それから
その日、二年三組は一時間目と二時間目は家庭科だった。
皆、教科書とノート、ペンケースや、エプロンと三角斤を手に、家庭科室へ移動していた。
火坂も一揃い手にして渡り廊下を歩いていると、三年らしき男子生徒らが「田村伊緒里が泣いた」と話していて、何となく振り返った。
(……俺が今朝、無視したせいじゃ……ないよな)
何となく気になりながらも、火坂は「火坂、行こうよ」と友人にせかされて「何でもない」と返した。
家庭科室では六つの調理台が並んでいて、各六~七人ずつ座って、六つの班で調理を行う。
班は基本、名前の順で決まるのだが、名前の順で一番後ろの山河進葉は端数となってしまうので、他の班……知花のいる三班に入れて貰っていた。
エプロンと三角巾を付けた女の家庭科教師が、今日作るレシピのプリントを配り、教壇の横にある長い台の上にある材料を、それぞれに持って行かせていた。
その日、作るものはケーキだった。
進葉はピンクのエプロンを着けていた。
「はい、皆さん。各自で分担して。材料を量って持っていく人、器具類を用意する人に分かれて。準備が出来たら、チョコレートや果物、ナッツを刻む人と、生地を作る人、メレンゲを作る人に分かれて下さい。ちゃんとレシピ通りにグラム量って下さいね」
三班は、男子がチョコレートやナッツ、果物を刻み、女子が生地を作ることにした。
知花志季が手際良く、チョコレートとナッツ、果物を量りながら刻んでゆく。
「知花すげえな」
「……余り化学と変わらない」
知花志季は表情を余り変えず、淡々と答えながら、あっという間に作業を終えてしまった。
「男子、早いねえ」
「知花が早い」
道具類を出していた女子が感心して言い、一緒に果物を刻んでいた男子が答えた。
女子二人が砂糖や粉類、ベーキングパウダー、卵を教壇近くのテーブルから分量を量り、運んできて、一人がオーブンを余熱し、道具類を出していた。
進葉も、ステンレスボウルで、電動ミキサーでメレンゲを泡立てながら知花志季の作業を見て感心していた。
「知花くん、凄く早いね」
「そっちの作業も手伝おうか」
「何でもかんでもして貰っちゃ悪いから、大丈夫。……でも、そうだな。お砂糖入れてくれる?」
教壇近くの台では、小津恵子と、バンダナを頭に巻いた川田和人が、あれこれ話していた。
ケーキを焼き上げ、クリームを塗り、デコレーションして果物やチョコレート、ナッツを飾る。
何だかんだで、皆で美味しいケーキが出来た。
上手く行かなかった班もあったが、三班は上手くいった。
「美味しいケーキが出来たね。知花くんのお陰だよ」
「知花くん、料理が上手いんだね」
紅茶と一緒の試食が済んで、食器や料理器具を洗いながら、三班の女子達が知花志季を褒めていた。
志季は蛇口から水を流し、黙々と手早く皿を洗い流していた。
進葉も皿を洗っていたが「泡が残ってる」と志季に指摘されて洗い直し、布巾で皿を拭いた。
そして、重なった皿を家庭科準備室に並べられた食器棚に片付けに行こうとした。
だが、志季が「待って」と言った。
「お皿重ねすぎ。僕が半分持ってく」
「あ……ありがとう」
知花志季はそう言って、進葉が持っていた皿の半分を抱えて家庭科準備室に行った。
(……知花志季くん、かっこいいもんね)
進葉は何となく、先程の女子達が頬を染めながら知花志季と見ていたのを思い出して、進葉自身も頬をピンクに染めて微笑んだ。
何だか、隣の……四班は上手く行かないみたいだった。
火坂敦のいる班だった。
火坂は皿をガチャガチャ、無口で持ってきて、進葉に渡した。
「これ、頼む」
火坂はそう言って進葉に皿を渡したが、あいにく進葉には手が届かない場所で、火坂は溜息を吐いて、皿を進葉の手から取り返して、自分で棚にしまった。
*
休み時間、進葉が教室に戻ると、友人の長瀬克美と宮園乙女が話し掛けてきた。
長瀬克美は長い黒髪で、宮園乙女は黒髪を縛っている。
「知花志季と、結構話してたね。なんか、あんた達随分仲良いように見えたけど」
長瀬克美が楽しそうに言ってきて、進葉は「そ……そうかな」と口ごもった。
「羨ましいな。山河さん。私は……」
宮園乙女は、教室の真ん中後方の席で、友人らと話す火坂敦を見つめた。
「……私は……。多分、駄目だ」
「何で?」
克美が聞くと、乙女は苦笑いした。
「何だか、そんな気がするから」
乙女は以前、屋上で昼食を食べたとき、火坂敦が三年の田村伊緒里と、給水タンクの影でキスした姿を見たことを思い出した。
「……私は駄目だ」
乙女はそう笑って、視線を落とした。
進葉の傍では、羽根が生え、オムツにおしゃぶりをした小さな金髪の小さな男の子……エロスが、青白い光を帯びて宙に浮かぶ恋愛指示帳を見ている。
宮園乙女の情報について考えているみたいだが、何も言わない。
後ろの席で、黙っていた桑瀬菖蒲が口を開いた。
「……宮園さん」
目を落としていた乙女は、ビクッとして菖蒲の方を見た。
「……貴方は、貴方が思ってるより、ずっと強い。……だから」
いつも無表情で余り話さない菖蒲に話しかけられ、乙女は驚いた顔で菖蒲を見た。
菖蒲は、菖蒲なりに乙女を励まそうとしていた。
だがチャイムが鳴って、克美と乙女は自分の席に戻った。
乙女は、途中で菖蒲に言った。
「……桑瀬さん。励ましてくれてありがとう」
そう、少しだけ笑って。
進葉は、傍らでパタパタ羽根を動かしながら恋愛指示帳を眺めているエロスに小声で聞いた。
「……エル、どうにか出来ないの?」
「……ああ、火坂敦は……三年の田村伊緒里と付き合ってる」
「伊緒里さんと……? …じゃあ、宮園さんは……」
進葉は、すぐ前の席の乙女を見つめた。
「帰りに、宮園乙女と長瀬克美を誘って、カラオケでも寄ったらどうだ。そこの桑瀬菖蒲も誘って」
「……私は、今日は任務がありますので……」
すげなく断る菖蒲に、エロスが眉をしかめた。
「お前なあ。誘ってやってるのに」
「……私は、一人でもカラオケに行きますから」
進葉はその言葉に吃驚して、振り返り「どんな歌を歌ってるの?」と聞くが、教師が入ってきて授業を始めたので、口をつぐんだ。
エロスも何かちょっと変な顔をして言った。
「俺もヒトカラ好きだな。でも友達と行く方が好きだ。今度は、お前ら一緒に行けよ」
「エロス、オムツからお尻がはみ出してるよ」
「うるせえ!」
「……山河さん。……誘って下さってありがとうございます」
「ううん。次は一緒に行こうね」
進葉はそう言い、菖蒲に笑った。
菖蒲も口元や瞳に、小さく笑みを浮かべた。
昼休み、進葉はいつも通り、克美と乙女と一緒に屋上で昼食を食べると「用事があるから」と、すぐに立ち上がった。
進葉は屋上のドアを空けて校舎内に入ると、パタパタ飛んでいるエロスと小声で話した。
「……進葉。お前は辛いだろうから、俺がやるよ。俺が、火坂敦と田村伊緒里の恋愛好感度を上げる」
「……エル」
「本来、これは俺の役目だからな。それを、お前に手伝って貰ってる。ありがとうな進葉」
エロスはそう言うと、屋上のドアを開けて空へ飛び立った。
そして、火坂敦の恋心を呼び出し『愛の矢』を放った。
『愛の矢』は火坂敦の傍に浮かぶピンク色の石に当たると、弾けてピンク色の花弁を散らして消えた。
「……あと、愛ヶ丘市全体にも、『縁結びの矢』を巻いて置こうかな」
エロスはパタパタ、上空へ飛ぶと愛ヶ丘市全体を見ながら空に向けて光輝く矢を放った。
光の矢は空高く打ち上げられると、幾筋もの光に分かれ、流れ星のように愛ヶ丘市中に降り注いだ。
その頃、火坂を尋ねて二年三組に田村伊緒里が来た。
少し離れた人気のない廊下に呼び出して、田村伊緒里は火坂敦に話した。
自分が、彼を好きなことを。
「お前でもいい」と言って貰えて嬉しかったことを。
火坂は、ゲームセンターでの風原とのキスの件について聞いたが、田村伊緒里はキスして来たので、火坂も、少しもやもやしながら田村伊緒里を抱き締めて、再びキスをした。
このときは、これでいいのだと思った。
だが、火坂敦の心からは、もやもやは晴れなかった。
*
進葉、克美、乙女の三人は一緒にカラオケに行って色々と歌った。乙女もヒトカラには行くらしく、アニソンが多かった。
家に帰る頃にはすっかり外は暗くなっていた。
進葉は、母の由美や兄の次雄と夕飯を食べて風呂に入り、パジャマに着替え、のんびりテレビを見てから、二階の部屋に戻った。
そして、ベッドの上でギリシャ神話グッズカタログ六月号を開いた。
「進葉、お金はどれだけ貯まってるんだ?」
「ちょっと待って」
進葉は右手の金色のブレスレットに触れて、宙に青白く光る恋愛指示帳を表示させた。
「えーっと」
「左の方に幾つかタブがあるだろ。タブの欄のゴールドってところを押せ」
「うん」
宙に青白く光る文字で表示された、恋愛指示帳の左側にある「GOLD」というタブに指で触れると、二百三十五ゴールド、と表示された。
「二百三十五ゴールドだって」
「ギリシャ神話グッズカタログで、買えそうなものでも見てみろよ」
「うん。えーっと。どれどれ」
進葉はカタログを見てみた。
「……な、なんか凄いものばっかりだね」
「そこらへんは高いだろ」
「……本当だ。十万ゴールドとか……最凶最悪兵器の杖は嫌だなあ……。あ、これはギリシャ神話グッズじゃないんだ」
進葉は散々悩んだが、最近体重が気になるので、アフロディーテの、身体が細くなるというブレスレットを買って、右手に嵌めている金色のブレスレットと一緒に、手に嵌めようと思った。
「それは、あくまでカタログだから、取扱いショップに行かないと買えないんだ。今度、店を案内するから。愛ヶ丘駅前にあるからさ」
エロスの説明に進葉は「ふうん、わかった」と頷いた。
ふと、進葉はエロスに聞いた。
「エロスのお父さんお母さんってどうだったの」
「ああ、母さん……アフロディーテは色んな男にモテたな。ヘパイトスって鍛冶の神と結婚したんだけど、火と戦の神アレスと浮気して、ヘパイトスに現場を押さえられて。
知の神ヘルメスに拐われたりもした」
「……す、凄いね」
「進葉、お前ちょっと母さんに似てる。昨日、夢で、巨大な白いホタテ貝がパカッと開いて、中から、お前が現れる夢を見たよ」
「……ヴィ……ヴィーナスの誕生?」
*
その頃、ギリシャ、アテネ。
エーゲ海側の高台にへばりついたような高級住宅街の中、桑瀬了の邸宅はあった。
サングラスを掛けた桑瀬陽太郎と、つばの拾い帽子を被った桑瀬馨子は、迎えのリムジンから降りると、キャリーケースを手に、桑瀬邸に入った。
父が迎えに出ないのはいつものことなので、陽太郎と馨子は、プールの向かいにある離れの、父の寝室に入った。
「お父様、失礼します。陽太郎と馨子です」
ゆったりした広い寝室の、大きなベッドの上で桑瀬了は目を閉じていた。
だが、馨子の声に目を開け、ゆっくりと上半身を起こした。
「ああ、なんだ。お前達か」
桑瀬了は還暦が近く、髭を生やし、ルームウェアを着ていた。
「お楽しみでしたか」
「まあね」
桑瀬了はフッと笑い、窓ガラスに、白髪に白髭の老人が映った。
進葉は、帰宅すると家の門の前で、兄の次雄が知らない女性徒にキスされているのに出くわしてしまった。
「私、あなたのことが好きです!」
そう叫んで、女性徒は走り去ってしまった。
呆気に取られる進葉の視線に気付いて、次雄は気まずそうに笑った。
「ああ……。進葉、見られちゃったか」
「えーと……、うん」
少し気まずい沈黙が流れた。
「次雄お兄ちゃん、今の人……」
「なんか、告白されちゃって。……ここのところ多いんだよな」
次雄は肩を竦めた。
*
ギリシャ、アテネ。
エーゲ海の見える高台に、桑瀬邸はあった。多くの世界的成功者の別荘が並ぶ高級住宅街だ。
桑瀬了は親も考古学者で、ギリシャの遺跡を発掘することに情熱を傾けていた。
だが、いつからか。
了は幼い頃、父の仕事現場だったギリシャの発掘場で小さな石の欠片を手に入れた。
それから、自分は他の人間とは違うと思うようになった。自分が神……『最高神ゼウス』なのだと。
それはゼウス像の欠片だった。
そして、気が付いたら、支配的な人間になっていた。
アテネの桑瀬邸、リビングの高級な皮を張られた黒いソファーに座り、了は息子の陽太郎、娘の馨子と体面していた。
了は還暦近くで、白髪混じりの髪と髭を生やしていた。
陽太郎は皮のジャケットを脱ぎ、Tシャツ姿でサングラスを額に掛け、腕を組んでいた。
馨子は、つばの広い帽子を脱いでいた。
「親父、相変わらずだな。心配だから様子を見に来たぞ」
「まだ、ずっと夢を見ているのですか。魂を飛ばして様々な人間に憑依して、たくさんの恋をして女逹を追い掛けて」
「まあな」
了は笑う。
了の姿と白髪に白髭の男そのものが重なった。
そして、その足の下には多くの犬や猫や鳥や人の死骸が見える。
多くの死骸が山積みに重なっているように見えた。
白髪に白髭のゼウスの姿は、かつての……大昔の了なのだ。
「母上は、仕事で離れているとはいえ……」
「用事はそれだけかな」
「父上には、父上の目の前の現実を見ていて欲しい。それだけです」
陽太郎と馨子は桑瀬邸を歩き、庭のプールサイドから、エメラルドに輝くエーゲ海を見つめた。
「兄様は今、どなたとお付き合いされているのですか」
「色々。美人や、可愛い男の子とかね。お前は」
「……私が彼氏を作ったら、怒るじゃありませんか」
「今、振り返ると『アポロン』の影響……それだけだと思う。お前はお前の好きな相手と付き合えばいいよ」
陽太郎は溜め息を吐いた。
「本当はアポロンもアルテミスも、元来、敬われるような存在だ。……そうじゃないか。俺達は歪んでしまったけれど」
「そうですね。私にも好きな人がいます。父には似てない人ですよ」
「俺が嫌がって邪魔したあいつだろ」
「そう。その通りです」
馨子は、口許に小さな笑みを浮かべて、エメラルド色のエーゲ海を見つめていた。
*
六月に入り、夏が始まった。
木々の葉は強い日差しを受けて透け、地面に木陰を作っていた。
隣の市まで続く広い田んぼは、緑の稲穂が生え揃って、風に揺れている。
愛ヶ丘学園高等部の制服も夏服になり、女子は茶色い衿に紺色のリボン、それに白地のセーラー服と、薄地の茶色いプリーツスカート。
男子は白いシャツに紺色のネクタイ、茶色いズボンに代わっていた。
二年三組も、皆すっかり夏服に変わっていた。
「もうすぐプール開きだね」
「プールかあ」
窓際の真ん中より少し後ろにある進葉の席で、宮園乙女と長瀬克美は話していた。
窓からは、雨水が溜まって汚れた、二十五メートルの長さのプールが見える。
「まずは、プール掃除だろうね」
「そうだね」
ほんの少し開いた窓からは、六月の太陽の光が差し、涼しい風が柔らかく、進葉の髪を揺らした。
進葉は、なんとなく、廊下側の前の方に座る、知花志季を見つめた。
……視線は合わない。
彼は何も言わず、黙々と教科書をめくり、ノートにシャープペンシルで書き込んでいる。
火坂敦が何か話し掛けて、志季は答えていた。
「あ、川田和人と小津恵子が話してる」
長瀬克美の声に、進葉はそちらに目を向けた。
確かに、克美の言う通り、川田和人と小津恵子が話している。
ただ、それだけなのだが、元の通りに戻って良かったと、進葉はほんの少し微笑んだ。
「藤田くんは家の仕事で、小津さんもバイトを始めて忙しいみたいだね」
まだ、風原春は小津恵子が好きみたいで、机で頬杖を突いて小津恵子を見つめていた。
「風原くん、まだ小津さんのこと好きみたいだね」
「何気に幼馴染みらしいしね」
進葉は窓の外を眺めた。
空は真っ青に晴れていて、初夏の風が心地良い。
「ねえ、昨日の『だるま職人殺人事件』見た? 大山を舞台に、だるま職人が雨降る中、大山の人々を虐殺しまくる話」
「あー、なんか、姉とか猫とか殺されてたね。妹と彼氏が、生き残って救助されて、ヘリコプターでキスしてたね」
進葉達が教室でそんなたわいもない話をしていた頃、二年三組近くの廊下では、風原春が小津恵子に声を掛けていた。
「恵子ちゃん、美人に育ったよな。そりゃ男にもモテるよね」
「風原くんも、昔から比べると背、高くなったね」
「……うん」
「幼稚園も小学校も中学校も、一緒だったね。なつかしいな。良く、一緒に遊んだね」
「俺、やっぱり、恵子ちゃんが好きだから、想い続けていいかな」
「風原くん……」
恵子は何と言えばわからない顔をしていたが、風原春は恵子の頬に口付けて、教室に戻った。
恵子は何も言わず、風原春の背中を見つめていた。
「見ちゃった」
恵子がびっくりして横を見ると、女装少年、日谷冬が立っていた。
「……冬くん!」
恵子が全てを言う前に、日谷冬は恵子の頬に口付けをしていた。
「……えっ?」
「だって、今、東山くんが他の女の子と仲良さそうに話してるから腹立ってさあ」
「……そう?そこまででも……」
日谷冬は、恵子にウインクした。
「僕も、もし僕が……もっと、男っぽかったら……。僕も、恵子ちゃんに本気で恋してたかも知れない。でも、僕には東山くんがいるから」
日谷冬は女生徒の春服姿で、髪の毛を下ろしていた。
無邪気に笑うと、教室に戻り、東山に後ろから抱き着いた。
「……もう、一体なんなのよ」
小津恵子は顔を真っ赤にしながら、腕を組んで呟いていた。
太陽の光に、恵子の髪が茶色く輝いていた。
「あー、お金が欲しいな」
進葉の席の近く、開いた窓のサッシに座りながらエロスが呟いた。
「今のところ、小津恵子のことが好きな男子は相変わらずいっぱいいるなあ」
乙女や克美と進葉が話していると、次の授業、日本史の教師がやってきて、乙女と克美は自分の席に戻った。
エロスが、恋愛指示帳を眺めながら言った。
金の腕輪には補強とかで、赤い宝石が飾られていた。
勘が良くなるらしい。
傍では『ブチ』という名前の黒ブチ猫の、妖怪お化けが丸まっている。
エロスもブチも、克美や乙女、他の生徒には見えない。
「次雄お兄ちゃん?」
「次雄の奴、なんか昨日も阪井のぞみって女の子に告白されてたなあ」
「仕方ないよ。次雄お兄ちゃん、人気だもん。微笑みの王子って」
「次雄の奴と小津恵子って似てるんだよな。一昨日は杉田サキって女の子と一緒に自転車乗っちゃったりして。更にその前は藤田の妹の、韮田や大堂って女に告白されてたし、その前は武蔵川って子とデートしてたし。次雄は、明るくてスポーツ得意なイケメンだからモテるよなあ。あ、川田和人も何か今朝、たくさん女からラブレター貰ってたな。あいつも本当にモテるよなあ。ゼウスのお気に入りだからなあ。って菖蒲がやったのかよ」
「ゼウスが憑依していたので。次は宮園乙女の兄をモテさせろとの指示です。既に数人が告白しています」
エロスは妖怪お化け猫のブチに、頭を乗せて寝転がり、恋愛指示帳を見ながら愚痴った。
「お前も良くやるな」
「最近は休んでいます」
菖蒲が淡々と言う。
菖蒲は長い黒髪に、銀の星が付いた青と白のリボンを付けていた。
「お前、青や白似合うね」
「……そ、そうでしょうか」
「赤も似合うと思うけど」
「あの、エロスのお母さんって、どうやって恋愛指示を出してるの?」
進葉がエロスに聞く。
「今はもう体がないから、魂だけで、どこかから指示を出してる。たまにゼウス自身からの指示も入る。前も言ったけど、俺達、愛の神の任務は二通りある」
エロスは指を二本立てた。
「一つ、指示帳通りに世界中の人間に、愛の矢や離別の矢などをばらまく。長く封印されてたせいで、ずいぶん少子高齢化が進んじまった。だから、バンバンやらないと。死神が、死神帳の通りに淡々と魂を刈り取っていくみたいにな。その分、俺達愛の神が、命の種を植えるのさ。二つ。ゼウスをモテさせる。モテさせないと怒るからな」
進葉は、教師が自分を見ているのに気付き、焦って日本史の教科書などを引っ張り出した。
「俺はさ、進葉。なんかお前が、母ちゃんに似てるって思うんだけどさ」
エロスが言うと、後ろからバサバサッと音がした。
進葉とエロスが振り返ると、菖蒲が日本史の教科書を出そうとしたところ、机から大量のラブレターが出てきたようだった。
「お前も、モテるよなあ」
「わ、私は……」
菖蒲は少し頬を染めて、焦りながらラブレターの束を拾っていた。
「俺、ちょっと世界に縁結びの矢とかばらまいてくるから。そろそろ、動かないと」と、小さな羽根をパタパタ動かして、窓から外に飛んでいった。
猫の妖怪お化けブチは、進葉の机で丸くなりながらあくびをしていた。
エロスは、小さな羽根でパタパタ空高く飛ぶと右手を上げた。
「出でよ、世界中のどどめ色の恋心!」
エロスがそう言うと、世界中の人間の……憎悪に変わってしまった、または憎悪を愛だと勘違いしている者達の……心を呼び出した。
「まずは、世界中のどどめ色の心に『離別の矢』!」
エロスは特大な離別の矢を空高く、打ち上げ、多くの離別の矢が世界中に降り注いだ。
「次は、世界中の彼氏彼女がいない奴の心に『縁結びの矢』!」
エロスは矢筒から特大な縁結びの矢を取り出して、また、空高く打ち上げた。
世界中にたくさんの縁結びの矢が流星の如く降り注いだ。
「次は、世界中の好きな相手がいる奴に。それぞれの好きな相手や、恋人同士や、夫婦が上手く行くように。『愛の矢』!」
矢筒から、特大の『愛の矢』を取り出して、エロスは空高く思い切り打ち上げた。
世界中に光り輝く『愛の矢』が降り注ぎ、エロスは「ふう」と息を吐いた。
「あー、頑張った」
エロスは右手の、赤い宝石を嵌め込んだ金色のブレスレットに触れた。
そして、青白く表示された恋愛指示帳を見つめた。
「……世界の少子高齢化問題を抱えている各国家の、未来予想値は……。こんなもんかな。うん、少しはマシになった」
そう言うと、エロスは口許に笑みを浮かべた。
*
愛ヶ丘学園高等部の校舎には、昼休みのチャイムが響き渡っていた。
その日、進葉は机を寄せて宮園乙女や長瀬克美、それに桑瀬菖蒲と昼食を食べた。
菖蒲はいつも昼食を一人で食べていたみたいなので、進葉が誘ったのだ。
「……桑瀬さん、一緒に食べない? 一緒に食べようよ」
進葉も菖蒲も乙女も、窓際の席だ。
三人の席を合わせて、長瀬克美は近くの、食堂に出掛けた子の椅子を借りて座った。
「桑瀬さんて不思議だよね。男にモテるし美人なのに、一人が多いっていうかさ」
長瀬克美が言う。
「これから一緒に食べようよ」
「そうだよ」
進葉や克美や乙女の言葉に、桑瀬菖蒲は「ありがとう」と僅かに微笑んだ。
ちょうどそのとき、開いた窓からエロスが戻ってきた。
「ああ、疲れた。俺は俺の仕事をした」
「エル、お疲れ様」
エロスがパタパタと羽根を動かして窓から入ってきて、菖蒲は目を上げて驚いたような顔をした。
一瞬、エロスが普段の、オムツにおしゃぶりの小さな赤ん坊姿でなく……背の高い少年の姿に見えた。
金色の髪に青い目で、白い布を纏い、金色のサンダルを履き、羽根を生やした……自分達と同じぐらいの年頃の男の子に。
だが、瞬きをすると、エロスの姿はすぐに元の赤ん坊に戻っていた。
菖蒲は少し頬を染めて、俯いた。
視線を感じて、エロスは菖蒲を不思議そうに見たが、菖蒲は目を逸らした。
「どうした菖蒲」
「菖蒲ちゃん?」
エロスや進葉達が菖蒲の顔を覗き込んできて、菖蒲は「な、何でもないです」と小声で言った。
菖蒲は、なんとなくキョロキョロした。
窓の外には、エロスに似た、弓矢を持ち、羽根を生やした小さな金髪の赤ん坊達がクスクス笑っていた。
エロスは、猫の妖怪お化けブチを撫でた。
近くの席では、小津恵子が川田和人と話していた。
「さっき、女の子に告白されてたでしょ」
「お前だって告白されてただろ」
「あの二人も仲良いね」
進葉は、乙女や克美と、弁当をつつきながら話した。
「山河さんも朝、知花くんと良く話すようになったよね」
「うん」
進葉は少し照れて笑った。
「ねえ、そう言えば、長瀬さんが好きな人って誰なの?」
宮園乙女の言葉に、長瀬は「えへへ」と笑って言った。
「三年の宮園零先輩」
「……それ、私の兄貴じゃない?」
その日の学校の帰り、進葉はエロスや菖蒲に連れられ、愛ヶ丘駅近くにある『ギリシャ神話グッズ販売ショップ』に行った。
そこは、以前に進葉がピンクのハートの石を買った店だ。
エプロンを付けた美人のお姉さんが出てきて「あら、久し振り」と笑顔で出迎えてくれた。
進葉はアフロディーテの痩せる腕輪を買った。
店の名前は『オリュンポス』で店主のお姉さんはエリというらしかった。
夕暮れ。自宅に帰り、兄の次雄や母と食卓についた。
「次雄お兄ちゃん、最近凄くモテてるね」
「はは……まあね」
次雄は苦笑いした。