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僕と姉  作者: 狐狗狸
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第五話 記憶の橋

第五話です。

 嬉しくも懐かしくもある邂逅だったのだが、姉を泣かした事による罪悪感の方が僕の思考の大半を占めていた。

 申し訳ないと、素直に思う。

 しかし、そんな思いとは裏腹に姉は今まで以上に僕に密着してくる。

 例えば、今までは手を繋ぐだげだったのが腕を組むようになったとか。

 とにかく距離が急激に縮んでいる。それが嬉しくもあり恥ずかしくもあり。しかし、やっぱり僕は悔やんでいた。

 視界が霧に覆われ始めた。

 一寸先も見えない程濃いそれは僕らを包み込み、異世界へと誘う。何も見えないこの世界で、腕に感じる姉の温もりだけが唯一の支えだった。

 相変わらずの視界の悪さだが、どうやらちゃんと前に進んでいたようで、木で出来た少し古めかしい橋が唐突に現れた。

「橋を渡ります」

 姉は僕を引っ張り橋に近付いて行く。

 無理だと思った。

 この橋は渡れない。渡れば死ぬ。

 橋は朽ちていた。

 こんな橋なら叩かずとも渡り切ることは無理だと判断出来る。むしろ、叩けばその場で橋は崩れ落ちるだろう。しかし姉は躊躇することなく進む。僕の腕を掴んだままで。

 こうなると僕には打つ手はない。姉の腕を振り解くことと橋と共に落ちることを天秤にかければどちらに傾くか、それは自明のことである。

 辺りに人の気配はない。橋が落ちた時は自力で姉を助けるしかないのか。などとすぐ訪れる未来を不安に思っていた。

 やがて、ぎしっ、と何かが軋む音が聞こえ始めた。どうやら橋に足を踏み入れてしまったようだ。さらに濃くなった霧に包まれて足下はまったく見えない。まるで宙を歩いているようだが、足の裏にはしっかりとした感触があった。

 しかし、べきべき、とこちらを不安にさせる音が足下から這い上がって来る。不安と恐怖にかられた僕は姉を連呼した。

 いくら呼んでも姉からの返答はなかった。いつの間にか腕を包んでいた温もりが消えていた。

 いない。姉が――いない。

 僕は走る。走り回る。橋が大きく軋み音を出しているのにも構わず、僕は走り回った。

 いない、いない、いないいないいないいないいないいないいない――

 姉が――いない。

 泣きそうになる。どこかに置いてきたはずの涙が零れそうだ。

 ふと、泣き声が聞こえて来た。

 すすり泣くような小さな声に僕は導かれるように声の方に足を向けた。

 子供が一人、うずくまって泣いていた。膝を抱いて、膝に顔を埋めて、子供が一人、泣いていた。

 僕は助かったと思った。

 ものを尋ねる時は子供が最適だからだ。

 僕は姉の居場所を子供に尋ねる。

 しかし子供は質問に答えるどころか顔を上げることすらしなかった。まるでこちらの存在が見えていないかのように無視してきた。

 やがて、三人の子供が多数の大人を引き連れて現れた。

 三人の子供は皆一様に子供にしては体が大きく、にやにやと嫌らしい笑みを浮かべていた。後ろにいる大人達は、眉間に皺を寄せ、苦虫を噛んだような表情だった。

 子供は相変わらず泣いている。

 やがて三人の子供の内一番体が大きい子供が言った。

「悪魔めっ」

 これを皮切りに他の二人も子供に言葉を浴びせる。

「悪魔めっ」

 それが言い終わる前に今度は大人達が声を出す。

「悪魔めっ」

「悪魔めっ」

「悪魔めっ」

 と、悪魔悪魔と大合唱が起こる。いや、それは大合唱なんて温いものじゃなく、明らかにうずくまる子供に対する攻撃だった。

 容赦のない集中砲火。子供はただただ膝を抱え、苦痛が過ぎ去ることを待ち耐えていた。

 やがて飽きたのか、子供達はその場を離れ、大人達もそれに付き従うように遠ざかっていった。

 子供は相変わらず泣いている。

 やがて後ろから足音が聞こえて来た。

 姉だった。

 僕は思わず姉の名を呼んだ。だが、姉はこちらを見ることなく、泣き続ける子供の方に手を伸ばした。

「さあ、帰りましょうか」

 姉は優しく諭すように子供に言った。

 子供はその声に反応し、顔を上げた。

 僕は驚きを隠せなかった。

 子供の顔は――僕だった。

 それから子供は姉に手を引かれながら、僕の視界から消えて行った。


 またしばらく相変わらず霧に包まれたままの橋の上を歩いて行く。変わらない軋み音が慣れて来た頃、僕はまた僕に出会った。

 その僕はうつむき、背を曲げて、申し訳なさそうにそこに立っていた。

 やがて二人の女子が彼の側に現れた。

 彼女達はくすくす笑い合って、彼に声をかけることなく、その場を後にした。

 次に現れたのは男の子だった。彼は彼を指差し、大笑いしてどこかに去って行った。

 それからも、無言で泥を投げ付ける者、露骨に罵言雑言を浴びせてくる者、ありとあらゆる人が来た。

 それらに対して、やっぱり彼は耐えていた。過ぎ去ることを待っていた。

 我慢していた。

 このままでは破綻する。破裂する。

 僕にはそう思えてならなかった。

「さあ、帰りましょうか」

 いつの間にか姉がいた。姉は僕の方を見ることなく、彼の方に手を差し延べていた。

 彼はその手を取ることなく、僕の視界から消えて行った。姉も白い霧に溶けて消えた。


 相変わらず僕は橋の上を歩いていた。先は欠片程も見えない。

 しかし僕は、先程から見ている幻に見当が付いていた。

 あれは過去だ。僕の忘れてしまいたい記憶だ。

 だから、僕は足を止めた。

 ここから先は思い出したくない。嫌だ。行けば現れる。現れればきっと僕は――また壊れる。今度こそ最下層まで墜ちる。あの時、僕を引き上げてくれた姉は、今はいない。

 いないのだ。

 しかし、先に行かなければ姉に会えない。

 会えない、という事が、僕に歩みを続けさせるのか。頭では、心では、これ以上は駄目だ、とわかっているのに、体は、足は、前に突き進む。

 やがて最期の僕が現れた。

 僕は、消えろ、と吠えながら、僕を捕まえようとする。しかし、手はするりと僕をすり抜ける。当たり前だ。過去とは無いものだ。亡きものだ。

 僕の前に多数の人間が――いや、人間じゃないものまでがずらりと並んで、笑いながら一斉に声を上げた。

「悪魔っ」

「悪魔っ」

「悪魔っ」

 僕は耐えていた。でも器にも限界がある。それも僕のようなひび割れた器ならなおさらだ。

 割れた。

 僕の中で徹底的に何かが壊れたのだ。

 それからの幻はノイズがかかったかのような曖昧なものとなる。

 しかし、僕は覚えている。それは深い傷となって、僕の脳に刻み込まれている。

 たしか僕は、笑うなっ、と叫びながら、自分を壊した代償として、周りのありとあらゆるものを壊したのだ。どうやったのかは覚えていない。ただ己の欲に従い、徹底的に壊した。

 そう、僕は保身のためではなく、単なる破壊衝動に基づいて暴力を振るったのだ。

 後になってからその事実に僕は深く傷付いた。

 しかし、それでも、致命傷にはならなかった。まったくお笑い草だ。重傷ではあったのだが、重体にならなかったのだ。そこで死ぬべきだったのに死ねなかった。

「さあ、帰りましょうか」

 いつの間にか姉が僕の前に立っていた。口許には柔らかな笑みを浮かべていた。

 僕はそれを勘違いしたのだ。最早、僕の中で笑顔は無条件で排除すべきものに変わっていた。

 姉の優しげな笑みと彼らの邪悪な笑みは有している意味が明らかに違うのに、僕はその区別が出来ない程、壊れていたのだろう。

 だから僕は姉を――

 犯した。

 壊した。

 殺した。


 あなたも笑うのかっ!

 僕に――顔が無いことを笑うのかっ!


 と、臆病に吠えながら、僕は姉を傷付けた。姉が泣こうが喚こうが謝ろうが、僕は欲求の赴くままに姉を凌辱した。

 これこそが僕の致命傷。

 取り返しのつかない傷。

 そこまでしてようやく、僕は完全に墜ち。

 そして。

 姉は僕の前で一切笑わなくなった。

 あんなに笑顔が素敵だったのに。あんなに日々が楽しそうだったのに。

 僕がそれを――奪い、壊し、殺した。

 ――それなのに。

 そんなことをしてしまったのに。

 僕を引き上げてくれたのは――姉だった。

 微笑んだ表情ではなかった。優しそうな表情ではなかった。どちらかと言えば、眉間に皺を寄せ、渋い顔をしていた。

 それでも、他の姉達もいる中、姉だけが優しく手を差し延べてくれた。

 いつもと変わらぬ調子で、優しく諭すように。

「さあ、帰りましょうか」

 と、最早変わりきってしまった僕に対してそう言ってくれたのだ。

 僕はその手を取るのをためらっていると姉が強引に僕の手を掴んだ。姉の手から伝わる熱があまりにも優し過ぎて、僕は声を上げ泣いた。

「どうして泣いているのですか。どこか痛いのですか」

 姉は心配そうに僕の顔を覗いてくる。

 僕は姉の問いに、心が痛いです、と答えた。

 心が痛みます。今まで何をしていたのか。何をして来たのか。思い出せば思い出す程に心が痛みます。

「では、これからどうしますか」

 僕は泣きません。卑屈に泣きません。泣いて助けを求めることもしません。泣いて顔が無いことも悔やみません。僕に顔があろうが無かろうが胸を張って生きたいと思います。その為にここに涙を――置いて生きます。

 僕は袖で涙を拭い、姉の前で高らかに声を上げ、そう宣誓した。

 散々いじめられ、散々からかわれ、散々迫害を受けて来て、僕はかなりひねくれてしまっていた。でも、このままだと永遠にそのままだ。僕は変わる。変われるはずだ。

 そう思うと、今まで僕をいじめていた人達がひどく平凡に見えた。すごく怖かったはずなのに、正体がわかった幽霊のように当たり前の存在に見えた。

 救われた。

 堕落に墜落を重ねた僕が今更救われようと思うことすらおこがましい話であるのかもしれないが、僕は姉の手に触れた時、間違いなく救われたのだ。

 僕はその時のお礼をまだ言っていない。


 気が付けば、橋を渡り終わっていた。濃かった霧はいつの間にか晴れ、陽の光が頭上に降り注いでいる。だが頭の中は長い夢を見ていたように少し霧がかかっている。

 姉がいた。

 橋を越えたところで膝を折り、器用に草で籠を作っている。

 その様子を見ただけで頭がすっきりしてくる。

 僕は姉のところまで駆ける。橋を渡り終えた瞬間、橋は雷鳴のような轟音を立て川に落ちて行った。

「あら」

 姉がその様子に声を漏らした。

「困りました。これでは帰る時、少しばかり遠回りしないといけません」

 姉は相変わらずの無表情なので、困っていないように見える。実際どうでもいいのだろう。すぐさま視線を手元に落し、籠作りを再開した。

 僕は姉が作り終わるのを待つことにした。

 気付けば、夜になっていた。この辺りの草はすべて籠と化しているので、砂漠化したようにこの辺りには何も生えていない。

 姉は二万三千九十七個目の籠を作り終わって「ふう」と、一息ついてようやく立ち上がった。

「永らくお待たせしました。さあ、行きましょうか」

 姉は服に付いた汚れを払い落し、僕の方を向いて手を差し延べた。

 その前に言わなければならないことがあります。

 僕は姉の目を見つめて言った。

 感謝と謝罪を嘘偽りない自分の言葉で曲げることなくまっすぐに――告げた。

 姉はどう思うだろうか。今更だと僕を怒るだろうか。それとも、今更だと呆れるだろうか。

 僕としてはどちらでも良い。

 ただ自分を誤魔化したくはなかった。

 僕は最後に、ごめんなさい、と頭を下げた。そしておそるおそる姉の顔を窺う。

 果たして姉の表情は――笑っていた。

 小さく口許を緩め、微笑んでいた。

 姉が笑った――たったそれだけのことで一体どれだけ救われるか。

 僕は今、本当の意味で救われたのだ。

「気にしなくていいです。私はあなたの姉です。あれごとき出来なくて何が姉ですか。私はあなたの姉であることに誇りを持っているのですよ」

 姉は笑顔を崩すことなく、胸を張ってそう言った。

 あなたの弟であることが素直に嬉しいです、と僕は小さく呟き、照れ隠しに姉の手を握った。

 姉は驚いたようで目をまるくしたが、すぐに小さく笑い、僕の手を握り返した。


おそらく次回がラストです。


ここまで読んでいただき誠にありがとうございます。

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