第32話 それは、道が交わる少し前のこと
「ねぇ、滉伽」
「なんでしょう?」
「なんか……さっきからずっと、喉の奥、というか肺のあたりがもやもやする」
「……主?」
寝る前に着ていた半袖のTシャツを脱いで、長袖の片袖に手を通す。
「……俺……」
頭から、被るだけ。
袖を通す、だけ。
それだけなのに。
それだけの動作が、すすまない。
「俺は何をしたらいい? 俺に、俺ができることって、なに?」
ぶらり、と下げた腕に、服がひっかかっている。
こんなことをしている場合じゃないのに。
もやつきが気になって、動きが止まる。
なんでこんなにざわつくんだ。
なんでこんなに、哀しい気持ちになるんだ。
なんで、こんなに。
そんな俺をみて、滉伽は手にもったパーカーを椅子において、俺の前に立つ。
「真備様?」
「……帰りたかっただけ、なのに」
「主?!」
「あの、場所に」
―― 聞いておくれ
―― わたしは、ただ、わたしはただね
ああ、なんて、
貴方は哀しい声をしているんだ ――
◇◇◇◇◇◇
「あレは、放っテおいテいいのカ?」
「力の加減を知らないだけだろうね」
「そウ、カナァ?」
影の頭が、右に少し傾く。
その動作に、チッ、と小さく舌打ちをつく。
「そレにさァ、やけに星がザワついてイないカ?」
「そうだね」
「あるじ、彼はやっと覚醒めたばかりですよね?」
「視る限りはそうだね」
「それにしては随分と……」
影のひとつの言葉に、ぴく、と指先が動く。
「おまえの言いたいことはよく分かるよ。でもね」
我々に残された時間は、そんなに長くはない。
アレを、早く止めねば。
アレのおかげで、『彼』を見つけたけれど。
アレのせいで、また、『彼』を見失う。
その未来しか、見えてこない。
けれど。
「どちらにしても、いまの彼に興味も用事も一切ないね」
「おヤ? アレは、サガしていたニンゲンじゃァないノか?」
「うん。探してはいたけれどね。あんな腑抜けだなんて、がっかりだよ」
暗闇に溶けるモノたちと話すのは、一人の少年。
その髪は、黒く、瞳は赤い。
「待ってタんじゃ、ナイの?」
「待っていたよ。長く、永く」
「あるじは素直じゃないからね」
「なに、祓われたいの?」
「わぁ怖い」
くすくすと楽しげに笑う声が、耳につく。
「でもさ」
「でモ?」
「ある意味じゃ、時間切れ間近ってことダヨネ。だよね、あるじ?」
ふふ、と笑い声を含みながら言う声の持ち主が、暗闇から自分を見る。
その視線に、もういちど舌打ちをすれば、ふるふると空気が揺れ、思わず深く溜息をつく。
「……正確にいえば、今は時間切れ、だ」
「イま?」
「そう。今は。これからの事なら、たとえ僕一人きりだとしても、どうにかしてみせる。いや、一人きりなら、なおさら僕がどうにかしなくてはいけない」
そのために、この地に戻ったのだから。
「彼に会うのは、それからでいい」
やっと見つけたのに。
その彼が、あんな、ただの男子高校生で、がっかりはした。
がっかりはしたけれど。
けれど、それ以上に、彼がここにいることに。
彼が、『彼』の本質が変わっていなかったことに、心の底から喜んだ自分に、嘘はつけない。
「何も知らず、温かな場所で傷つかずにいてくれるなら」
それはそれで構わない。
君を、この酷く醜い争いに巻き込まなくていいのなら。
そのためなら、僕は。
「いまの君の夢は、なんだろうね」
誰に言うでもない言葉が、空気に溶けて消える。
それからほんの僅か。
息を吐き、閉じた瞳をあける。
見据えるのは、ただひとつ。
来たるべく未来のために。
「さて、お前たち。準備はできているね?」
「もチろん!」
「待ってました!」
ザッ、と暗闇の中で、立ち上がる音がする。
「安倍家現当主に喧嘩を売ったこと。後悔するがいい」
キラリ。
昼間だというのに、それはやけに眩く瞬いた。
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