山河進葉の日常
三十代前半にホワイトハート文庫に投稿した小説です。
第一章 山河進葉の日常
辺りは暗闇に包まれ、じっとりと湿り気を帯びていた。
闇の中に、いやなものが浮かび上がる。
猫の死体、鳥の死体。たくさんの人の死体。
狼のような魔物のけたたましい唸り声や、咆哮が響き渡る。
傷ついた白い羽根を背に、その少年は息を切らせ、走っていた。
翼は血で染まり、意味をなしていない。
進葉は、少年が走るのを離れた場所で、ただ見つめていた。
狼のような魔物が少年に追い付き、牙を剥いて襲い掛かる。
(あぶない!)
少年の羽根はむしられ、血が滲み、そして……。
「……っ!」
恐怖に進葉が目を瞑ると、いつの間にか、そこは闇の中ではなく、見慣れた自分の部屋だった。
少年も魔物も、どこにもいない。
りんご柄のカーテンの隙間からは眩い光が溢れ、目覚まし時計がやかましく鳴り響き、階段の方から「進葉、起きなさい!」と母が呼ぶ声が聞こえる。
進葉は上半身を起こし、額の汗を拭った。
(……何度目だろう。この変な夢)
進葉はぐったりした表情で溜息を吐き、窓の外を見つめた。
「……なんだったんだろう」
ここ最近の変な夢を除けば、山河進葉の一日は大体決まっていた。
目覚まし時計の音と、母親の呼ぶ声で目を覚ます。
目覚ましのスイッチを切って、のろのろとパジャマから、学校指定の茶色のセーラー服に着替える。
新葉の通う、愛ヶ丘学園高等部の女生徒の制服は、茶色の襟とプリーツスカートに、胸元で紺色のリボンを結んだもので、靴下は紺色のハイソックスだ。
進葉は姿見で、ちゃんとリボンを結べているか確認すると、鞄を手に部屋を出た。
洗面所で顔を洗い、歯を磨き、色素の薄い髪をブラシで解かし、ドライヤーでブローしてヘアゴムで髪の一部を結ぶ。
前髪は癖で、どうしても浮いて、開いていた。
鞄を手にリビングに入ると、テーブルには新聞を広げた、眼鏡を掛けた父の紳と、片付けをする兄の次雄がいた。
「おはよ、進葉」
「おはよ。次雄お兄ちゃん」
「一緒に行くか?」
「うん」
「じゃ、俺、玄関で待ってるから」
そう言って、次雄は鞄を持ちリビングを出た。
兄の次雄は進葉とは一つ違いで、同じ愛ヶ丘学園高等部に通っている。
次雄は茶色の髪で、男のわりには女みたいに綺麗な顔をしている。
学校指定の茶色のブレザーで、シャツは首元を緩め、紺色のネクタイを締めていた。
進葉は、明るいが、何だか謎めいた兄の次雄が好きだった。
「ほら、早く食べちゃいなさい。もう七時半よ」
エプロン姿の母、由美に急かされて、進葉は卵かけご飯に醤油を入れて平らげ、牛乳を飲み、リビングを離れた。
玄関では次雄が靴を履き、鞄を抱えて進葉を待っている。
進葉は鞄を持ち「行ってきます」と玄関で靴を履き、次雄と共に家を出た。
愛ヶ丘学園は、家からそんなに離れていない。
一キロ弱、閑静な住宅街から、駅に向かう方向とは反対に、田畑が広がる郊外へ向って歩いていれば、程なくして着く。
愛ヶ丘学園は中等部と高等部が並立しているので、通学路では双方の生徒らが混ざって、春の田んぼの脇道を歩いていた。
中等部の制服は、色が青色という以外に、デザインには余り違いはない。
だが、進葉は中等部の生徒達が、鞄をいっぱいに膨らませて歩いているのを見て、中学時代の自分を懐かしく思い出した。
自分も、膨れた鞄に加えて、体育着の入ったスポーツバッグ。
二つを肩に掛けて、毎日、中学校に通ったものだ。
高校では、何故か規則が緩くなり、置き勉……すなわち、教科書やノート、体育着を置いておくことが許されているが。
勿論、体育着はそのままでは汚いので、ちゃんと使った日は持って帰る。
もう、中学時代から一年経ったのだなと、進葉は感慨に浸った。
愛ヶ丘市は、関東地方の都会と田舎が混ざり合った狭間辺りにあり、田園地帯は隣の市まで、広く続く。
五月の始まりの今、田んぼは一面に水が張られて、鏡のように青空を映していた。
その水面をアメンボやオタマジャクシが泳ぎ、畦道はツユクサやスギナやヨモギが茂って朝露を浮かべている。
「どう。新しいクラスは慣れた?」
田んぼ脇の歩道を歩きながら、穏やかな笑顔で聞いてくる次雄に、進葉は「うん」と答えた。
「前のクラスの友達とはみんな離れちゃったけど、今も友達だし。新しく友達も出来たよ」
「そうか。進葉は大人しくて引っ込み思案だから心配だったけど。それなら良かったよ」
「……えへへ」
行き交う女生徒達が、次雄を見てきゃあきゃあ、ミーハーな声を上げて騒いでいた。
次雄は優しいし、明るくてかっこいいしスマートだ。
勉強もスポーツも得意だし、ファンクラブもある。
そんな兄が、進葉には自慢だった。
「次雄お兄ちゃん、かっこいいよね」
「そうか?妹のお前が言うなよ」
「だって、みんな、あんなお兄さん羨ましいって言うよ。次雄お兄ちゃんは私の自慢だもん」
「褒めても何も出ないよ」
次雄はそう言って笑い、進葉の頭を撫でた。
すると、背中から「相変わらず仲がいいのね」と聞き慣れた若い女の声がして、進葉と次雄は振り返った。
そこには、進葉が思った通りの、眼鏡を掛けた長い黒髪の女生徒が微笑んでいた。
「伊緒里さん」
「やっほー。おはよ、二人とも」
二人の幼馴染みの由田伊緒里だ。
次雄と同じ三年三組で、次雄と付き合っている。
幼稚園の頃から、次雄と仲良しだった。
進葉と次雄は、伊緒里と並んで歩いた。
「聞いてよ、次雄くん。昨日さあ」
「ああ、何?」
次雄と伊緒里が仲良く話す後ろ、進葉は一歩遅れて歩いた。
(……なんか、お邪魔してる気になっちゃうなあ)
田んぼの脇道から学校に近付くと、程なくして桜並木が現れる。
花弁が随分散って、緑の葉を茂らせた桜並木の道を歩けば、愛ヶ丘学園の校門だ。
校門の前では、スーツ姿の中年の男性教師が一人、立っていて、生徒達に「おはよう」と声を掛けていた。
生徒達も適当に「おはようございまーす」と帰して敷地に入るが、風紀的な面で目に付いた生徒は、呼び止められてチェックを受けなくてはならない。
案の定、数人の女性徒がスカート丈が、短すぎると呼び止められていた。
進葉も、髪の色素が薄いので、何度か呼び止められたことがある。
確か、母方の親戚に欧米人がいるとかで、多分、隔世遺伝で、髪の色素が薄いのだ。
それを、傍にいた次雄が説明してくれて、事なきを得た。
……本当は、自分の口で説明出来るのが一番なのだろうが……。
その点で、進葉の心には多少のしこりが残った。
(……私、自分でちゃんと言えれば良かったのにな)
自分の臆病さには辟易する。
他には、何も言われることはない筈だ。
幸い、今日も教師には呼び止められずに済んで、進葉はホッとした。
階段を登り、次雄と伊緒里と別れ……進葉は、二年三組の下駄箱で上履きに履き替えた。
こっそり、次雄と伊緒里が一瞬だけ口付けを交わすのが見えた。
(……うわああ。見ちゃった)
その後に次雄と伊緒里は、後から来たクラスメート達と仲良さげに話をしていた。
進葉は顔を真っ赤に染め、溜息を吐いた。
そんな進葉に、後ろから「おはよ」と声が掛けられた。
振り返ると、同じクラスの火坂敦だった。
「……お、おはよう。火坂くん」
火坂敦は、剣道部で去年、全国大会に出た。
背が高くて運動神経が良い。
今まで、話し掛けられたことなどなかったので、進葉はビクビクしてしまった。
「お前の兄ちゃん、朝っぱらから良くやるな」
進葉は、ああ、見られちゃったんだと思いながら「……あはは」と、苦笑いするだけだった。
「見ちゃった?」
「見ちゃった」
火坂敦は上履きを履きながらそう言うと、鞄を片手に、渡り廊下へ歩いて行った。
いつも進葉は時間ギリギリになりがちになるが、今日はまだ、時間的に少し余裕があった。
進葉が二年三組の教室に入り、窓際の真ん中より少し後ろにある自分の席に着くと、最近仲良くなったクラスの女の子二人が話し掛けてきた。
長瀬克美と宮園乙女だ。
長瀬克美は長い黒髪で、宮園乙女は黒髪を縛っている。
二人とも進葉と同じで、クラスでも地味な方だ。
「さっき廊下でね、隣のクラスの女の子達が、山河さんのお兄さんに彼女はいるのかって話してたよ」
宮園乙女の報告に、進葉は「ああ……」と少し気まずそうに言った。
「本当に次雄お兄ちゃん、モテるなあ。お兄ちゃん、同じクラスの人と付き合ってるよ。田村伊緒里さんっていうんだけど。幼馴染なんだよ」
「……ふうん、そうか」
「さっきの子達、残念。でも、やっぱ、あれだけのイケメンは、女が放っておくわけないよね。山河さんのお兄さん、超イケメンだもん」
腕を組みながら言う長瀬克美の言葉に、進葉は「うん、そうだね」と頷いた。
「山河さんも宮園さんも、彼氏がいてもおかしくない可愛さなんだけどねえ」
「そう言う長瀬さんは彼氏いるの?」
「いない。欲しい。この前、クラスの人、皆に聞いてみたけど、このクラスの三分の一は彼氏彼女いて、吃驚したよ」
長瀬克美の言葉に、進葉と乙女は「うひゃあ……」と声を上げて顔を見合わせた。
長瀬克美は人差し指を頬に当てて「例えば……」と、教室の前の扉付近で話している、男子と女子を指差した。
「小津恵子さんと川田和人くん。あの二人、去年も同じクラスで、半年ぐらい付き合ってるもん」
進葉と乙女は、克美に言われて二人を見た。
確かに、小津恵子と川田和人が笑顔で話をしていた。
小津恵子はクラスの女子でも、中心的な存在だ。
髪の毛が長く焦げ茶色で、明るく気が強い美人だ。
友達も男女共に凄く多くて、良く、色んな子と騒いで笑っている。
誰とでも友達になれるタイプなんだなと、進葉は羨ましく、遠くから眺めていた。
一方、川田和人は落ち着いていて、顔立ちが整っていて背が高く格好いい。
「本当だ。仲良さげに話してるね」
「ふうん。付き合ってたんだ。あの二人。美男美女だよね」
進葉と乙女に、克美は頷いた。
「クラスの男子達はがっかりしてるよ。裏でこっそり美人番付なんかしてさあ。人気の美人には、既に彼氏がいるんだもん」
長瀬克美は、さりげなく『男子が美人番付をしていた』という、聞き捨てならない情報を溢した。
が、進葉と乙女が何かを言う前に、克美が人差し指を立てた。
「あのさあ。あんた達、遅れてるよ。とっとと彼氏作らなきゃ。花は短し恋せよ乙女だよ。二人は、どういう男の子がタイプなの? このクラスでいうと」
長瀬克美の言葉にせかされて、進葉と乙女はそれぞれ気になる男子の方を見つめて、頬を染めた。
克美が「ふむふむ」と、二人の視線を辿る。
進葉は廊下側の前の方の席にいる、物静かな黒髪の男の子を見ている。
クラスの人間がうるさく騒ぐ中で、一人静かに、見慣れない赤いテキストやノートを捲って、シャープペンシルを走らせている。
長瀬克美は、小声で分析した。
「ふむ。知花志季。常に成績は学年トップの優等生。但し、無愛想。いつも塾で忙しい」
次に、克美は乙女の視線を辿った。
乙女は真ん中より少し窓際の列の後ろの席で、他の男子生徒と賑やかに騒いでいる、気の強そうな男の子……火坂敦を見ていた。
「火坂敦。剣道部で去年は全国大会に出場した。運動神経はピカ一」
「やめて、言わないで! ていうか、何で視線だけでわかるの!」
「小さい声だから大丈夫」
進葉と乙女は、顔を赤くして俯いた。
「み、宮園さん、火坂くんが好きなんだ」
「……うん」
乙女は夢見るように、坂敦について語る。
「あとねーー、火坂くんはねーー……」
「……宮園さん、火坂くんに夢見過ぎじゃない?」
進葉が乙女の言葉につられて火坂敦の方を見ると、目が合って、進葉も敦もなんとなく視線を逸らした。
進葉は、知花志季の方を見たが、目は合わなかった。
「……あんたら、いいねえ」
しみじみと言う長瀬克美に、進葉も聞き返す。
「あの、そういう長瀬さんの彼氏はどんな人なの?」
「私?彼氏いない。タイプは秘密」
長瀬克美はそう言って笑い、二人に「ずるい!」と言われていた。
「えへへー。ごめんねー」
そこで、眼鏡を掛けた担任教師の谷村が入ってきて、クラスの生徒みんな、慌てて自分の席に着いた。
二人の友人から好きな相手を聞き出して、ほくそ笑んでいた長瀬克美は、席に着くのが遅れてしまい、注意されていた。
*
一日の授業が一通り終わると、進葉、克美、乙女の三人は一緒に下校して、田んぼ脇の交差点で別れた。
宮園乙女と長瀬克美は、他の離れた市から電車通学しているので、このまま駅に向かう。
進葉は用水路に掛かる、小さなコンクリート橋を一人歩きながら、ふと、揃えている漫画の新刊が既に出ていることを思い出した。
(そういえば、もうあの漫画の新刊、出てるよね。駅前の本屋に寄ろうかな)
進葉は、一旦、道を戻って、駅前の方角に向かった。
日は傾いていて、通りすがる人々や、電信柱や、住宅街の影が長く伸びていた。
この時間帯の駅前通りは、生活感に溢れている。
軽トラックや新聞配達のバイクが通りすがり、おばさんが、葱や大根のはみ出した買い物袋をカゴに詰めた自転車で走り去る。
小型犬を連れて散歩する女の人や、杖を突いたお爺さんが、すれ違う。
小学校帰りの男の子達がランドセルを背負いながら、駄菓子屋に詰めかけて、流行りのカードゲームで遊んでいる。
(どうせ駅前に寄るなら、長瀬さんや宮園さんの二人と一緒に行けば良かったな)
進葉は、駅前の繁華街にある本屋で漫画の新刊を買うと、近くのデパートに寄ってシャープペンシルの芯や消しゴムも買おうかと、裏路地に足を向けた。
夕暮れ頃。
駅前通りからデパートに向かう裏路地は、何だか妙な空気が佇んでいた。
電信柱と張り巡らされた電線で空が狭く、カラスが何羽か電線に留まっている。
幾つもの小さな居酒屋は提灯が灯り、スナックの看板が並ぶ。
この、妙な空間を居心地悪そうに歩きながら、進葉はその店を見つけた。
何だか、そこだけ違う空気を纏って、その店はあった。
少女の横顔を象った鋳物の看板がぶら下がり、足元には陶器や磁器の壺や硝子の瓶が幾つも並んでいる。
店内は、ステンドグラスの写真立てが幾つか飾られ、白い磁器で造られた青い目の人形が、赤いドレスを着て飾られているのが見えた。
(アンティークショップかな?)
進葉は何となく惹かれて、店内に入った。
店内は、幾つかのランタンの火だけで明かりが照らされていた。
アロマの香を焚いたような匂いがして、木製のカウンターには誰もいない。
小さな店内には、ところ狭しと、様々なものが飾られている。
細工を施された硝子の燭台や、銀色のお皿やスプーン。
分厚い羊皮紙の古い本達に、何だか良くわからない顔の木彫りの人形。
動物達の粘土細工。
チャイナ服の人形のオルゴールに、ガラスのどくろ、木製のコーヒーミル。
進葉は、棚の上、小さな木箱に詰め込まれたアクセサリーを覘いて、その中である石に目が留まった。
ハートの形に削られ、磨かれたピンク色の石だ。
(綺麗なピンク色だな。天然石かな?)
進葉がじっと見つめていると、後ろから声がした。
「それはね、私がギリシャで見つけたのよ」
びっくりして進葉は石を置いた。
後ろには、エプロンを付けた、ふんわりした茶色い髪の女がいた。
「ふふっ。このお店は、私が世界を旅してあちこちで『いいな、面白いな』と思ったものを置いているの。その石は私がギリシャのお店で買ったのよ。なんか、学者さんが遺跡で発掘したものに手を加えたみたいね」
「これ、何の石ですか? ローズクォーツ?」
「それが、鑑定してないからわからないのよね」
「わからないんですか?」
「うん。未知の謎の石」
女は、お茶目に笑った。
「でも、綺麗でしょ。本当は五千円ぐらい欲しいの。でも、お嬢さんには無理そうだから、千円にまけてあげるわ。何の石か鑑定もしてないしね」
「本当ですか!」
進葉は学校指定の鞄から、リスの姿をした財布を出し、千円札を引っ張り出した。
進葉は店を出ると、空は少し暮れかかっていた。
進葉は可愛いチェック柄の包み袋から、ピンクのハートの石を取り出して、暮れかかった太陽に透かしてみた。
石は、キラキラと反射して光を帯び、アロマのいい匂いがする。
(綺麗だな。そうだ。これ、ハンドメイドで髪飾りにしよう)
進葉はデパートの雑貨店舗に行くと、消しゴムと強力ボンド、それにハンドメイドコーナーで、ブローチの土台とヘアゴムを買った。
*
進葉は、何となく、デパート内をうろうろして、近くの店舗を眺めた。
目的のものは買ったが、やはり、せっかく来たなら色々と見たくなるものだ。
何となく、花びらを浮かべた綺麗な石鹸やバスソルトを見ていたら、すぐ近く、茶色い髪におしゃれな格好のカップルが、腕を組んで仲良く話していた。
進葉は、ほんの少し居心地が悪くなり、その場を離れてトイレに入った。
手を洗い、鏡で自分の顔を見つめた。
隣では、二十代ぐらいの綺麗な女が、ブランドものの化粧ポーチを手に、顔にスティックタイプのコンシーラーを塗っている。
その隣でも、若い女がポーチを開いて、ビューラーで睫毛を上げている。
進葉は何だかどぎまぎして、その隣で前髪を弄った。
背が低く、髪は色素が薄く、癖っ毛で前髪を幾ら撫で付けても、おでこが開いてしまって、溜め息を吐いた。
(……どうしても、前髪が開くなあ。背も、宮園さんや長瀬さんより小さいしなあ)
ふと、長瀬克美の「恋せよ」という言葉を思い出した。
(……恋と言っても)
進葉は、同じクラスの知花志季の顔を思い出して、ほんのり、頬をピンクに染めた。
手をハンカチで拭きながらトイレを出ると、近くの雑貨コーナーで先程見掛けたカップルが、何だか口喧嘩をしていた。
「だから、あんたって嫌なのよ。いっつもグズグズして」
「うっせえな。俺だってお前みたいなのより、もっと気が利く女の方がいいんだよ」
進葉は吃驚して、カップルを前に立ち止まった。
(さっきは、あんなに仲が良かったのに……)
進葉は、カップルから少し離れたところで、一人の女が、それを見ていることに気付いた。
進葉と同じ、愛ヶ丘学園高等部の茶色い制服だ。
長い銀髪に切れ長の瞳、スラッとした立ち姿。
(……あの人は。見たことある気がする。確か……)
進葉は必死に考え巡らせて、彼女が、確か愛ヶ丘学園でも多額の寄付をしていることで有名な桑瀬家の令嬢、桑瀬馨子だと思い出した。
確か父親はギリシャ考古学者らしい。
いつだったか、体育館の朝礼で校長が話したり、生徒らが噂するのを聞いた覚えがある。
そのとき、桑瀬馨子か、口元にクスッと笑みを浮かべたのを見て、進葉は戦慄した。
桑瀬馨子は、仲違いをするカップルを、楽しそうに見つめている。
だが、桑瀬馨子は進葉の視線に気が付いて「何、見てんのよ」とでも言うかのように進葉を睨んで、長い銀髪を掻き上げ、去っていった。
「これ、落としたわよ」
ボケッと突っ立っていた進葉は、後ろから声を掛けられ、慌てて振り返った。
長い黒髪の少女が、進葉のハンカチを手に立っていた。
睫毛が長く、瞳も青色でどこかミステリアスだ。
愛ヶ丘学園高等部の、茶色いセーラーとプリーツスカートの制服を着ている。
「あ、ありがとう!」
進葉が慌ててお礼を言うと、長い黒髪の少女は、口喧嘩をするカップルを尻目に、そのまま桑瀬馨子に声を掛けた。
「馨子お姉様、行きましょう」
「菖蒲。もう、用事はいいわけ?」
「……はい。ノートや筆記用具は揃えました。付き合わせてしまい、申し訳ありませんでした」
進葉がボンヤリしている内に、菖蒲という長い黒髪の少女は、頭一つ背が高い桑瀬馨子と共に、エスカレーターの方へ去っていった。
雑貨売り場にいたカップルは「別れる」と、口喧嘩を続けている。
進葉は何だか、妙な想いを抱きながらその場を立ち去った。
夕暮れの影が長く伸びる駅前の並木通りを歩きながら、桑瀬馨子は、長い黒髪の少女……妹の菖蒲と話した。
「……また、壊したのですか」
「まあね」
「任務帳に載っていたのですか」
「……私や兄様は例外で、好き勝手を認められているわ。それに、あのカップル、声が大きくて目障りだったんだもの。茶髪同士って私の好みじゃないし」
馨子は長い銀髪を掻き上げ、そう、つまらなそうに言った。
「私のしたことが気に食わないなら、あんたがどうにかしてやればいいじゃない」
「任務ならば動きます。私はただ、指示に従うだけです」
菖蒲は馨子に、そう冷たく言い放った。
道を歩く馨子に、話していたカップルの女の方が不注意でぶつかった。
「あっ、すみません!」
「馬鹿、お前何やってるんだよ」
少女を少年が手を引いて、馨子に頭を下げた。
同じ愛ヶ丘学園高等部の茶色い制服だった。
「……ふうん」
馨子はそう呟くと、右手のブレスレットについていた石を押した。
すると、馨子の目の前、宙に青白く光る文字が羅列された。
馨子はタブレット画面を操作するかのように、操作して情報を引き出した。
「……愛ヶ丘学園高等部二年三組。小津恵子。同じく二年三組、川田和人」
宙に二人の顔の映像や、名前、その他の情報を現した文字が、青白く浮かび上がり、その隣に『指示帳を見ますか?』という質問と『YES』、『NO』の選択肢が表示された。
馨子の横顔を、菖蒲は黙って見つめていた。
「馨子お姉様……」
「だって、私の好みのカップルじゃないんだもの。でも、私は、可愛いタイプには優しいのよ」
馨子はクスッと笑った。
日はすっかり暮れて、夜が訪れていた。
自宅の風呂に浸かりながら、進葉はぼんやり、駅前デパート内での出来事を、思い出していた。
湯船には紫色の入浴剤が入っていて、ラベンダーの香りがする。
(何で、あの……雑貨売り場にいたカップルは、突然に仲が悪くなったんだろう。何で、桑瀬馨子先輩があそこにいたんだろう。……何で)
進葉の脳裏に、菖蒲という少女の姿が思い浮かんだ。
(あの、菖蒲っていう子。同じ愛ヶ丘学園高等部の制服だけど、見たことない。誰だろう。凄く綺麗な子だったな)
進葉は風呂から出ると、早速、部屋で、今日買ったものの中身を出した。
安全ピンの付いたブローチ台に、強力接着台を絞り、ピンクのハートの石を張り付け、安全ピンにヘアゴムを取り付けた。
「出来た!」
進葉はピンクのハート石が付いたヘアゴムで髪を縛り、百円ショップで買った大きめの鏡を立てて覗いた。
「……うーん。どうしても前髪が開くなあ」
その日の夜は、不思議と夢は見ずにぐっすりと眠れた。
翌日、進葉は寝坊をしてしまい、慌てて飛び起きた。
「目覚まし鳴らなかった!」
制服を着ながら、「そうだ」とハートの石のヘアゴムを取り出して、髪を結った。
次雄はとっくに、幼馴染みの伊緒里と行ってしまったようだ。
進葉は制服に着替え、トーストを食べ、鞄を引っ掴んだ。
何だか、髪飾りのハート石が少しだけ光を帯びた。
*
学校は既に予鈴のチャイムが鳴っていて、進葉は汗だくで息を荒げながら、どうにか席に着いた。
すぐ後ろの席の宮園乙女が、心配して「大丈夫?」と聞いてきたので、進葉は「大丈夫」と、ぐったりした声で返した。
宮園乙女と長瀬克美は、進葉がハートの石のヘアゴムで髪を結っているのに気付いて「それ、可愛いね」と褒めてくれた。
やがて、教室の黒板近くの扉が開き、眼鏡を掛けた担任教師と共に、長い黒髪に紫色の瞳の美少女が教室に入ってきた。
教室内は騒然とし、進葉も驚きに目を開いた。
(あの子……!)
担任教師が黒板にチョークで『桑瀬菖蒲』と名前を書く。
「えー、彼女は桑瀬菖蒲。お父さんがギリシャの考古学者で、彼女自身もギリシャにいたが、最近、お父さんの都合で日本に帰国したとのことだ。三年には既に兄姉がいる。桑瀬陽太郎と馨子兄妹だ。彼女はその妹ということになる。皆、仲良くするように」
男子達が色めき立ち、騒ぎ出す。
「転入生だ、転入生だ」
「あの美男美女の桑瀬兄妹の妹なんだ」
「きれーな髪!」
火坂敦も騒いでいて、進葉はつい、知花志季の方を見た。
だが、知花志季は何の感動もなく、教科書を机から出していた。
「えー、山河進葉のすぐ後ろの席が空いてるな。桑瀬、そちらに座りなさい」
桑瀬菖蒲は「はい」と小さな声で答えると、進葉のすぐ後ろの席に座った。
隣に座っていた川田和人が「教科書、一緒に見る?」と菖蒲に聞くが、菖蒲は「あるから大丈夫です」と、すげなく断り、鞄から教科書やペンケースを出していた。
休み時間、クラスの子が菖蒲の席に集まって矢継ぎ早に質問していて、進葉は入り込めそうもなかった。
ただ、菖蒲はポツリポツリと返すだけで、興味なさげに外の景色ばかり見ている。
なので、やがては、クラスの子達もあれこれ聞くのをやめて、いつも通りのグループに戻り、話し出した。
進葉は、窓際の後ろの方で、小津恵子と川田和人が何か口喧嘩をしているのに気付いた。
長い茶髪の美人で、クラスでも中心的で目立ち、明るく元気な小津恵子が「もう耐えられない」と言っていた。
「ねえ、何でデートしてくれないの? そのくせ、美人の転入生には優しくしてさ」
「教科書持ってるか聞いただけだし。家の仕事が忙しいんだって言ってるだろ」
「どうにか空けてくれたっていいじゃん」
「お前は働いてる男と働かない男だったら、働いてる男のがいいだろ」
「少しも休み入れてくれないよね。全然、私の相手してくれないし」
チャイムが鳴り、次の時間担当の数学教師が入ってきて、小津恵子と川田和人も元の席に戻った。
進葉は、桑瀬菖蒲も二人を見ていたことに気付いた。
だが、桑瀬菖蒲は進葉の視線に気付いて、小さな声で言った。
「貴方は……」
「わ、私? 私は進葉! 山河進葉! あの、昨日デパートで会ったよね! 仲良く……」
慌てる進葉の言葉を、菖蒲は遮って言った。
「……そう、昨日も今日も、貴方は気付いてたわね」
「え……」
「いいえ、何でも」
体育の時間、小津恵子はいなかった。
桑瀬菖蒲もいなかった。
ボーっとしていた進葉は、ドッジボールで派手に転んでしまった。
「大丈夫? 山河さん」
「血、出てるよ! 保健室に行きなよ」
進葉は長瀬克美と宮園乙女に「大丈夫」と笑いながら、教師にも保健室に行くように言われたので、保健室に入った。
だが、そこで、驚くべきものを見てしまった。
はじめ、進葉は「すみません」と小さな声で保健室の扉を開こうとしたが、扉には『ただいま、用事で留守です』と書かれた紙がマグネットで貼り付けられていた。
そろっと扉を開くと、保健室には誰もいなかった。
いや、誰もいないように見えた。
だが、一番奥のベッドが白いカーテンで覆われ、何だか声が漏れていた。
「先輩……」
聞き覚えのある声に、進葉は立ち止まった。
白いカーテンは少し隙間が開いていて、そこに小津恵子の姿が見えた。
「小津さ……」
進葉は声を出し掛けたが、カーテンの隙間から、小津恵子が男と口付けするのが見えて、慌てて手で口を抑えた。
小津恵子は茶色い髪の男と深く口付けを交わしていた。
「陽太郎先輩。私……」
「俺、君が好きだよ、恵子ちゃん」
何だか、衣擦れとくぐもった声が聞こえる。
進葉は余りにショックで、呆然と立ち尽くした。
(そんな……。川田和人くんは……)
進葉は、必死で物音を隠してその場を離れた。
すると、階段からクスクス、女の笑い声が聞こえて、進葉は足を止め、壁に隠れた。
(私、何やってるんだろう。嫌なもの見ちゃった)
進葉が頭を抱えていると、階段からは桑瀬馨子が笑いながら現れた。
「あはは! ねえ、見た? さっきの藤田くんの顔! 寝取られて凄くショック受けてるの。面白かった。今頃どこかで泣いてるわね。うーん、可愛いわ」
そのすぐ後ろから、桑瀬菖蒲が現れた。
「馨子お姉様……。」
「私は、可愛いげのある子が好きなの。可愛いげない子はキラーイ。アハハ。可愛いげのない子も、ショックを受けたり酷い目に遇うと、可愛く思えるんだけど」
「あんなことをして……」
「可哀想って思うなら、あんたが戻してやれば。あ、でもあんたは命令以外は動けないんだったっけ」
「……彼女は兄様に……」
「彼女は本気でしょうね。兄様にとっては、数いる女の一人。それだけ。すぐ忘れちゃうでしょうけどね」
「姉様も兄様も昔は、そんなんじゃ……」
「昔は昔よ」
桑瀬馨子と菖蒲は、そのまま去っていった。
壁の後ろから聞いていた進葉は、溜め息を吐き、わけがわからずボンヤリしていた。
「何……。どういうこと」
進葉はその場を離れると、授業に戻ろうと、校庭に出た。
途中、水飲み場の近くで、藤田が小さくうずくまり、泣いていた。
進葉は見てはいけないものを見たような気がして、出ていくことも出来ずに、踵を返して教室に戻った。
教室には誰もいなくて、隣の教室から教師の声が聞こえる。
進葉は窓際の席に戻ると、のそのそと制服に着替え、席に座り、机に突っ伏した。
(……私、何やってるんだろう)
窓の外からは、ドッジボールやテニスなどで騒ぐ生徒らの声が聞こえる。
先程見たものを思い出し、進葉は「うあああ」と頭を抱えた。
「どう思う?」
どこからか、少年の声が聞こえた。
「ふぇ?」
進葉が顔を上げると、目の前に小さな金髪の男の子がいた。
目が青く梅柄のオムツ姿で、背中に矢筒を背負い、何だか宙に浮いている。
背中には小さな羽根が生えていて、パタパタ、白い羽根を動かしていた。
「きゃああああ!」
進葉は吃驚して、バランスを崩して後ろにのけぞってしまった。
「失礼だなあ。でも俺も急過ぎたかな?」
「あ、あの、貴方は……」
進葉が体勢を戻すと、小さな男の子は腕を組んだ。
「俺の名前は……うーん。そうだな。キューピッドと呼ばれたり、エロスと呼ばれたりする。愛の神様だ。人間ではない。生きてもいない。天使でも鳥でもない」
「きゅ、きゅーぴっど? えろす?」
「現代日本だと言いづらいなら、略してエルと呼んでくれ」
進葉がポカンとすると、エロスは進葉の髪を結っているピンク色のハートの石を指差した。
「俺はずっと長い間、その石に封印されてたんだ。俺のことが大嫌いな奴にな。でも、どうやら封印が解けたようだな。あー、良かった。ようやくシャバの空気が吸えるぜ」
エロスはパタパタと羽根を動かし、窓を開けて外の空気を吸った。
「ずっと、閉じ込められてたって……」
「……お前には『力』があるな。お前の力が石に伝わって、俺は出ることが出来たみたいだ。……うーん。ハタから見ると、ただの普通の女の子にしか見えないけどなあ」
わけがわからない顔の進葉に、エロスは腕を組んで聞いた。
「どうにかしたいか?川田和人と小津恵子を」
エロスは真面目な顔で、進葉を見つめた。
「……どうにかって」
「戻してやることも、別れさせてやることも出来るぜ。大きなお世話かも知れないなら、歪められた部分だけ戻そうか」
エロスは背中に背負っていた矢筒と弓を、進葉に渡した。
「これ……」
「俺の弓矢。エロスの弓矢だ。矢は色んなのがあるが、取り敢えず二通りな。矢尻がピンクなのが、好意を持たせる矢。矢尻が鉛色なのが、好意を消す矢だ。殺傷力はない」
弓は真ん中にピンク色のハート飾りがあって、ハート飾りを触ると、進葉の姿はいつのまにか変わっていた。
金髪は長く伸び、制服はギリシャ神話に出てくる女神みたいに、白い布を巻き付けた服を着ていた。
「えっ、何、これ!」
「お前も愛の神に変身だ。今のお前の姿は誰にも見えない。一部の例外を除いてな。ほら、行くぞ」
「ま、待ってよ、エル」
エロスに言われて、進葉は彼の後をついていった。
校庭へ向かう水飲み場では、まだ藤田がうずくまって泣いていた。
「藤田くん……」
「そいつは、傷ついてるが小津恵子をまだ愛してる。色々複雑な心境だろうが。……小津恵子のところに行くぞ」
進葉は保健室に行きたくなかったが、エロスの後をついて行った。
「あ……」
保健室では、小津恵子がベッドの上でぼんやりしていた。
「……私達のこと、見えていないんだね。桑瀬陽太郎先輩はいないみたい」
進葉は何があったのか考えて、とても嫌な気分になった。
エロスは小津恵子をじっと見た。
そして、右手に嵌めた金色のブレスレットに埋め込まれた、赤い石に触れた。
すると、宙に青白い光の文字が浮かび上がった。
「それ何?」
「恋愛指示表。あらゆる人間のデータと、結んだり離したりするべき対象の指示が下される」
エロスは宙に浮かんだ恋愛指示表を見つめた。
「キス止まりだな。小津恵子は桑瀬陽太郎に気はあるが、心はまだ川田和人にあるよ」
「ほ、本当? 良かった……」
進葉はホッと胸を撫で下ろした。
「出でよ恋心!」
エロスが言うと、小津恵子の胸からピンク色の石が宙に現れた。小津恵子には見えていない。
「この石は恋心だよ。川田和人と仲が戻るように願いながら、積恵子の恋心にピンクの矢を打ちな。ちなみに攻撃性はない」
進葉は頷くと、エロスから渡された弓矢をつがえた。
脳裏に、校庭近くの水飲み場で泣きじゃくっていた川田和人が浮かんだ。
進葉は、きりきり弓を引き絞り、小津恵子の近くに浮遊するピンクの石に、矢を放った。
矢はピンクの石に当たると、ふんわりと花びらを散らして、姿を消した。
小津恵子は、川田和人のことを思い出した。
(……もっと、相手をして欲しかった。もっと、色んなところに一緒に行ったり、恋人らしいことをしたかった)
その声に、進葉は気まずそうにエロスを見た。
エロスは恋愛指示の画面を眺めながら「川田和人にも、色々問題がありそうだな。後でエロスの矢でも打っといてやるか」と呟いていた。
「でも、小津恵子はずいぶんモテるな。男でも女でも幾らでもフラグが張り巡らされてる。一つ恋が駄目になっても、すぐ別の恋がやってくる。あんまり、たくさん恋を繰り返すのが良いとは、俺は思わないけどな」
そこで、チャイムが鳴った。
「あの、私、元の姿に戻りたいんだけど……」
「元の姿に戻りたいと思えば、それだけで戻れるよ」
進葉は言われた通りに、元の姿に戻りたいと願った。
すると、変身は解けて、進葉は元の背の低い制服姿に戻った。
教室に生徒らが戻ってきて、進葉は焦ったが、誰もエロスの姿は見えないようだった。
宮園乙女と長瀬克美がやってきた。
「山河さん、怪我大丈夫?」
「保健室から、授業に戻ってこないから心配したよ」
「ごめんね、心配させちゃって。ちょっと気分が悪くて、休んだだけだから……」
進葉は、膝の怪我を思い出したが、いつのまにか治っていた。
そのやりとりを見た小津恵子が、進葉に話し掛けてきた。
「山河さん……保健室に来たの?」
窓から風が吹いて、小津恵子の焦げ茶色の長い髪や、進葉の金色の髪を揺らした。
小津恵子は、明るく気が強そうな顔付きで、友達も多く、クラスの中でも一、二位を争う美人だ。
進葉は、焦りながら答えた。
「……あ、ドアに先生が留守って紙が貼ってたから、教室で休んでたんだ」
「……本当に?」
小津恵子は進葉を怪しんでいたが、やがて、川田和人が教室に入ってくるのを見て、ハッとした。
「……私は悪くないんだから」
「あ、うん。そうだね。恵子ちゃんは悪くない」
「……見てたの?」
「私は何も……」
「気持ち悪いんだけど」
恵子は進葉を睨むと、自分の席に戻った。
そして、いつも通り、クラスの中心で友達と賑やかに、可愛い笑顔で笑っていた。
進葉は何と言えばいいのかわからなかった。
乙女と克美も何と言っていいかわからないようで、顔を見合わせていた。
見たくて見たわけではないのだが。
エロスはいつの間にか姿を消していて、二年三組の教室では、次の国語の時間が始まった。
(……エル、どこに行ったんだろう)
授業が終わっても、エロスは色々調べると言って進葉の前には現れなかった。
夕暮れどき。
桑瀬陽太郎と馨子の兄妹が通学路を歩いていると、目の前に、梅柄のオムツ姿で羽根の生えた小さな金髪の男の子が……エロスが現れた。
「……お前ら、小津恵子のことが大好きだな。お前らがあいつに美貌や、沢山の友人、恋愛フラグを与えてるんだ。そうだろ」
茶色い髪の桑瀬陽太郎と、長い銀髪の桑瀬馨子には、エロスの姿が見えていた。
「誰かと思えば」
「まあね。お気に入りだから」
「そう。私達のお気に入り」
「お前らが、何で愛の神の仕事をしてるんだ。アポロン、アルテミス」
エロスの言葉に、桑瀬陽太郎と桑瀬馨子は笑みを浮かべた。
「……と言っても、俺のこと大嫌いなあいつが、やらせてるんだろうな。お前ら、そんな奴じゃなかったのに」
桑瀬馨子はクスクス笑った。
「私達は父様の指示に従ってるの。父様や私達は小津恵子を割と気に入っているの。可愛げがあるから。可愛げのない奴は大嫌い」
エロスは目を細めた。
「まあ、俺や馨子は親父の意思の元、操作されて動いてるんだけど。だから、俺達は親父の分身なのさ」
「桑瀬了……『ゼウス』」
エロスが溜め息を吐くと、陽太郎と馨子は笑った。
エロスは、恋愛指示帳で桑瀬了の顔の映像を見た。
「もう、何て言っていいかわからないけど。取り敢えず俺は目覚めたし、お前らに色々吸われて駄目な分、補わせる奴は確保したから。お前らは愛の神様しなくていいから」
エロスは鼻をほじりながら言うと、小さな白い羽根をぱたぱたさせて、どこかへ姿を消した。
「さて。縁結びの仕事でも」
エロスは上空で弓を構え『離別の矢』を、桑瀬陽太郎や桑瀬馨子、桑瀬了に放った。
自分や、周囲に興味をもたないように。
あと、川田和人にも『エロスの矢』と、心を癒す『癒しの矢』を放っておいた。