とっととキューピッドに変身して行くぞ」

「うん、わかった」

のんびりテレビを見ていると、やがて小雨は止み、雨雲の隙間から日の光が差し込み出した。

進葉が、ハートのヘアゴムに触れてキューピッドモードに変身する間、エロスは恋愛指示帳を見て目を細めていた。

「……はあ。何だこれ。どうしようかな」

「……何が?」

長い金髪に白い衣を(まと)い、白い翼を生やしたキューピッド姿に変身した進葉が、エロスに聞いた。

「……ちょっとな、ゼウスに関して。取り合えず、やることやってから話すよ」

進葉は家の窓を開けると、エロスと共に翼を広げ、空に飛び立った。

雨上がりの愛ヶ丘市の町は、あちこちに水溜まりが出来て、家々の軒下や電線から水滴を垂らしていた。

人工用水路は茶色い水を滝のように吐き出し、工場の近くでは水溜まりに油が浮いて変な色に光っていた。

愛ヶ丘駅前に並ぶ硝子張りのオフィス街は、雲間から溢れる光を受けて輝きを放っている。

オフィス街の高層ビル群、上空にエロスと進葉はやって来た。

エロスは、自分の背負っている矢筒から大きな矢を取り出して、進葉に渡した。

「こいつを使え。『大型愛の矢』だ。この『大型愛の矢』は、花火や流星群みたいに、光の形態をした愛の矢を一度にたくさん放射状に放つ。ロケットランチャーみたいなもんだ。……まあ、これでも、中ぐらいなんだけどな。一度にたくさんの人間に、愛の矢を射つことが出来るんだ。適当に打ち上げればいい」

「……わかった。やってみるよ」

進葉はそう頷くと『大型愛の矢』を弓につがえて、オフィス街のビル群に向けて思い切り『大型愛の矢』を放った。

流星群のように、大量の光がオフィス街に降り注いだ。

やがて、ビルの外に備え付けられた自動販売機に並ぶスーツ姿の男女二人が、互いに話し出した。

「あの、鈴木さんですよね」

「……はい。あ、佐藤さんでしたっけ」

ビルの中でも、女の部下に「崎田。これコピー取っておいて」と紙の束を持っていた男が「いつもありがとな」と付け足していた。

「吉田さんがお礼を言った」と、女の部下は吃驚していた。

「よし、ミッション完了」

進葉はエロスと共に、高層ビルの一つに降り立ち、宙に青白く光る恋愛指示帳を見つめて満足げに笑った。

「キューピッドの仕事は慣れたか?」

ビルの屋上、給水タンクの上に座って足をプラプラさせながらエロスが言った。

「……うーん、まあまあかな」

進葉は頬を掻いて笑った。

雨上がりの空は、鉛色の雲が避けて、青空と大陽を覗かせ、虹を浮かべていた。

「……で、エロス。ゼウス関連のことって?」

「……田村伊緒里だ。今、ゼウスは主に田村伊緒里にくっついてる」

「……伊緒里さん?」

「田村伊緒里は火坂と付き合っていたんだが、知花志季にキスして、それを火坂に見られて別れたみたいだ」

「……えっ」

「そして、今度は知花志季と付き合うことに決めたらしい。ちなみに、他のキューピッド達がやった。田村伊緒里はゼウスが憑いてるから、キューピッドが集中するんだ」

進葉はショックで何も言えなかった。何と言っていいかもわからなかった。

ただ、(嘘だ……)と心で呟くしかなかった。

翌日の月曜日。

進葉は、最近そうするように、朝早めに家を出て、愛ヶ丘学園高等部に向かった。

でも、多分、その日はいつもよりも早かった。

知花志季に色々、聞き出したかった。

校門に入ったとき、校舎に取り付けられた時計はまだ、朝の八時を示していた。

いつもより三十分も早い。

二年三組の教室の扉に手を掛けて開こうとした。

だが、進葉は立ち止まって、教室に入れなかった。

まだ、他に誰もいない教室で、知花志季と……田村伊緒里が、口付けていたからだ。

教室の窓の外、小さなキューピッド達が小さく笑って去ってゆく。

(……えっ、嘘。信じられない。何これ?!)

進葉は涙を溢して崩れ落ちたが、冷たいリリノウムの廊下に膝は付かなかった。

崩れ落ちそうな進葉の腕を、気が強そうな茶色い髪の男の子が抱えていた。

今まで、全く話したことのない相手……火坂敦だった。

「……火坂くん?」

「……田村伊緒里。あいつ、ああいう奴なんだよ。良く知らねえけど」

火坂敦は溜め息を吐いていた。

教室の中では、頬を朱に染めた知花志季が立ち尽くし、田村伊緒里は笑っている。

「……田村先輩。先輩は何故、こんなことを」

眼鏡に手を掛けながら言う知花志季に、田村伊緒里も眼鏡を光らせながら言う。

「……駄目なんだ、私。良くわからないけど。そう。自分でも、良くわかんないの。でも、何でかこうなの。何で、こんななんだろうね」

「……僕は、田村先輩に憧れていました。でも、こんなのは……」

「嬉しいこと言ってくれるね」

田村伊緒里はもう一度、知花志季に口付けした。

田村伊緒里が動く気配に、火坂敦は進葉の腕を掴んで、近くの階段の影に隠れた。

「……田村先輩?」

「何でもない。……でも、そろそろ人が来そうだから、私は自分の教室に帰るね。知花くん、私は貴方が好き。可愛いんだもん」

田村伊緒里は二年三組の教室から出てくると「火坂くん。見てたの貴方でしょ」と笑いながら、敦と進葉が隠れる場所に近付いた。

「……貴方は私の彼氏なんだから、私から逃げちゃ駄目だよ」

そう言って笑う田村伊緒里に、火坂敦は怒って出ていった。

「知るかよ。……そうだ、俺、こいつと付き合うから」

進葉はわけがわからない内に、火坂敦に手を握られ、引っ張り出されていた。

「……えっ? えっ?」

引きずり出された進葉を、田村伊緒里が睨み付ける。

「……あ、あの、私は……」

「……ふうん」

涙目で慌てておろおろする進葉に、田村伊緒里は腕を組み、口許に笑みを浮かべながら眼鏡に指をあてた。

「……まあ、いいけど。私は知花志季くんと付き合うことにするから」

「……えっ? えっ? えっ?」

「じゃあね、あははっ」

進葉がわけがわからずに戸惑っている間に、何かとても重大なことが勝手に決められ、田村伊緒里は去って行った。

窓ガラスには、白髪に白髭の男が映っていた。

二年三組の廊下には、進葉と火坂敦が突っ立っている。

そこに、焦った知花志季が教室の戸を開けた。

「……火坂、それに山河さん。見られちゃったんだね」

溜め息を吐く知花志季に、火坂敦が頷いた。

「まあ、見ちゃったな」

「……なんか、僕は田村伊緒里先輩に気に入られたみたいで」

「そうみたいだな。まあ、精々頑張れよ。……そうだ、山河」

話について行けない進葉は、火坂に呼び止められて肩をびくりと震わせた。

「……な、なんでしょうか」

「ということで、まあ事の成り行きでお前は、俺の彼女ということになったから。次の日曜はデートな」

「……えっ?」

「そういや、知花。俺、今日、化学で当たるんだけど」

「自分でやれよ」

火坂敦は、進葉の肩をポンと叩くと、教室に入って行った。

何がなんだかわからず立ち尽くす進葉は、視線を感じて振り返ると、長瀬克美と宮園乙女が呆然と立ち尽くしていた。

「……え、何……今の」

「……火坂くんの彼女?……えっ?」

進葉は慌てて手を振った。

「ち、ち、違うの!これは……」

「大丈夫。つまり、山河さんは火坂くんの彼女なんだね。わかった。わかりました」

「宮園さん。男はあいつだけじゃないから」

涙をボロボロ流す宮園乙女を、長瀬克美が慰めている。

「えっ?えっ?」

更に、背後に視線を感じて振り返ると、長瀬克美や宮園乙女とは反対側の廊下に、エロスと桑瀬菖蒲がいた。

二人は宙に青白く光る恋愛指示帳を見ていた。

桑瀬菖蒲が無表情で呟く。

「……こうなることは、私の予測通りでした」

「く……桑瀬さん」

「……火坂くんは、田村さんについていけないみたいでしたから。……まさか、その場しのぎで、山河さんと付き合うと言い出すとは、思いませんでしたけど」

桑瀬菖蒲は溜め息を吐き、進葉はわけがわからずに言う。

「……わ、私ついていけないよ! 本当、その場しのぎだし……」

「……まあ、頑張れば」

エロスは宙に青白く光る恋愛指示表を見ながら無表情で呟いた。

火坂敦に、その場しのぎに「こいつと付き合う」と言われてから、四日経っていた。

あれから声も掛けられないし、掛けられても困るし、進葉は(やっぱり、その場しのぎなだけだったんだな)と考えた。

(……多分、火坂くんも自分の言ったこと忘れてるよね。やっぱり、あり得ないもん。私と火坂くんとか)

このまま、時間が過ぎて、皆忘れ去るだろうと思っていた。

だが、もうすぐその日の授業が終わる、という五時間目の昼休みに火坂敦は話し掛けてきた。

「おい、山河。お前、俺のこと無視してるだろ」

「えっ?!」

進葉は、火坂敦が自分の机に近付いて話し掛けてきたので、驚いて聞き返してしまった。

「お前んち、愛ヶ丘市だっけ」

「……あ、うん」

「俺、電車通学なんだよな。取り敢えず、途中まで一緒に帰れよ」

「えっ?」

「携帯出せ。メアド交換しろ」

そう言われて、進葉は慌てて、携帯を鞄から出した。

携帯電話の赤外通信でメアドを交換すると、火坂敦は席に戻ってしまった。

前の席の宮園乙女が、涙目で振り返る。

「……み、宮園さん」

「大丈夫。私、諦めたから」

桑瀬菖蒲とエロスは、窓の外を見た。

裸の赤ん坊の小さなキューピッド達がクスクス笑っていた。

「火坂敦についてどう思います?」

「割り切りの早いタイプだな」

「相性は決して悪くないですね」

「寧ろ、いいんじゃないのか。これ」

菖蒲は面白そうに呟いた。

「楽しくなさそうですね。エロス様」

放課後の帰り道、田んぼの脇道を歩きながら火坂敦が言った。

「俺、基本的に、自分を振った女のことをいつまでも考えない主義なんだよな。考えても意味ないし。でも、ここんところ連続で二人の女にフラれてたから、ちょっと腹立ってたんだ」

「……腹いせで私と付き合うなんて言ったの?」

「うーん。そう言われるとそうかも知れない」

「ちょっと酷いよ」

田んぼの脇道を歩きながら、進葉は火坂敦と話した。

「俺、他に男がいるのに、自分をずっと好きでいろって奴は無理だな」

穏やかな風が吹いて、進葉と敦の髪を揺らし、田んぼに張られた水が波立った。

「火坂くんはどこから学校に通ってるの?」

「隣の市。電車で駅三つ分先。山河は愛ヶ丘市だっけ」

「うん」

「近くていいな」

「良く言われるよ。……火坂くんって今までもこうやって、簡単に女の子と付き合ったりしたの?」

「……いや、付き合うのは始めてだな」

次の日曜、進葉は火坂敦と一緒に映画に行くことになった。

愛ヶ丘駅前のショッピングセンター内にある映画館だ。

 進葉は進葉なりに精一杯おしゃれをして、愛ヶ丘駅前の公園で待ち合わせをした。

進葉は家を出るとき、エロスに「どうすればいいの?」と聞いたが、エロスは「知るか」と返して来た。

「俺は邪魔しないで引っ込んでるから、お前が考えろよ」

エロスはそう適当に返してどこかへ行ってしまった。

進葉は少し早めに着いて、火坂敦は時間ギリギリに来た。

二人で、駅近くのショッピングセンターに行き、映画館に入った。

何を見るかは既に二人で話して決めていて、SF映画を観た。

だが、火坂敦は途中で寝てしまい、映画が終わってから進葉に内容を聞いてきて、進葉は溜め息を吐いた。

近くのファミレスで昼食を食べて、この後どうするかという話になった。

「私、デートって、この後はどうすればいいのか知らない」

「そうは言われてもなあ」

進葉は、今までキューピッドの任務中、恋人達がどうだったか思い出そうとしたが、余り思い浮かばなかった。

取り敢えず街を歩いて、ゲームセンターでUFOキャッチャーをしたり、太鼓のゲームをプレイしたりした。

「……友達と遊ぶみたいにすればいいのかな?」

「あんまり深く考えるなよ」

色々散歩して、一旦、公園で一休みすることにした。

自動販売機でジュースを買って、ベンチに座った。

近くでは、お爺さんが孫を連れて、水鳥に餌をやっていた。

沈黙が降りて、進葉は何となく緊張した。

「……お前さ」

「な、何」

「うーん。一応、俺が付き合えって言って、お前は断らなかったよな」

「うん……そうだね」

「何か、流れだけど、付き合うってことでいいんだな」

火坂敦は何だか、考え込んでいた。

小津恵子や田村伊緒里には、簡単にキスしたが、何となく、進葉には戸惑っていた。

進葉は、火坂敦が小津恵子にキスしたのも見ているし、田村伊緒里とキスしたことも情報として知っている。

火坂敦も、知花志季と田村伊緒里がキスしたのを見て進葉がショックを受けていたのを知っている。

多分、普通のデートだったらキスなりなんなりするところだ。

あんなに簡単にキスさせたし、キスするのを見た。

最早、ただの接触でしかないような。そんなキスばかりだった。

火坂敦は、何となく戸惑っていた。

進葉は流されて、そんなことを考えもしない。

ただ、進葉が何だか緊張しているのは伝わった。

「……あのさ。やっぱり、ポンポン、簡単にキスするのはおかしいと思うんだよ」

「……うん」

「俺、そういうのばっかりだった。そういうのばっかり見た」

「うん。そうだね」

進葉も(確かにそうだ)と睫毛を伏せて苦く笑った。

キューピッドの仕事は、どこか淡々として機械的なのだ。

火坂敦が、進葉の手を握ってきた。

「火坂くん、暖かいね」

「お前は、あんまりやり過ぎるなよ。色々……。俺、何言ってんのかわからないけど」

「……うん、そうだね」

進葉も、火坂敦の手を握り返した。

太陽は既に沈み掛かっていた。

その頃、愛ヶ丘駅前のショッピング街では、普段着姿の田村伊緒里が知花志季の腕に抱き付いて、楽しそうに笑っていた。

ビルの広告塔の上に腰掛けたエロスと、キューピッド姿の桑瀬菖蒲がそれを見つめていた。

「……これで、良かったんですよね」

「……多分」

店のガラス張りのウィンドウには、白髪に白鬚の男が映って、おちゃめに笑っている。

エロスが知花志季の傍に浮かぶ石に矢を撃つと、知花志季が田村伊緒里の頬に口付けを落とし、やがて、ガラスに映ったゼウスの姿は消えて行き、知花志季と仲良く微笑む、女の子の……田村伊緒里の影が映っていた。

「でも私はちょっとついていけませんね」

「お前は本来戦いの女神だからな」

「少子化対策に回されてますけどね


同じ頃、ギリシャのアテネにある桑瀬邸宅では、桑瀬了が、自室のベッドの上で起き上がっていた。

陽太郎は水着とパーカー姿でサングラスを掛け、エーゲ海でサーフィンを楽しみ、馨子は砂浜に座り、海を見つめていた。

その日、進葉は、また久々に夢を見た。

それはエロスに出会う前に、何度か見た夢に似ていた。

どこまでも青空が続き、強い日差しが照らし、温かい風が草原を揺らす。

草原の向こう側には、いつか世界史の授業やテレビで見たような、ギリシャの、白亜の柱や神殿が聳えている。

夢の中で、進葉は一人の女を見つめていた。

白い衣のドレスを纏って、長い金髪が腰や肩で揺れていた。

エロスに似た、白い衣を纏い、背中に翼を生やした金髪の少年が、こちらに向かって飛んできて、降り立った。

エロスよりも背は高く、赤ん坊というよりは少年だった。

「……母上。お久しぶりです」

(……この子、エロスに似てる。……母上?)

「エロス。私の恋愛指示帳の指示は今のところ、どうかしら」

「俺は、しっかり、やってるつもりですけど」

「……そう? 最近サボりがちじゃない? プシュケって彼女が出来てから」

進葉の口から、ずっと大人な女の声が出て、エロスと呼ばれた少年は頬を染めて笑った。

その女は草原の向こうに建つ白亜の神殿を見つめた。

神殿は、ところどころ、ヒビが入り、崩れかけていた。

「私達の住処は……。パンテオンは、もう駄目ね。地上ではキリスト教が広まって、私達を崇めていた者達は私達を忘れ去ろうとしているから。だから、もうすぐ滅ぶわ」

女の声につられて、少年の姿のエロスも神殿を見つめた。

「でも、滅びても、私達には、それぞれに与えられた役割があるわ。ハデスやタナトスは、死神として人々の魂を刈り取らなければならないし。ポセイドンやネレイドは海を支配しなければならない。アテナやアレスも、戦いの場に立ち続けなければならない。私達、愛の神もそう。人々に愛を植えなければ」

「……母上は、どうなさるおつもりですか」

「……私や貴方は、ゼウスから嫌われているから。それでも、彼に愛が注がれるようにしなければね。でも、きっと、私のこの身体は消えてなくなるわ。人の世では、今、私の絵や像は破壊されているから、結局、私は身体を失って滅ぶわ。そして、どこかの人間の中に宿ると思う。他の多くの神々も、今はその用意をしている」

「……母上」

一陣の風が吹き抜けて、二人の金色の髪を揺らした。

「でもね。愛の神エロス。私の息子。貴方は『エル』や『エロヒム』などに名前を変えて、神として愛され続けるのよ。……私も、もしかしたら『聖母』に変わっちゃったりなんか、するのかも知れないわね」

女は、そう言って笑った。

「……私達はもうすぐ滅ぶわ。でも、きっと完全になんか滅びはしないのよ」

女は、少年姿のエロスを伴って、神殿の中に入った。

神殿は、白い衣を纏った多くの兵士が見張っていた。

そして中央の部屋に、大きな玉座の上に、白髪白鬚の男が座り、角杯を煽っていた。

人々は彼を『ゼウス』と呼び、誰もがこうべを垂れていた。

その周辺には、美しく着飾った人々が座っていた。

鎧や兜を身に着け、剣を腰に下げた長い黒髪の女が、同じく、立派な鎧や剣を身に着けた黒髪の男と話をしている。

桑瀬菖蒲と火坂敦に似ている。二人を、人々は「アテナとアレス」と呼んだ。

ゼウスに、長い杖を持ち、羽根の付いた帽子を被ったマント姿の男が話し掛けている。知花志季に似ている。

人々は彼を「ヘルメス」と呼んだ。

宮園乙女に似た女がやってきて、人々は彼女を「ヘスティア」と呼んだ。

他に、日谷冬に似た者や、桑瀬三兄妹に似た者もいた。

陽太郎は「アポロン」、馨子は「アルテミス」と呼ばれ、アルテミスは誰か男と話していた。

進葉に似た女が「プシュケ」と呼ばれて、エロスと仲が良さそうに話していた。

やがて、青空には暗雲が垂れ込めて、白亜の美しい神殿は荒廃し、人の気配が全くなくなり、野獣が辺りを歩いていた。

『滅び』がやって来たのだ。

古き神々が住まうパンテオンは滅び去った。

辺りには、人や鳥や獣の骨が転がり、むしられた白い羽根や、血痕が残っていた。

進葉は、プシュケの姿で立っていた。

そこには進葉以外、誰もいない。

進葉の目の前に、腰よりも長い金髪を靡かせた女が現れた。

女は、気の強そうな青い瞳で、睫毛が長く、肌が白く、美しい。

でも、進葉は余り好きになれなかった。

「貴方は、私のことが嫌いね。でも、それでいいと思うわ」

「ゼウスって一体何なの?」

「ゼウスはたくさんの女や、あるいは男を欲しがる。不満があれば災害を起こしもする。だから私達は、多くの者と彼を繋ぎ、運ばなければならない。愛の神達に指示を出しているのは私。貴方の中の私よ。あと、ゼウスには私の『ベルト』を渡して身に着けさせているわ。きっと、たくさんの者が彼に寄り付くでしょう」

「……貴方は」

女は長い金髪を掻き上げて、強い眼差しで微笑んだ。

「愛の女神アフロディーテ。エロスの母。そして、この世の全ての愛を司る者」

アフロディーテはそう言うと、進葉の頬を撫でて、ウィンクした。

「貴方は、まだまだ子供ね。それも普通の人間の娘。プシュケ」

アフロディーテは瞼を伏せながら言った。

それから、進葉はうっすらと、自分の部屋で目を覚ました。

近くでは、籠の中に敷かれた毛布の上で、エロスが、妖怪お化け猫のブチとぐっすり眠っている。

りんご柄のカーテンの隙間から光がこぼれている。

緩やかな朝だった。

今日は、確か学校は休日だ。

暫く、ぼんやりして過ごそうと進葉は思った。

エロスがのろのろと目を覚まして、欠伸をしていた。

「……どうした、進葉?」

「変な夢を見たの。夢の中で、ギリシャの神殿や神様達や、エロスを見た」

「……夢?」

「そう。夢。不思議な夢」

 進葉はまだ眠そうな瞳で話した。

「夢か」

 進葉は少しためらいながら、夢を思い返して話した。

「……夢の中でアフロディーテっていう人と話したよ」

エロスが表情を変えて進葉を見つめた。

「母ちゃんに?」

「美人で優しそうな人だったよ。でも、なんだか不思議な人だった」

「……そっか。母ちゃんとな」

進葉はエロスを部屋から出すと、のんびり、普段着に着替えた。

ピンク色のハート型の石がついたヘアゴムで、髪の一部を縛る。

「……今日は、キューピッドの任務はお休みでいいぞ」

エロスの声が、ドアの外から聞こえた。

「お前は、お前の出来ることをしろ。それと、手伝ってくれてありがとうな」

エロスの言葉に、進葉は「うん」と頷いた。

それから、進葉は少し考えて、エロスに言った。

「宮園さんや長瀬さんにも、縁結びの矢を放っていいかな?」

「おお、いいんじゃねえか。好きにやれ」

「うん」

進葉は、後日、友達の宮園乙女や長瀬克美にも、縁結びの矢を放っておいた。

「……二人とも、いい人と巡り合えるといいな」


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