恋を死体デス!
うら若き乙女は、自らの性癖にほとほと困り果てていた。
日本に暮らす、まぁまぁ一般的な二十代のオフィスレディ、斑目常華。
彼女は基本的に善良な人間だった。
本人としても真面目さが己の唯一の取り柄だと考え、至極真っ当に生きている。
しかし、元来の性格とは裏腹に、彼女は死体しか愛することの出来ない、酷く偏った嗜好の持ち主だった。
最初にその事実が発覚した時、常華は絶望した。
そんなはずはないと否定し、幾度か恋人も作った。
だが、どんなに命ある男と恋愛をしようと思っても、彼女の心は冷たく凍りついたまま、溶ける様子は微塵もない。
当然、関係も長続きはせず、時に男性から、時に彼女自身から、別れの言葉は告げられた。
精神的な病を疑って、そちら方面の病院にも数件通ったが、診断結果は正常のみ。
親にも友にも告げられず、溜め息ばかりが漏れる毎日。
恋をし、結婚して、子を産み、両親を安心させる……そんな在り来たりの未来をついには諦め、常華は悲しみと共に事実をあるがまま受け入れることにした。
恋愛に対する興味や結婚願望はそれなりに強い方だったため、決断にはかなりの痛みを伴った。
とはいえ、ネガティブに腐ることもなく、今度は楽しいお一人様生活を目指して、前向きに日々を過ごしていく。
けれど、疲労が溜まったり、酒に深く酔ったりといった時などは、さしもの彼女からも、うかつな呟きが零れることもあった。
例えば、そう、年度末の総決算で残業続きの中、夜遅くに独り寂しく帰宅している状況などだ。
「はぁぁ、どこかに愛してもいい死体ってないかな。
欲を言えば、ちゃんと五体満足で、大きな傷があったり腐りきったりしてないタイプ。
犯罪者にはなりたくないけど、私だって一回くらい本気の恋を経験してみたいよ……」
常華はコンビニ袋を片手に人通りのない細道を歩きながら、あり得ぬ願望を小さく唇に乗せる。
周囲には誰もいないと、そう認識していたからこその戯れだ。
「何だぁ、お前……俺を誘ってんのか?」
「キャアッ!?」
だが、何故かすぐ背後から成人男性のものと思わしき声が響き、彼女は驚きと恐怖にその場で短く悲鳴を上げる。
間もなく、立ち竦む常華の前方に、三十代前半ほどと見られる男がゆっくりと移動してきた。
自身と比較して頭一つ分高い背丈、黒の短髪、まだらに黒ずむ灰のTシャツに、ダメージジーンズ、皮のブーツといった出で立ちの、日本人とは少しテイストの違う顔つきをしたアジア圏出身と推測される男性だ。
彼を視認した途端、彼女の心臓がドキリと跳ねる。
恐怖に、ではない。
ときめきと称される胸の高鳴りによるものだった。
だが、そんなはずはないと、常華は大いなる困惑と共に、妙に青白い肌をした男へ向かって頤を開く。
「えっ、あっ、アナタ、は……?」
彼女の曖昧な問いに、彼はニタニタと底意地の悪そうな笑みを浮かべ、からかい混じりの声色で答えを返した。
「今時の若い女は知らねぇか?
俺はキョンシー……ま、簡単に言やぁ動く死体、だな」
「っ動く死体!?」
驚愕から反射的に目を見開き、口元に手を当てる常華。
言われてよくよく男を観察してみれば、全身の血色の悪さのみにとどまらず、呼吸をしている様子も見受けられなければ、眼球には光がなく、また瞬きもしていないことが分かった。
何より死体特有の、周囲の空間ごと闇へ引きずり込むような圧倒的な虚無の気配。
本物だと、そう確信を抱いて、興奮から徐々に彼女の頬が紅潮し、瞳が潤んでいく。
「あぁ、そんな! なんてこと!
こんなっ、こんな理想の存在が、この世に実在しただなんて!」
「は……?」
常華が感激も露わに小声で叫ぶ。
すると、想定外に過ぎる反応を受けた屍の怪物は、数秒、その動きを止めた。
次いで、彼女のセリフを冷たい脳に浸透させた彼は、思わずといった体でブハッと音を立てて噴出する。
「おいおい、理想だとよ。
人を犯して喰らう妖怪だと、祖国じゃ随分恐れられたモンだがなぁ?」
酷く可笑しそうな男。
反面、常華は彼の口から放たれた事実に、今更ながら怯えの感情を覚えて、小刻みに身を震わせていた。
「ヒ、ひ、人を食べ……ッ?」
「ん? あぁ、そうだぜ。
キョンシーってのはなぁ、生きた人間を喰らって、魄を取り込まなきゃあ活動できねぇのさ」
「ヒェッ!」
一気に顔色を悪くする彼女に、彼は再び人を小馬鹿にしたような嫌らしい笑みを貼り付けて、一歩足を踏み出す。
「ハッ! 今んなって怖がったって、もう遅……」
「あ、ああぁ、でもっ、ようやく見つけた理想の存在を、チャンスを、私、逃したくない!」
「っあ?」
そう叫んだ常華に勢いよく両腕を掴まれ、またも呆気に取られて動きの止まるキョンシー。
そんな彼に、彼女はいかにも狂気的な懇願の言の葉を真っ正面から解き放った。
「っお願いします!
わた、私をっ、アナタの恋人にして下さい!」
本日二度目の大噴出勃発。
切羽詰まった表情の女と裏腹に、笑いに震える声で死体男が問いを投げる。
「フっ、クク……おまっ、正気かよ?
俺は正真正銘の化け物だぜぇ?」
すると、常華は眉尻を下げ、顔面をクシャリと泣きそうに歪めてしまった。
「ううっ!
そ、ソレは……正直、怖くないと言えば嘘になるけど、し、死にたくない、けどっ!
それでもっ、殺されたっていいから、人生で一度くらい死体と、あ、愛、えと、アバンチュールしてみたいの!」
なぜか急に「愛し合う」という単語が卑猥に感じて、咄嗟に言いかえる女。
「そうかよ」
甲高い慟哭に短い相槌を打った彼は、直後、彼女の両手を外し、逆に細い二の腕を掴み返して、その身を引き寄せる。
そうして、ほとんど密着状態かつ至近距離で見つめ合う体勢に変えてから、急激に頬を赤く染め上げる狂人に向けて、男は告げた。
「おもしれぇ女だな、お前。
いいぜ。俺が飽きるまで、そのオママゴトに付き合ってやる」
人喰い妖怪のまさかの結論に、常華は限界まで開いた瞳を星空のように輝かせる。
「ほ、本当ですか!? やった!
ついに、ついに本物の死体と! 私!」
まさしく喜色満面といった風情だ。
そんな彼女の心底嬉しそうな態度を受けて、キョンシーがどこか苦笑いじみた表情で小さく呟いた。
「……こりゃあ、しばらく退屈しなそうだ」
そう。退屈である。
彼は何百年と繰り返してきた、ひたすら食べて寝るだけの変わり映えのない生活に、すっかり飽いていたのだ。
こうして、死体しか愛せぬ哀れな女と悪しき人喰いの化け物は、ひと時、恋愛ごっこと興じるに至ったのである。
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さて、出会ってそのままの流れで恋人となった動く死体をマンションの自室へと連れ込んだ常華。
彼女は今、彼と並んでベッドに腰掛けながら、スマホでキョンシーについて調べては、質問を投げ掛けていた。
「キョンシーっていえば、腕を真っ直ぐ突き出してたり、足も曲がらなくて跳ねて移動するみたいなイメージあるけど、アナタは全然普通だね?」
「あぁ。ソレは主に死後硬直の影響で、比較的若いキョンシーの特徴だな。
俺はそういう時期をとっくの昔に通り越してっから」
「へえー」
酔狂な屍は、女の腰に片腕を回した、いかにも親密な恋人同士らしい姿勢で、存外素直に答えを返してやっている。
「ね、ね、このサイト。アナタ、空を飛べるの?」
「おぅ、そんくらいは朝飯前よ」
「じゃあ、もしかして私と会った時も上から……」
「まあ、そうだな」
「すごぉーい!」
常華が無垢な少女のようにはしゃぐ。
獲物として狙われていた実情を知らぬ訳ではないだろうに、妙な肝の据わり方をした女だと、彼は内心で呆れと強い興味の感情を抱いていた。
「視力はどう? 見えてる?」
「ボンヤリとだが、見えてるぜ。
メインは嗅覚で、気配も結構読める。
聴覚は人並みだ」
「ふむふむ、なるほど。
じゃあ、香水とかはつけない方がいい……ん?」
「どーした?」
「そういえば、あんまり腐敗臭しないんだね。
近くにいると、ちょっとはスえた臭いもするけど」
頭を傾けて、常華は死体の首筋を嗅ぐ。
男は細腰から手を離して、今度は彼女の髪に指を滑らせながら口を開いた。
「ちょいと事情があって、くたばってからキョンシー化するまで早かったからな」
「ふーん?」
平常心を装ってはいるが、女の頬の朱色は濃く変わっており、密着具合に照れを感じているであろうことは丸分かりだ。
「お? なんだ、ソコは聞いて来ねぇんだな」
「だって、なるべく快適に過ごして欲しい一心でアレコレ質問してるのであって、不躾に詮索して不愉快にさせたら本末転倒でしょ?」
「そんなモンかぁ?」
さすがに恥ずかしさが上回ったのか、男の体に両手をついて、さり気に距離を取る常華。
多少のいたずら心が湧かぬでもなかったが、彼は彼女の動きに逆らわず、あっさりと己の腕を退けてやった。
赤くなった顔を誤魔化すように、女はせかせかとスマホをいじる。
「ソレで続きだけど、鏡は苦手?」
「あー……特に何が起きるってワケでもないが、あまり気分の良いモンじゃねぇのは確かだ」
「じゃあ、極力数を減らして、必要な分にはカバーをかけておくね」
「ああ」
「あと、太陽は?」
「俺の場合ギリギリ克服はしてるが、それでも、ちとキツイな」
「そうなの?
昼間の対策は遮光カーテンで大丈夫?
もっとガッツリ雨戸とかで塞いだ方がいい?」
「いや、カーテンで足りる。
夜以外は、そもそも寝てるだけだしな」
などと供述しているが、本来、陽の気を多大に含む日光はキョンシーの最大の弱点であり、弱い者であれば数秒と保たず消滅してしまう程だ。
だが、千に近い長い長い年月をかけて陰の気を身の内に濃く深く溜め込んで来たこの怪物は、少々の光を浴びた程度で揺らぐような脆い存在ではない。
「えっ、コレ……」
「何だ」
「キョンシーに傷つけられると、その人もキョンシーになるって本当?」
常華は死体男にスマホの画面を向けて、不安げに尋ねる。
実際のところ、キョンシーのぼやけた視界では文字を認識できていないのだが、それを指摘することなく彼はただ首を横に振った。
「いや? 少なくとも俺にはない能力だ」
「そっか。ちょっと安心した」
「うん?」
「だから、その……ちゃんと恋人らしいこと出来そうっていうか」
わざとらしく視線を外し、ボソボソ小声で語る女。
すぐに意味を理解して、気分の高揚した男は大げさな挙動で彼女の胸の内を赤裸々に晒し上げた。
「ハッ、死体相手に発情してんのかぁ?
とんだドスケベ女だな!」
「やあっ、声が大きい!
こんな、理想の存在と付き合えるなんて奇跡、浮かれて色々想像しちゃっても仕方ないでしょ!?」
「開き直ってんじゃねぇよ、面白ぇなぁ」
言葉通りニヤニヤと笑いながら、彼は顔を両手で隠して唸っている女の肩を軽く叩く。
「しかし、この国はいいな」
「え?」
「夜中でも開いてる店がありゃあ、どいつもこいつも不用心で獲物に困らねぇし」
「うっ……ノーコメントで」
途端に悲壮感を醸し出す常華を、動く屍は片眉を上げ訝しげに見やった。
「なんだ、化け物かくまってるとか考えて、妙な罪悪感でも持ってんのか?」
「ふぐっ」
問い掛けの効果はてきめんで、彼女は自らの胸を押さえ小さく身を屈めていく。
ほんの一時前と打って変わって陰鬱な雰囲気を纏う女に、彼は呆れの眼差しと声を向けた。
「おい、図星かよ。
別に俺がどこで誰を喰らおうと、お前に損も得もありゃしねぇし、そんじょそこらの殺人鬼風情と違って止められる人間もいねぇんだ。
自分にゃ無関係だと開き直っちまやぁいいだろ」
「えぇ……そんなムチャクチャな……」
人外のとんでも理論を聞かされて、常華は困惑の表情で恋しい死体を見上げる。
「災害とでも思えよ。
ソレなら、お前を責める奴の方が断然気が狂ってる」
「逆に災害を私の一存で一所に留めてるなら、戦犯として集団リンチされても納得なんですが……」
「真面目か、面倒臭ぇな」
荒い舌打ちを受けるも、掛けられた言葉から彼なりの優しさを感じて、彼女は薄く頬を染めた。
「……ありがとう。そうやって慰めてくれる気持ちはすごく嬉しい。
正直、かなり胸がときめいたし、出会ったばかりでなんだけど、もう普通に大好きになっちゃってる。
ただ、この罪の意識に関しては代償として生涯抱えるべきものだと思っているから、その、うん、私、大丈夫」
「……クレイジーな奴」
だが、それでこそ……と、稀有なキョンシーは心の内でのみ、続きである肯定のセリフを吐く。
屍の怪物と愛を育もうというのだ。
たかだか二十と数年生きただけの人如きが、よもや健全な精神のみを宿していられようはずもない。
「ところで、なんだけど。
獲物じゃなくって、一般的な食事とかは可能なの?」
「あー、無理すりゃ不可能とは言わねぇが、まともに消化できねぇから基本は避けてぇ感じ?」
「そっか……一緒にご飯できないのは、ちょっと残念かな」
「ふーん。そんじゃ今度、腕の一本二本持ち帰って、メシ時にお前の目の前で喰ってやろうか?」
「ひぃぃ絶対ヤダぁーッ!」
「わははは!」
想像して涙目で悲鳴を上げる常華を、男は大口を開けて無遠慮に笑う。
生者に擬態した状態であるならともかく、正体を知られてなお、まともに人間と会話が成立した経験は、自我を得てより何百と時を過ごしてきた彼にも覚えはなかった。
死に怯える弱者は当然ながら、妙な術を使う強者になってくると、今度は逆に聞く耳など持つものではないという共通認識が出来上がっている。
殺されたくないと言いつつ、同じ口で食人鬼に愛を乞う矛盾した女に、常々退屈していた男が興味を引かれたのは、ある意味で当然だった。
さて、彼のしつこい笑い声がようやく治まってきた頃合になって、ふと、常華が緊張した面持ちで遠慮がちに唇を開く。
「……あの、一つだけ。
私個人の倫理観で、アナタが活動に必要な人喰いを止めてとは言わないし、言えないけど……これだけは守って欲しいってコトがあって……」
「ぁんだよ」
これまで、ひたすら死体男に快適な生活を提供するための問いを繰り返してばかりだったが、ここに来て初めて、彼女は彼にとある要求を突きつけようとしていた。
相手は良識の通用しないキョンシーで、万が一にも機嫌を損ねれば、即座に死を招きかねない危険な行為だ。
その事実を正確に理解し、胸の内に恐怖心を抱きながら、それでも常華は言の葉を紡ぐことを止めなかった。
「えっとね、食事の際に浴びた返り血は、キレイに流してから帰ってきてくれたらな、って。
変な病気になったり、ご近所さんに通報されたり、痕跡を追われて殺人犯扱いされちゃったら、すごく困るの」
「ほぉーん。姫君は神経質でいらっしゃる」
「もうっ。茶化さないで聞いて。
二人で長く一緒にいるために必要なことなんだから」
「長く一緒にねぇ……?」
もちろん、屍である彼にとって、人間側の都合など知ったことかと、そのように告げて一蹴してしまうのは容易い。
が、彼女の語るもしもの未来の顛末を……己以外の何かに常華を奪われるシチュエーションを想像した時、男は多大な不快感を覚えてしまった。
ゆえに、かなり面倒な事だとは思いつつも、彼はソレを渋々ながら受け入れることにしたのである。
「まぁ、いいだろ。
俺が飽きてねぇのに勝手にママゴトが終わっちまったら腹立つからな」
「わあ、ありがとう! 良かったぁ!」
ホッと大きく息を吐く常華。
まぁ、そんなこんなの、なんだかんだで、つつがなく一人と一体の奇妙な同棲生活は始まった。
「……うぅ、どうしよう。
細々とした家事を手伝ってもらって、すごく助かってる自分がいる。
そんなつもり全然なかったのに」
「あ? なに辛気臭ぇツラしてんだ」
「喋り方で傍若無人タイプと見せかけて、案外気が利くトコずるい!
私ばっかり、どんどん好きになっちゃう!
このスケコマ死体!」
「何だよ、『恋人ごっこ』だろ。
別に元々の性格がそうってワケじゃねぇよ」
「…………予想外に残酷な真実が発覚して泣きたい」
「胸なら貸すぜ?」
「そういうトコぉ!」
人外相手だからと常華が男に一般的な恋仲らしい期待を持っていないためか、もしくは、元より相性の良い組み合わせだったのか、そこそこの時が経過しても、彼らは互いに楽しい毎日を送っていた。
「……たまにはデートっぽいことがしたい」
「何だぁ、急に」
「うーん、夜……食事が無理だからなぁ。
あ、映画のレイトショーとかどう?」
「ちと視力が足りねぇな」
「えー。メガネで何とかならない?」
「そもそも瞳孔が開いてっから無理じゃねぇ?」
「あぁーーソレかーーー」
「どうしてもっつーならよぉ、適当に夜景でも見に行かねぇか。
お前が良けりゃあ、抱えて空の散歩と洒落込んでもいいぜ」
「ええっ……す、好き」
「チョロすぎだろ」
同棲初めは、いつ彼に飽きられるか殺されるかと心の底で怯えていた彼女も、一年、二年とそれなりの季節が巡る内に、すっかり恐怖心というものを忘れてしまっている。
「休日以外ももっと一緒に過ごしたいよぉ。
時間に融通きく仕事とか新しく探してみよっかな」
「ホントにお前の死体狂いは変わんねぇなぁ。
いやぁ、おもしれぇおもしれぇ」
一方の男も、キョンシーとしての活動で常人の断末魔を定期的に浴びていたので、そのギャップによって、女の反応はいつまでも興味深く新鮮に写り続けていた。
「ねぇ、最近食べに行くペース早くない?
初めは二ヶ月とか三ヶ月に一人ぐらいって言ってたのに、今じゃ二十日に一度は行ってるよね?
どこか不調なの?
もしかして、私との生活のせいだったりする?」
「別に、飢えねーようにしてるだけだ。
……寝ぼけて喰らっちまった、なんて終わり方じゃあツマンネーだろ」
「ソレって……!」
「あんだよ」
「す、少しは期待してもいいってコト?」
「さぁてなぁ?」
少し彼らの……否、常華の纏う空気に変化が生じたのは、始まりから五年を超えた頃合いだっただろうか。
「ねえ、いつかアナタがこのオママゴトに飽きる日が来たら……その時は私を食べてくれる?」
「ククッ、なんだオイ?
死にたくないんじゃなかったのか?」
「それは、えっと、今、すごく幸せだなって、思って」
「あん?」
「そしたら、怖くなっちゃったの。
この先もし、アナタが居なくなったら、もう今の私は失ったモノの大きさに、寂しさと虚しさに、きっと耐えられないんだろうなって」
「だから、捨てる時は責任取って喰ってくれって?」
「せっ、責任とかそんな風には思ってないよっ!?
ただの希望で、そうなったらいいなって、軽い意思表示のつもりで!
押し付けたいんじゃなくて!」
「分ぁかってんよ、お前の性格はな」
共に暮らしていたとはいえ、人の心の機敏に疎い怪物のことだ。
本気で隠されてしまえば、極小の違和感を気のせいと見逃してしまうのも無理はない。
よって、事実が発覚したのは、もはや何もかもが手遅れの段階に……彼女が死の間際に至ってからだった。
「おい……おい、お前。何を勝手に死にかけてんだよ。
いつだ。いつからこんなに弱ってたッ。
なんで隠してたんだよっ!」
とある夜。キッチンで倒れ伏していた女を抱えて、屍男が叫ぶ。
だが、彼女からの応えはない。
すでにソレを行うだけの余力が失われているからだ。
青白い身体から少しズレて露出した魂魄を目の当たりにして、彼は初めて知った常華の現状に愕然とする。
「っ待て、お前……キョンシーになりかけてやがるのか?」
本来、生物に含まれる陰陽の気は同じ比率で存在し絡み合っているのが正常だ。
しかし、彼女のモノはあまりに歪すぎる偏りを見せていた。
「俺か、俺の陰の気がお前の魂魄のバランスを崩して、ソレでこんな……」
そう、常華の不調の原因は、死体男の濃すぎる魄に接触し過ぎたためだった。
彼女は頑なに隠匿していたが、職場で意識を失い病院に運ばれたこともある。
ちなみに、その際の診断結果は過労であった。
当然だが、そんな診断が下されるような無茶な生活は送っていない。
魂の疲弊が体に影響を与えたものである。
己が弱っていく理由は、本人、常華にはよく分かっていた。
恋人として男と愛を交わし合う度に汚染を受けていたのだから、分からないはずがない。
だからこそ彼女は、彼にだけは必死に事実を隠し続けた。
知られることで男の態度が変わることを恐れたのだ。
愛されていれば彼は自身を責めるであろうし、愛されていなければ彼女が悲しすぎる。
その内、女は死期の訪れより先に喰らわれる日が来ないかと消極的に願うようになった。
だが、現実として願いは叶わず、ある種最悪の形で秘密は白日の下に晒されてしまう。
かろうじてまだ生きているからギリギリ人間であることを保っているが、骸となればその限りではない。
どす黒く染まる彼女の魂魄を眺めながら、男は眉間に深く皺を寄せ低い呟きを落とした。
「望まねぇ、よな……お前は。
人喰いの化け物になるなんざよ」
特になりたては自我がなく、存在を安定させるための本能か、とかく無差別に人間へと襲い掛かる傾向にある。
もし、その殺戮の記憶を保持したままかつての思考を得たとしたら、善良な彼女にとっては不幸でしかないだろう。
男は常華の体をゆっくりと抱き上げて運び、ベッドの上へと静かに降ろした。
「失ったモノの大きさに……寂しさと虚しさに、耐えられねぇ……だったか」
ポツリポツリと語りつつ、彼は彼女の頬や額を撫でさする。
「なあ、常華。俺はまだお前に飽きちゃいねぇぞ」
そして、いよいよ彼女の命の灯火が消えようとする刹那、男はその細い首筋に勢いよく牙を立て喰らいついた。
そのまま、一心不乱に恋人であったはずの女の肉体を自らの腹に収めていく。
おぞましい音がやんだのは数十分後。
同時に、血溜まりだけを残して、斑目常華という人間は現世から永遠に姿を消した。
「あーあ。どんな術者も返り討ちにして喰らってやった俺が、まさかこんなイカレた女一人にな……」
己に滴る温い赤を拭いもせず、男はとにかく急ぎ東へ東へと飛翔する。
取り込んだ魂魄が完全に自らのソレと融合を果たす前に、彼は目的を達しなければならなかった。
やがて、陸地を越え、大海原へと到ったキョンシー。
水平線の先が薄白く染まりゆく様を目にした男は、そこで進行を止め、腹に手を置いて小さく独り言を呟いた。
「……日本人ってぇのは、死んだら極楽とか地獄ってトコに行くんだろ。
化け物と何年もヨロシクやってたんだ、きっとお前は極楽なんて場所にゃあ入れてもらえねぇ。
だからよ、俺が一緒に地獄に落ちて、お前を苦しめる全部から守ってやる。
ああ、そうだ。死んでも俺の女だぜ?
泣いて喜びやがれ……常華」
まもなく、朝日が登った。
波立つ海面が陽光を反射して、世界を祝福するかの如くキラリキラリと輝いている。
心の洗われるような、非常に美しい光景だ。
そんな清廉な蒼に彩られし天と地の狭間。
そこに存在したはずの暗き影はすでにない。
ただ、黒ずむ灰燼が、冷たい海風に遊ばれて、踊るように宙を舞っていた。
THE END