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僕と姉  作者: 狐狗狸
3/6

第三話 荒廃の街

第三話です。

 やっとの思いで山を超えた。

 しかしその頃には、空は夕闇に染まり、山からは怪しげな声が幾重にも重なり合い不気味な合唱を奏でていた。

 あの喫茶店を出てから不思議と身体が軽くなった。睡眠不足のはずだが、これといった疲れも感じず、ここまで快調に歩いてきた。姉も同様に変わらぬ涼しい顔で歩いていた。

 爽やかな山の香りに混じって何かしら腐ったような異臭が漂ってきた。鼻を突く臭いに思わず鼻を塞ぐ。

 この臭いは何ですか、と僕は姉に尋ねた。

「この先に原因があります」

 姉はこの臭いの中、鼻を塞ぐこともなく凜と立っていた。

 倒れたりしないだろうか、と僕はいらぬ心配をかけていた。

 臭いに慣れてきたのか麻痺してきたのか、鼻が何も感じなくなった頃、ようやく臭いの原因の元に辿り着いた。

 腐っていた。

 荒れていた。

 空気も風も土も建物も木も草も虫も動物も人も――決定的に荒廃していた。

 その中でも象徴的な物体(天を突き破らん勢いで高かったであろうタワーの中腹辺りが腐り折れ、槍のように尖った屋根が地面に突き刺さっている)を眺め、ここはどこですか、と僕は姉に尋ねた。

「荒廃の街です」

 と、姉は淡々と答えた。

 たしかにその名に恥じぬくらいの見事な荒廃ぶりだが、こんな所に長時間いられない。今この時でも地面はジュクジュクと腐食が進んでいるようだ。こちらまで腐り始めそうな、そんな錯覚さえ覚えてしまう。

「ここには立ち寄りませんので、今の内に見たい物があるのでしたら見てきてください。ただし、街の物には触れない事です。いいですね」

 僕が興味ありげに街を見ていると思ったのか、姉はそんな事を言った。

 たしかにある意味興味は尽きないが、この街の住人には悪いが、好奇心より先に嫌悪感が沸き上がって来る。

 姉にはそれは無いのだろうか。今この場においても、姉は今までと変わらない涼しい視線だ。

 とにかく入り口(と呼べるほどの物はないが)で立ち止まっている暇はない。僕と姉は街中へと歩いて行く。

 さすがに意外だった。

 想像の範疇を超えている。

 予想外もいいところだ。

 そう言い切る事に僕は何の迷いも抱かなかった。

 僕は――この街を知っている。

 それは泡のようにすぐにでも消えそうな不安定な感覚だったが、確かな、既視感などいう言葉では片付けられないほど、確かな、感覚だった。

 僕はこの街を知っている。

 それはどうしようもない事実として僕の脳裏に焼き付いた。

 歪に歪んだ建物も狂気に狂った空気も汚濁に汚れた人も――すべてを知っている。

 この先に公園があると思うと公園があり、川があると思うと川があり、家があると思えば家があった。

 これは、と僕は思わず口に出してしまった。

 僕は姉に救いを求めた。これはなんですか、と。

「これとは」

 姉は冷めた口調で訊いてきた。

 僕は今まで感じていた事を姉に説明した。その後に再度訊く。

 これはなんですか、と。

「聞けば後悔します。あなたの為になりません」

 姉は頑なに回答を拒否する。何をそうさせるのかわからないが、普段の僕ならここで退くがそうともいっていられない。

 気味が悪い。

 もっと言えば、気持ち悪い。

 これの内包を良しとできるほど僕はできていない。事実は事実として飲み込みたい。

 大丈夫です、後悔しません。いえ、後悔したいのです、と僕は体が震えるのを押さえながら姉に言った。

「そうですか」と、姉は呟き、少し間を開け、「では、事実を話しましょう」と、歌うように話し始めた。

「まず初めの事実として、この街はあなたの故郷です。この街であなたは産まれ、一年程この街に住んでいました」

 僕の身体が不安定に揺れ始めた。それは驚愕により震え始めたのか、とにかく緩やかなその揺れは止まらなかった。

「そうですね、あなたも十の年を過ごしてきました。話すのに良い頃合かもしれません」

 僕の変化など意にも介さず姉は続ける。後悔しか残らない話を歌い続ける。

「ここで産まれた事も一つの事実ではありますが、まだあります。あなたを産んだ人です。つまりは母上の話ですが、あなたを産んだのは母上ではありません」

 何という事だ。

 それは姉が――否、彼女が僕の姉ではないという事。家族ではないという事を指しているのにほかならない。

「大丈夫ですか」

 僕が余程悲愴な顔をしていたのか、彼女は心配するように話しかけてきた。

 しかし、僕はそれに反応することなく、ただ真っ直ぐ彼女を見つめていた。

 最早家族とは呼べない彼女(否、この場合は僕が家族ではないのだろうが、頭の整理が間に合わず彼女の方を除外した)とどう接すればいいのか分からない。他人は分からない。

「■に△さん。あなたはかなり勘違いをしているようです」

 彼女は心ここにあらずとなっていた僕を呼び戻した。

「私はあなたの家族です。それは間違いありません」

 彼女は強い口調で言った。彼女の鋭い視線は僕の心を抉るようで、僕は思わず目を逸らした。

 彼女は流れるように続ける。

「あなたを産んだのは母上ではありません。私です。私があなたを産んだのです」

 姉は他人になって他人は母上になって。

 ああ、頭が混乱する。目茶苦茶だ。これ以上僕の頭をかき混ぜないでください、お願いします。

 それでも母上は止まらない。僕の脳の原形を認めないとでも言うように言葉でかき混ぜてくる。

「しかし、私はあなたの母上ではありません」

 なんなんだ、あなたは何が言いたいんだ、と僕は声を荒げた。こんな声を出したのは産まれてから初めてかもしれない。喉が痛い。耳鳴りが止まない。辺りの建物は元が腐っていたからか粉となって崩れる。僕の声にこれ程の破壊力があるとは露とも知らなかった。

 誰とも分からない目の前の人はそんな僕の反応に反応せず、静かに続けた。

「私はただの器です。母上はあなたを産めない身体になっていました。だから受精卵を私の中に入れた。ただそれだけの事です」

 目の前の人は他人事のように淡々と話す。

 では、と僕は驚くままに訊いた。

 あなたは一体誰なのですか、と。

「私はあなたの姉です」

 姉はきっぱりと気持ち良く断言した。

「遺伝的にも心情的にも、です。私はあなたの姉以外の何かになるつもりは毛頭ありません」

 本当ですか、と僕が訊くと、姉は小さく頷いてくれた。それを見ると力が急に抜け、間抜けにも地面に尻餅をついてしまった。

「あら」

 と、姉が唐突に声を上げた。

 どうやら姉は僕の足を見ているようだ。僕もつられて足を見る。

 ジュクジュクと。

 ジュルジュルと。

 右足が腐っていた。

 どうやら僕の右足は、腐っていく間に自分の重みを支えられなくなり、耐えきれず折れて、結果として僕がこけたのだった。

「少し大人しくしていてください」

 姉はそう言って、僕を抱き抱え、街の外まで光の速度で駆けて行く。街を出てから、僕を下ろし、背負っていた鞄から大きな鋸を取り出した。

 何をするのですか、と姉に訊いたが、回答の予想はついていた。

「切り落とします」

 と、姉は予想通りの回答をした。

 姉は僕の足に鋸を添える。そして、ギコギコと何度も鋸を往復させる。

 削ぎ落とされる肉。

 削り落とされる骨。

 切り落とされる足。

 不思議と痛みは無かった。何も感じれない程までに僕の足は腐っていたのかもしれない。ただ、鋸の音が耳に心地良く入って来る。やがて、僕の足はぼとりと落ちた。それは腐り溶け、だらだらと流れ続ける僕の血と一緒に地面に染み込んでいった。

 その次に姉は何を思ったのか、自分の右腕を肩から切り落とした。

 僕は突然の事に驚き、な、何をしているのですか、と叫んだ。

「あなたの足の代わりです」

 そう言って姉は、自分の肩の止血もせずに右腕の切り口を僕の足の切り口に付けた。少し痛みが走った後、切り口が混ざり合い、それは僕の足となった。

「バランスが悪くて不格好ではありますが、その内元の様になるでしょう」

 姉はそう言いながら、自分の肩に包帯を巻き付けている。

 姉だ。彼女は間違いなく姉だ。誇りを持って胸を張って僕はそう言える。果たして自分の腕を犠牲にしてまで弟を助ける存在が姉以外にいるだろうか。

「これで大丈夫でしょう」

 姉は言いながら、包帯の端と端をギュッと強く結んだ。もう血は零れていない。

「とはいえ、少々鞄を背負い難いですね。捨てますか」

 僕が持ちます、と言う前に、姉は豪快に街の方へと鞄を投げた。それが視界から消え行く様を僕は静かに眺めた。

「これで身軽になりました。さあ、行きましょう」

 姉はそう言って左手を差し出した。僕は一瞬の間も置かずその手を取った。

 しかし、胸中では、あんな事を訊くべきではなかった、と後悔の念が渦巻いていた。

 僕は今より過去の方が余程重要だったのだろうか。僕にとって過去とはそこまで優先されるべき物なのか。

 姉といられる今よりも。

「どうしました。何か考えているようでしたが、やはり余計な事を話してしまいましたか」

 いえ、そんな事はありませんよ。ええ、なんでもありません、と僕は口早に言い訳をした。

 姉は疑に満ちた目を僕に向けて来たが、僕はあさっての方向を向きやり過ごした。

 と、その時。

 鼻からどろりとした液体が流れて来たのを感じた。

 何か紙を持っていますか、と僕は姉の方を向かず手だけを出した。こんな鼻水を流している顔を姉には見られたくなかった。

「ええ、ありますよ」

 姉はすんなりと僕の手に紙を数枚置いてくれた。

 勢い良く鼻をかむ。

 すっきりした。しかし、鼻で呼吸が出来ない。何故だろう。

 僕は一度丸めた紙を広げた。そこには――僕の鼻が腐り落ちていた。そう、僕の鼻はこの村に来た瞬間から腐り始めたのだ。

 ああ、だからこの街は嫌いだ。

 僕は強い後悔を抱きつつ、丸めた紙を遠くまで投げ捨てた。



なんだかんだで第三話です。


本日は読んでいただき誠にありがとうございます。

あと僅かだと思われますので、それまでお付き合いしてくれれば……と。

ではまた来月に。

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