出港
【1939年 4月 11日 ドイツ】
南極からドイツ南極探検隊がハンブルク港に帰還した。
当初ノイシュヴァーベンラントに対するさらなる探検は、第二次世界大戦勃発を見越して中止になるはずであった。しかし探検隊が南極で発見した様々な情報、特に大量の天然資源に上層部は目の色を変えた。代替財・原料生産・貿易統制を推進して自給自足経済の確立を目指す第二次四カ年計画を進めてきたドイツにとって非採算的な人造石油、人造繊維、合成ゴムの生産拡充のために四カ年計画庁からの設備投資をドイツ全体の設備投資の半分もかけて低品位なものを生産しなくても良くなるからである。またハインリヒ・ヒムラーなどのナチスの高官の一部はアーリア人がアトランティス人の末裔だと本気で信じており、それを証明するためにノイシュバーベンラントにて調査を行いたいとの後押しもあった。
四カ年計画を主導していたヘルマン=ゲーリングは急ぎ新たな船団を派遣するための準備を始めた。計画されていたポーランド侵攻作戦が先の大戦の遥か上を行くほどの大戦争に繋がると思っていなかったヒトラーと違い、ゲーリングは4ヵ年計画を進めていく立場から、1939年の段階ではドイツの戦争準備は充分に整っておらず、この戦争が世界大戦につながる可能性を予測した
結果的に船団2つを1939年8月1日の時点で出港させることに成功するのだった。
船団の一つには内海の港湾化・基地設備建設・強化のための資材や装備、燃料、建設要員を満載した。中には人員輸送のために徴用され15,000人ほどを乗せた客船までいたという。
もう一つにはノイシュバーベンラント向けの武器弾薬、装備、燃料、兵員などが満載されていた。
探検隊の報告から「現地の肉食恐竜は機動力・防御力ともに高く、彼らとの戦闘では貫通力のある砲と機動力が必要になるだろう。」との報告から国防軍は機甲戦力も付与し、司令部の機能を強化した支隊が派遣されることとなった。当初は親衛隊特務部隊の派遣も提案されていたが、国防軍側が親衛隊の南極での勢力拡大に難色を示し、アーネンエルベからの調査隊だけの派遣となった。
内訳は歩兵を主体として砲兵・戦車とノイシュバーベンラントの探索を目的とした偵察隊など小部隊ながら独立した戦闘力を確保している支隊編成となった。戦車は既存の技術で設計され、また当時としては大火力の短砲身75mm砲を装備しまとまった数が配備されていたIV号戦車c型であった。OKWではこれでどんなに頑丈でも生き物ならば充分に通用するとして採用した。
また製パン部隊や野戦整備部隊、戦闘工兵、さらには野戦救急車と手術の可能な医療テントの展開能力を持つ衛生部隊までもを備えていた。また部隊のほとんどが大量のトラックを運用することで機動力を確保した。
今回の作戦内容を聞いている部隊の指揮官級の将校意外の将校や下士官や兵士は作戦の内容は知らされず、ただ南下していく自分達の乗っている船団をただ眺めることしか出来なかった。彼らは地球の地下から二度と祖国に帰れなくなろうとは考えてもいなかった。最低限この後すぐ起きるであろう戦争が終われば、国に凱旋できると思っていたのだ。
船団が大戦争が起きたのをラジオで知ったのはノイシュバーベンラントに到着する2日前のことであった。