おしごと
第一章の続きです
学校から自宅に戻った進葉が部屋で制服を着替えていたときだった。
梅柄のオムツ姿の金髪の小さな男の子がパタパタ羽根を羽ばたかせて、窓を開けて入ってきた。
エルこと、愛の神エロスだ。
「よー、進葉。あ、着替え中か。悪い。ちょっと引っ込んでるわ」
エロスはそう言うと、再び窓から外に出ていった。
普段着に着替え終った進葉は、戻ってきたエロスの愚痴を聞く羽目になった。
「だからさー。桑瀬陽太郎と桑瀬馨子は、アポロンとアルテミスなんだよ」
「桑瀬陽太郎先輩と桑瀬馨子先輩が?」
「そう。この二人の父親は……。まあ、今はいいか。こいつらが何で愛の神の仕事をしてんのかなんだよ」
ベッドに腰掛ける進葉に、パタパタと羽根を羽ばたかせながら、エロスは言った。
「恋愛指示表を見ると、何か俺が寝てる間に、世界的に少子化になっちゃってるのが問題みたいだな。それで裏では政府の指示で、アポロンとアルテミスの魂を持った桑瀬兄妹が、愛の神の仕事にあたってるみたいなんだ。ちなみに、日本神話のアマテラスやツクヨミとは別だ」
いまいち呑み込めない進葉に、エロスは進葉の顔を覗き込みながら言う。
「俺は封印されてる間に、力を吸われて疲れてるから、進葉。お前が暫く、俺の代わりに俺の仕事を継いでくれるか」
「エルの仕事……?」
「そう。愛の神様の仕事。キューピッドの仕事だ」
「私に出来るかな?」
「多分な」
その頃、宮園乙女はクラスの中でも中心的な男の子、水島に、公園に呼び出されていた。
そして、頭を下げていた。
いつも縛っていた黒髪は下ろしていたので、バサリと舞った。
「……ごめんなさい。あの、私……貴方とは……」
「は?」
乙女はビクッとして、顔を上げた。
「お前、何様のつもり?せっかく、俺の彼女の座が空いたから、お前みたいな、地味で暗い女を彼女にしてやるっつってんのに。ねえ、お前に断るような権限あると思うの?」
「あの……」
「まあ、でも、やっぱさ、結局男は派手な女と散々遊んだら、地味な女と落ち着きたいわけよ。俺、お前みたいなブスでもいいって言ってやってるんだけど。
何でそんな、偉そうになれるわけ?」
乙女は、少年をおぞましいものを見る目で、見た。
そして「ごめんなさい、無理です」と叫んで、その場から走り去った。
それが少年の気に障った。
翌日、宮園乙女が靴箱を開くと上履きがなかった。
乙女は仕方なく、教室で体育館履きを履いた。
机の中から教科書を出して開いたら、酷い落書きをされていた。
乙女が暗い顔をしていることに、長瀬克美や山河進葉は気付いて、声を掛けた。
だが、乙女は「大丈夫、何でもない」と笑った。
次の美術の時間、人物画を描く話になり、水島が『宮園乙女を絵のモデルにしようぜ』と笑いながら発言した。
乙女は目立つのが苦手なので嫌がったが、他の誰も嫌がったので、教師が乙女に絵のモデルになるように言った。
皆が椅子に座り三脚にキャンパスを乗せて見つめる中、テーブルの上に乙女は立たされた。
クスクス、水島や男子達が笑っていて、宮園乙女の悪口を囁いていた。
「宮園って、偉そうだよな」
「きもちわり。ブス」
「あんまり美人じゃない。デブ」
「描いてやってるんだからありがたく思えよ。来週もその次も宮園乙女が絵の題材になれよ」
皆がそう、口々に言った。
たくさんの視線が自分に注がれる。
乙女は余りに辛くて、嫌で嫌でしょうがなくて、肩を震わせた。
何だか、凄く嫌な気がして、進葉は周囲を見つめた。
進葉の傍でエロスがパタパタ、羽根を動かしながら言った。
「宮園乙女、あいつ苛められてるぞ」
「そんな。どうにか出来ないの?」
エロスは、腕のブレスレットに触れ、恋愛指示帳を宙に表示させた。
青白く文章が光る。
「ああ、これは。良くないな」
「良くない?」
心配そうな進葉に、エロスは言う。
「あの苛めグループのリーダー水島は、宮園乙女が好きだ。でも、これは良くない好きだ。宮園乙女を私物だと思って、何をしてもいいと思ってる」
「それって……」
「いわゆるDVとかは、これだ。つまりは『好きじゃない』。結局、相手を思いやらない好きなんて、好きではないんだ。こういうののために『離別の矢』はあるんだ」
休み時間になると、進葉は女子トイレに駆け込み、ハートのヘアゴムに触れて変身したいと小さく呟いた。
すると、進葉は長い金髪に白い布を纏ったキューピッドモードに変身した。
進葉は急いで女子トイレを出て、二年三組に戻ると「出でよ、恋心!」と、水島から、彼の恋心を出した。
何だか、どどめ色の石が宙に浮かんでいる。
エロスが「まともな愛じゃないと、こういうどどめ色になるんだ。つまり、好きじゃなくて嫌い。愛じゃなくて憎悪だ」と説明した。
「憎悪は愛情だなんて言う奴もいるけど、違うよ。だから俺の矢は『愛情』と『離別』の二種類あるんだ。まあ、他にも色々な矢を造ったけど。『離別の矢』はこういうのを離すためだ」
進葉は弓と『離別の矢』を背中の矢筒から取り出した。
そして、水島のどどめ色の石に向けて弓を引き絞り『離別の矢』を思い切り放った。
離別の矢がどどめ色の石に当たると、途端に水島は目付きが穏やかに変わった。
「あれ、俺は……」
水島は不思議そうに首を傾げた。そして、宮園乙女の悪口も言わなくなり、宮園乙女はホッとしていた。
エロスはオムツ姿でおしゃぶりを取り出し、加えると羽根をパタパタ動かしながら言った。
「宮園乙女と、長瀬克美と一緒に、帰りに駅前にでも寄って、甘いもんでも食べたらどうだ」
進葉は頷き、帰りに駅前の喫茶店で、二人と一緒にパフェを食べた。
二日後、次の美術の時間。
教師が宮園乙女に「今日の絵の題材になるのは別の人だから」と言い、乙女はホッと胸を撫で下ろしていた。
そして、前の時間に皆が描いた宮園乙女の絵を見せられていた。
つい構えてしまうが、落ち着いてみて、やっぱり嫌だというのもあれば、良く描かれてると思うものや、お気に入りのものもあったみたいだった。
でも、やっぱり沢山の視線が注がれるのは辛いなと思った。
悪口を言っていた子の中でも、悪かったと思った子もいたのか、乙女に話し掛けてくる子もいて、進葉はホッとした。
その日は、皆、それぞれが自由に好きな絵を描いた。
放課後、通学路の並木道を小坂恵子が、何人もの友人たちと賑やかに騒ぎながら帰宅する。
少し離れた後ろを、川田和人が一人で歩く。
それを見た桑瀬陽太郎が、クスクス笑いながら呟いた。
「ヨリ戻ったのかな?」
「さあ」
桑瀬馨子が言う。
「俺、恵子ちゃんと付き合っても良かったのに」
「お戯れを」
「だって、恵子ちゃんって美人で可愛いだろ。俺、結構好きだったんだけどな」
「……兄様」
「割りと本気だったんだけどな」
二人の少し後ろを、菖蒲が無言で歩いていた。
桑瀬三兄妹は、自宅の邸に向かって、歩き出した。
陽太郎は宙に浮かぶ、青白く光る文字の羅列を眺め、恋愛指示表を見つめていた。
「恵子ちゃん、川田和人のこと、今はそんなに好きじゃないのかな。別れたいって方向性でいいのかな。なら俺、もっと恵子ちゃんにアピールしようかな。恵子ちゃんが、それを望むなら。俺、恵子ちゃんを奪っちゃおうかな」
陽太郎はそう笑い、馨子は「兄様」と言うだけだった。
進葉は家で、ぼんやりサスペンスを見ていた。
休日は、進葉はエロスに教えられ、恋愛指示張を見ながらキューピッドの仕事をした。
愛ヶ丘市の男女を、恋の矢でくっつけたり、離別の矢で離したり。
中には、小さい幼稚園児同士や、男同士や女同士、年の差カップルもいた。
日曜日の夜。
進葉の部屋で、宙に恋愛指示表を見つめながら、エロスは唸っている。
風呂から上がり、パジャマに着替えた進葉が「どうしたの」と聞いた。
「小津恵子。ちょっとな。指示表では『幾らモテさせても可。ていうかモテさせろ』。山河次雄も『幾らモテさせても可。ていうかモテさせろ』」
エロスは宙をふよふよ浮きながら「あー、もう。どうしよっかなー」と呟いていた。
「小津さんは既にモテてるよ。あんまりやると、川田和人くんが可愛そうだよ」
「そこが問題なんだよなー。あ、この恋愛指示出してるのは、桑瀬了……。ゼウスだな」
エロスは、うげーという顔で情報を見つめていた。
「小津恵子や山河次雄は、モテさせた方がいいのかも知れない。ゼウスは小津恵子や山河次雄を自分だと思ってるんだ。だから力もこっそり色々と与えてる」
進葉はわけがわからず、エロスの横顔を見る。
「ゼウスはモテさせた方がいいんだ。幾らでも余力はあるし、モテさせないとぶち切れるからな。だから、ゼウスの分身の小津恵子や山河次雄も、モテさせた方がいい。でも俺は、それでいいのかわからない」
エロスは恋愛指示表のデータを見つめながら言った。
「ちょっとぐらいモテさせても、大丈夫だ、寧ろモテさせろって書かれてるんだよな。他のキューピッド共も動きまくってるな」
「他のキューピッド達?」
「俺の仲間や、他から回されてきた奴等だ」
エロスはオムツ姿で溜め息を吐いた。
「どうするかな」
休日が明けた。
進葉はいつも通りに起きて茶色い制服を着替え、身仕度をし、朝食を食べ、兄の次雄と部屋を出た。
家の近くの路地では、次雄の幼馴染みで恋人の、眼鏡を掛けた田村伊緒里が待っていて、三人で話ながら歩いた。
エロスは田村伊緒里を睨んでいたが、田村伊緒里は意に介さず、笑いながら次雄と話していた。
進葉が小さな声で、何故、田村伊緒里を睨むのか聞いたら、エロスはそっぽを向いた。
田村伊緒里は「そう言えば用事があるから」と、足早で校舎に入り、次雄はなんだか溜め息を吐いていた。
「次雄お兄ちゃん、どうしたの」
「……いや。なんか、伊緒里が……ちょっと」
「ちょっと?」
「おっさんぽいっていうか。なんか、辛くて。昔から、ああだっけな。昔は、ああじゃなかった気がするんだけど」
次雄は疲れたように溜め息を吐き、エロスは「そうだろうな」という顔をしていた。
次雄と進葉は別れて、それぞれ別の下駄箱に移動した。
「だって、田村伊緒里にはゼウスが宿ってるからな」
進葉は吃驚した顔でエロスを見つめた。
「え?」
「いつ頃からかな。いつの間にかゼウスが宿ってた。昔はそうじゃなかったんだけど
おっさんだ、おっさん。他にも妻子がたくさんいる。女になって遊んでるんだよ。あいつは山河次雄や、小津恵子が大好きなんだ」
「えっ?」
エロスは遠い目で、正面玄関の向こうの空を見つめていた。
他の生徒が奇妙な顔をしていたので、進葉は渡り廊下を歩きながら小声で話した。
二年三組の教室の扉を開くと、進葉は驚愕に立ち止まった。
生徒達も皆、騒然としていた。
教室のど真ん中で、小津恵子が桑瀬陽太郎に口付けされていたのだ。
桑瀬陽太郎は、目の端に川田和人を見つけると、ニヤリと笑みを浮かべた。
*
『小津恵子や山河次雄は、ちょっとぐらいモテても大丈夫。あなたと違って、ゼウスはこの二人が大好きだから。二人はゼウスの分身だから』
恋愛指示表に映った文字を見て、エロスは溜め息を吐いた。
一方、目の前の二年三組の教室では、他の生徒達の前で、桑瀬陽太郎が小津恵子に口付けをしていた。
桑瀬陽太郎は茶色い髪で背も高く、かなりの美形だ。
長い焦茶色の髪に、気の強そうな小津恵子とのキスシーンはとても美しかった。
川田和人はショックを受けて、立ち竦んでいた。
川田和人も、黒髪で落ち着いた背の高い美形だ。
だが、今は顔に血の気がなかった。
「こんなの困ります……」
顔を赤らめて恥ずかしがる恵子に、陽太郎は「じゃあ恵子ちゃん、放課後ね」とウインクすると、三年三組の教室から去って行った。
戸口の前、廊下でパタパタ飛んでいたエロスは、教室の後ろ側の戸に程近い廊下に目を移し「おい」と進葉を小突いた。
進葉はそちらに、振り返った。
そこには、長い黒髪の小柄な少女が、キューピッドモードの進葉に似た……白い布を纏い、翼と矢筒を背に、弓を手にして、三年三組の教室を見ていた。
誰も、彼女の存在に気付いていない。
少女は、進葉の目線に気付いて青い目を進葉に向けた。
「貴方は……桑瀬菖蒲さん……?」
廊下の窓から風が吹いて、桑瀬菖蒲の、真っ直ぐな長い黒髪を揺らした。
エロスが、菖蒲をじっと見て言った。
「せっかく、離別の矢を放ったのに。お前がやったのか」
桑瀬菖蒲は、表情を変えずに言った。
「……そう。私がやりました。私は指示に従って動くだけ。それだけです。……エロス」
菖蒲に呼ばれて、進葉の隣でエロスは小さな羽根をパタパタさせながら「なんだ」と答えた。
「貴方も指示に従うべきです。本来はエロス、貴方のするべきこと。私は貴方の代わりに任務を遂行しただけです」
菖蒲はそう言うと、元の制服姿に戻って、スタスタと自分の席に戻った。
エロスは「川田和人が可哀想だろうが!どうするんだよ、川田和人は!」と、怒っていた。
チャイムが鳴っていて、進葉も慌てて教室に入った。
教室では皆、ざわざわと騒いでいて、ショックを受けた顔をしていた男子は、川田和人、一人ではなかった。
火坂敦も知花志季も、他の何人かの男の子もショックを受けた顔をしている。
知花志季の傷ついた表情を見てしまって、進葉自身も何だか傷ついた気がした。
(……知花くん。小津恵子さんが……好きなんだ)
進葉は教室を眺めて、呟いた。
「……やっぱり小坂さんは人気だね」
エロスはブレスレットに触れて、愛ヶ丘学園二年三組の人間関係図を呼び出した。
「おお。進葉、見ろ。川田和人に火坂敦、知花志季、風原春、小坂恵子に想いを寄せてるぞ。あと、クラス以外だと桑瀬陽太郎だろ。宮園乙女の兄に……あ、ファンクラブがあるな」
昼休み、進葉は友人の長瀬克美、宮園乙女と一緒に、教室で弁当を食べた。
小津恵子は、男女含めたたくさんの友達と机を寄せ合わせ、某国際的有名ネズミ系プリンセスシリーズの、可愛らしい弁当箱を広げていた。
「何人かの男子が、小津さんを見てるね」
進葉の言葉に、克美と乙女は頷いた。
克美が、ペットボトルでジュースを飲みながら言う。
「そりゃ小津さんモテるもん。明るいし、友達も多いし。スポーツも勉強もなんでも凄い天才美少女だもん。性格も悪くなし。サバサバしてて、親分って慕ってる人も多いし」
「……火坂くんも、小津さんが好きみたい。ずっと小津さんのこと、見てる」
乙女は、火坂敦を見ながら、ボソリと呟いた。
火坂敦は男友達と適当に話ながら、ずっと小津恵子を見つめていた。進葉は、表情の暗い乙女に同調した。
「……知花志季くんも、小津恵子さんの方見てた。あはは……」
進葉は、苦笑いしながら言った。だが、笑いは笑いにならなかった。
知花志季もまた、昼食をとりながら小津恵子の方を見ていた。
「あんた達、暗いね。仕方ないね。小津恵子は超美人で性格もいいのはゆるぎないから」
「……うん、そうだね」
「小津さん、ツンデレだしね」
三人で話していると「仲間に入れて」と、ぴょこっと小さな男の子が現れた。
日谷冬だった。
黒髪で小柄で目が大きく、声変わり前で声も女の子みたいだ。
というか、セーラー服にプリーツスカートで女装をして、髪の毛もふわふわにしている。
「失恋話してるんでしょ? 僕も話に混ぜて!」
「冬くん」
「朝のキス事件、びっくりしたよね! 僕も、火坂くんが好きだったのに……。火坂くん、ずっと小津さんのこと見てるんだ。隣のクラスの東山要くんも、小津さんが好きみたいだし」
口を尖らせる冬に、克美が聞いた。
「冬くんは、火坂くんと東山くんが好きなの?」
「どっちも好きなんだ。だから複雑だよ。宮園さんは火坂くんのことが好きなんだっけ?じゃあ、僕のライバルだね!」
「冬くん、元気だね……」
表情の暗い宮園乙女が言うと、日谷冬は「まあね」と言った。
エロスはパタパタと羽根を動かして、中庭で一人佇む川田和人を見た。
川田和人は、掌に指輪を乗せていた。
エロスの恋愛指示表には『小津恵子とのペアリング』と表示されていた。
お揃いのものだ。
川田和人は、中庭の池に投げ捨てようとしていたが、結局やめたようだった。
迷っているみたいだった。
エロスは川田和人の情報を見た。
彼は真面目だが、恵子以外とも恋愛はそれなりに経験があるみたいだった。
恋愛指示表の指示は『小津恵子をモテさせろ』だった。川田和人はどうしたらいいのだろうか。
「……俺、どうすればいいんだろ」エロスは呟いた。
川田和人の傍には何人かの男友達がやって来て、川田和人を励ましていた。
女装した小柄な男の子、日谷冬も、川田和人の元にやって来て元気付けていた。
放課後、進葉は長瀬克美、宮園乙女と一緒に校門まで歩いていたら、また校門のところで人混みが出来ていた。
嫌な予感がして進葉が覗いたら、何だか、何人もの友人と帰ろうとしてた小津恵子と火坂敦が言い合いをしていた。
長い焦げ茶色の髪に、ほっそりとスタイルのいい小津恵子と、髪が明るい茶色で背が高く、気の強そうな目付きの火坂敦が並ぶと、何だか絵になった。
「……一体何なのよ。私、これから帰るんだけど。バイトもあるし忙しいの」
「俺はお前が好きなんだ!」
火坂敦はそう叫ぶと、小津恵子に口付けした。
観衆は、ざわついていた。
「うわー、すげー」
「告白だ。告白」
進葉が宮園乙女を見ると、乙女は茫然としていた。
何だか表情が無い。
「はっ、恥ずかしいからやめてよ!」
「だって俺、お前が好きだもん。藤田と別れたなら俺と付き合えよ」
火坂は、大衆の面前で腕を組んでいいのけた。
恵子は困り顔で、友人達と去っていく。
宮園乙女はその場から走り出し、進葉と克美は乙女を追い掛けた。
乙女に追い付いた進葉と克美は、ひとまず近くの公園に寄って、ベンチに座り、宮園乙女を励ました。
宮園乙女は言った。
「……何かね。私、余り吃驚してないの。何となく、こうなるんじゃないかなって思ってたから。今朝、桑瀬陽太郎先輩にキスされる小津さんを見る、火坂くんを見てから……」
「……宮園さん。……うん、そうだね。知花くんも、小津さんが好きだし……。黙ってないで、何かするかも知れない。……嫌だけどさ」
進葉も、乙女に同意した。
長瀬克美は「男は他にもいるよ」と言うが、乙女は暗い顔付きで言う。
「小津さんとは小さいときから一緒の幼馴染みだけど。私が好きになる男の子、みんな、小津さんを好きになった気がする。本当はそんなことも、ないのかも知れないけど。これからも、そうなったら嫌だな。小津さんは私と違って友達が多いし、美人だし。私は上手く行かないことばかりなのに、小津さんは上手く行くんだ。まるで私に見せ付けるみたいに。だから、私、小津さんは余り好きじゃない」
暗い顔付きで、乙女は言った。
「……多分、藤田くんと別れても小津さんの相手は幾らでもいるし。すぐに見つかる。小津さん自身も、それをわかってるよ。今までそうだったし、きっとこれからもそう。小津さんはたくさんの人に愛されてて、それが当たり前なんだ」
小津恵子はバイトを終えると自宅に戻り、まったりしながら、スマホで友人と話していた。
「だからあー、私は勉強に集中したいの。あっちから来るんだもん。困るんだよね。それよりさあ、また皆で遊ぼうよ」
川田和人は、友人の家で友人に囲まれながら愚痴っていた。
だが、友人が彼の支えになっているようだった。
翌日、エロスは何だか梅柄のオムツを穿いて、進葉の部屋にある熊のぬいぐるみをつついていた。
朝、教室に入ったら、また皆が騒然としていて、その騒ぎの真ん中には、また小津恵子がいた。
進葉が人混みから顔を出すと、対しているのは、知花志季と風原春で、進葉は嫌な予感がした。
そしてまた、知花志季が公衆の面前で、小津恵子に「好きだ!付き合ってくれ!」と叫んだ。
風原春も「俺だって君が好きなんだ!付き合ってくれ!」と叫び、志季が小津恵子の右頬に、春が小津恵子の左頬に口付けした。
クラスの皆は「おお~!」と口々に叫び、進葉はがっくりした。
戸口には、他のクラスの子達も見に来ていた。
隣のクラスのかっこいい男の子、東山要が落ち込んでいて、日谷冬に元気付けられていた。
小津恵子は、何だか苛ついている。
「……なんなの、もう……好き勝手にさ。わかったわよ!」
小津恵子はドン、と机を叩いて思いきり立ち上がった。
「そんなに言うなら……わかった。もう、私のことが好きな奴は皆、来なさいよ!纏めて相手してあげるから。それでいいならね! その中で一番、いいと思った人と付き合うわ! それでいいわね」
川田和人は、もう疲れたようで半目だ。
知花志季と風原春、火坂敦は喜んでいた。
「絶対、俺が恵子ちゃんと付き合う」
風原が言う。
「……いや、恵子さんと付き合うのは僕だ」
知花も主張し、火坂も「俺だって負けない」と拳を握っていた。
小津恵子は溜め息を吐いて、腕を組み、疲れたように男達を見つめ、ぱっちりした瞳を瞬かせていた。
長い焦げ茶色の髪で、気が強く明るい表情だ。
窓から差し込む光の中で、小津恵子は美しく輝いていた。
廊下には、キューピッド姿の桑瀬菖蒲が変身を解き、元の制服姿に戻って席に着いた。
進葉は、何だか疲れて溜め息を吐き、小さくうずくまり、呟いた。
「……私、もう、やだな……」
進葉の近くの空間にも、恋愛指示の文字が青白く光り、浮かび上がった。
「お前への指示だ。進葉。お前も愛の神キューピッドの遣いとして登録されたから」
「指示……」
進葉の隣で、エロスが小さな羽根を動かしながら説明する。
「キューピッドの矢も、基本は二つだったんだが、今は、より、任務を円滑に進めるために、複数ある。桑瀬菖蒲が使ったのは、具体的な行為を起こさせるための矢……。『口付けの矢』だ。こういう類は、恋愛指示帳に詳細な指示と使用許可がないと使えない。桑瀬菖蒲の元に、指示が降りたんだ」
エロスが言い終わらない内に、苛ついていた小津恵子は、乱暴に火坂敦の襟元をつかんで口付けし、知花志季にも口付けし、風原春にも口付けし、川田和人に口付けした。
「これでいいわけよね」
小津恵子はそう言うと、席に戻り、数人の女友達と話しはじめた。女友達は焦っているみたいだった。
進葉はポロポロと涙を溢した。宮園乙女も泣いていた。
「小津恵子さんて、一体、なんなの」
「まるでヘレネだな」
エロスは呟いた。