最終話 最初の街
最終話です。
僕はようやくと言っても差し支えない程の長い時を経て大切なものを取り戻し、それと同時に姉に最も相応しい顔も取り戻した。すべてが元通りとまではいかないが、それでも奪われたままより、奪ったままより、良いことには違わないので、やっぱりそれはそれで良いのかもしれない。
それからの僕と姉は相変わらず仲睦まじく道中を歩いていた。時折、馬鹿な話をしては二人で顔を合わせて笑ったり、くだらない事で喧嘩になり、口をきかなくなったとしても夜が明ける頃には元通り仲良く会話している。そんな普通の姉弟の関係になっていた。
これまでの道中を走馬灯のように頭の中で思い出しながら歩いていれば、
「着きました」
と唐突に姉は言って、僕の腕を離し、前を指した。
「あの街です。あの街で姉を買います」
ようやく目的地に着いたようだ。目の前に広がる街はかなり大きな街で、後方にそびえ立つ山の頂上からでないとその全貌は掴めないかもしれない。高層ビルの合間を縫って、あちらこちらに店があり、その前で店員らしき人達が声を上げ、客の呼び込みをしていた。街の人はそんな喧騒の中を陽気そうに笑い合いながら逆立ちで歩いている。
活気のある街だ。
それがこの街に対する第一印象だった。
華やかな通りを眺めつつ、姉に付いて行く。すると姉は何を思ったのか、華やかな喧騒から徐々に離れて行き、薄暗く、音が欠片もない、陰気な路地裏に入って行く。
こっちでいいのですか、と思わず不安になって僕は姉の手を掴み、訊いた。
「ええ」
姉は短く答える。
少しばかり姉が緊張しているように見える。姉の手が少し汗ばんでいた。
暗闇の道を歩いていくと、突然ずぶりと足が沈んだ。
足に纏わり付く不快な温度。ずぶずぶと、どこまでも沈みそうな感覚。
道は暗く、足下は一切見えない。
姉は何事もないような平気な顔で気持ち悪い道を歩いて行く。
僕は姉に遅れまいと、飲み込まれそうになりながらも命辛々で姉の後ろに付いて行った。
やがて陰に切り込むように陽が射して来た。どうやら通りを抜けたようだ。しかし、眼前に広がっている光景に僕は自我を失い、ただ見ていた。
先程までの華やかな喧騒に満ちた通りとは違い、街行く人は例外なく、陰鬱な雰囲気を醸し出している。それだけではない。地面がおかしいのだ。土ではない、石でもない、ましてや硝子などありえない――人肉。この通りの地面は生きた人肉で出来ていた。生々しい血の臭いに思わず鼻を塞ぐ。赤く濡れた道は、ところどころ脈打つように隆起と沈没を繰り返している。足に感じる感触は、ゴムのような弾力があり酷く不安定で不快だった。
「■に△さん」
姉の声で僕は正気を取り戻す。
「とりあえず、ここまで来ればもう大丈夫です。足が沈むことはもうないでしょう」
そう言われれば、たしかに不安定ではあるが、足が沈むようなことはなかった。
「ここが目的地です」
姉が言うには、先程までの明るい通りは、人でいう皮膚にあたるという。そして、あの路地裏の細く暗い道が消化器官にあたり、そこで飲み込まれたものが今いるここの肉になるという。
突如、キーッと鉄と鉄が擦れ合うような甲高い音が耳に飛び込んできた。
目の前に電車のような得体のしれない何かが止まった。中からおよそ人とは呼べないものがごろごろと大挙をなして降りて来た。
それらがいなくなった後、姉は中に乗り込んだ。僕は少し躊躇したが、姉が乗っている以上乗るしかなかった。
ぐちゅぐちゅ、と道を踏み潰しながらこれは進んで行く。
窓の外が目まぐるしく変わる。
赤から青に。青から黄に。黄から白に。白からは徐々に黒に染まっていく。
いつの間にか車内には僕と姉しかいなかった。他の乗客達は白の駅で降りてしまったようだ。
電車は黒に向かって突き進む。
白が霞み、黒が強くなって来たころ、電車は一つの駅に止まった。姉は勝手知ったるようで戸惑うことなく電車を降りて行く。僕もそれに続く。
『灰色』
それがこの駅の名前だった。
後ろで電車が動き出す。ガタンガタンと徐々に車輪を回転させ始め、さらに黒い奥に進み始めた。
あの先には何があるのですか、僕は黒に突き進む電車を見送りながら姉に訊いた。
「わかりません。ただあそこから来た人もあそこに行こうとする人も見たことがありません」
僕と姉はしばし立ち尽くして絶望的な黒に向かって行く電車を見送った。その姿が黒に溶けるまで。
「さあ、行きましょうか」
姉が僕の手を取る。微かな温もりが絶望に向かっていた僕の心を振り向かした。
僕と姉は一本しかない線路の上を歩いて目的地を目指した。
灰色だった。
空はどんよりと曇っており今にも雨が降り出しそうで、風景はモノクロームでもかかっているかのように色彩が一切なかった。誰かが通り掛かれば、この中で歩いている僕と姉の姿は一層際立って見えることだろう。しかし、それはありえないことだ。先程までいた人肉の通りを陰鬱だと評するなら、この灰色は静寂だ。いや、静寂では足りない。
無。
この言葉こそこの場に相応しい。何も無いのだ。存在が無いのだ。外部から入った異物(僕と姉)以外に何も無い――いや、何も無いことはない。あるにはある。建物やら木々やら、あるにはある。しかし、それはあるだけだ。そのすべてが虚ろに見えるのだ。何も無い、と感じさせる何かがここにはあった。いや、やはり何も無いのかもしれない。
こんな所でお姉様を買えるのだろうか。
僕は一抹の不安を抱いたが、姉の温もりを支えに先に進むことにした。
どこまで行っても灰色だった。この世界は灰色以外の色を拒絶しているのではないか、と思わせる程だった。案の定、僕のズボンの裾が徐々に灰色に浸食されつつある。
僕の足がすっかり灰色に染まったころ、自分の色を一切失っていない姉が足を止めた。
「あそこで姉を買います」
姉が前方を指差すが、僕には灰色の世界しか見えない。
どこですか、と僕は目を細め穴が開く程前方を見つめながら姉に訊いた。
「行きましょう」
姉は僕の質問に答えず歩みを再開させた。僕は相変わらず前を見つめながら姉に付いて行った。
前を見つめるのにも疲れた僕は、視線を足下に落としながら姉に付いて行く。その時、かさかさ、と僕の足の上を蟻が通って行った。
僕は、こんな場所で生きている生命に感動し、思わず姉を呼び止めた。
しかし、姉からの返答はなかった。
蟻から視線を外し、前方を見ると誰もいなかった。
先日の嫌なことを思い出す。
姉の名を大声で叫ぶ。
その声に反応してか、がちゃり、と目の前の空間が開いた。
その先に姉がいた。
どうやら姉が言っていた目的の建物は灰色の建物だったので同色の背景と完璧に同化しているので僕の目では判別出来なかっただけだった。そして、僕がよそ見している間に姉がそこに入って行ったにすぎなかった。
「何をしているのですか。早く入りなさい」
姉は僕に手を差し延べた。僕は姉の手を掴み、姉の後ろに広がる黒に足を踏み入れた。
安心する。
辺りは真っ暗で前を歩いているはずの姉すら見えないのに。
僕は安心していた。
絶対的な安堵感。
初めて来たのに来たことがあるような。
温かい空気。
優しい音。
心地良い鼓動。
僕はこの心地良さをどこで味わったのだろう。
やがて小さな光が差し込み灰色が見えて来る。
ああ、もう外に出るのか。
名残惜しくて、思わず口走ってしまった。
「出たくないのですか」
姉に咎められる。
いえ、そんなことは、と言い訳を口にしようとすると、「別に構いませんが」と、姉は言って更に続けた。
「ただし、すべてが最初に戻ってしまいます。そして同じことを繰り返すだけでしょう。輪に閉じ込められたくなければ出ることをお薦めします」
姉に脅され、僕は何かから逃げるように姉を追い越し灰色の世界に飛び込んだ。
先程の灰色に戻って来た。
何も変わっていない。何も無いから変わるはずも無い。しかし一つ増えた。
いつの間にか姉は両腕で灰色の布を抱き抱えていた。
とても大事そうに。
とても愛しそうに。
とても幸せそうに。
それは何ですか、僕は姉の腕に抱えられた布の塊を指差しながら訊いた。
「■に△さん、あなたも見ますか」
そう言って、姉は布の塊を僕の方に差し出した。
僕はそれを上から覗き込む。
そこには。
赤ん坊がいた。
灰色の布に包まれながら幸せそうに笑っている赤ん坊がいた。
その小さな手を僕の方へ精一杯伸ばして来る。
それに応えるように僕は人差し指をその手の近くに持って行く。
ぎゅ、と小さな、しかし確かで温かな力で僕の人差し指を握った。
「姉です」
姉が小さく囁いた。
この赤ん坊がお姉様だった。しかし、よく見ると目の形が姉と似ていなくもない。
「さあ、帰りましょうか」
姉は赤ん坊をあやしながら来た道を戻る。
すいません、と僕は姉を呼び止めた。
姉は足を止め、こちらを振り向く。
一度だけお姉様を抱いていいですか、と僕は姉に懇願した。
姉は小さく笑い「いいですよ」と、言ってくれた。
姉から小さな温もりを受け取る。赤ん坊は指をしゃぶりながらいつの間にか寝てしまっていた。
こうして僕は初めてお姉様を見たのだった。
人は何かを得るためにはそれ相応の対価を支払う必要があります。
果たしてこの姉弟は一体何を支払い、何を得たのか。
まあ、そんな話ではないことだけは確かですが。
今回で最終回でございます。この小説のキーワードは『奇妙』と『不思議』でしたが、その辺りが上手く表現出来ているかはすごく不安です……。
長くなりましたが、最後までお付き合い下さって誠にありがとうございました!