第94話 妊婦の乗客
東大陸の大地を、バーン・スワロー号は北東へと向けて駆け抜けていく。
すでに辺りは夜になっていて、バーン・スワロー号を引っ張る半流線型の蒸気機関車は、ヘッドライトで闇を切り裂きながら走り続ける。
そしてバーン・スワロー号の1等車の中に、夜中近くなのにまだ灯りがついている個室があった。
そこは、ビートとライラが乗り込んでいる、個室だ――。
「ビートくぅん」
「ライラ、くすぐったいってば」
オレはライラに、そう云った。
ライラが何をしているかというと、オレの匂いを嗅いでいた。しかもオレの首辺りを、集中的に嗅いでいる。十分嗅ぐと、ウットリした目でしばらく虚空を見つめ、それからまた匂いを嗅ぎ始める。これの繰り返しを、ライラは飽きることなく1時間近く続けている。
「ビートくんの匂い、本当にいい匂いだからいくらでも嗅ぎたくなっちゃうよぉ……」
「ライラ、ここはオレたちだけだからいいけど、人前では自重しようね?」
「うん。だから今は、思いっきり嗅がせてぇ……!」
ライラはそう云って、再びオレの匂いを嗅いでくる。
匂いを嗅いで来るのは嫌いじゃないが、やっぱりくすぐったい。それに、ずっと一方的に匂いを嗅がれてきた。
オレだって、ライラの匂いを嗅ぐのは好きなのに!!
「ライラ、ちょっとストップ」
「ビートくん?」
オレの言葉に、ライラは嗅ぐのを中断して、オレを見た。
「どうしたの?」
「……こうしたほうが、いいと思うんだ」
オレはそう云うと、ライラを正面から抱きしめた。
密着といえるほど抱きしめると、ライラの柔らかい胸がオレの身体に食い込み、そしてライラのいい匂いがオレの鼻孔をくすぐった。これなら、オレもライラも、お互いの匂いを楽しむことができる。
「キャッ!?」
突然、オレに抱きしめられて驚いたらしく、ライラは短く叫んだ。
しかし、すぐに尻尾を左右に振りながら、オレに身体を預けてきた。好きなだけ抱きしめられるし、匂いを嗅いでもいいということだ。
すると、ライラが早くもオレの匂いを嗅いできた。
「ビートくぅん……わたし、幸せ……」
「大げさだなぁ。でも、オレもライラに包まれているみたいで、すごく安心できるよ……」
「ああん……くすぐったいよぉ……」
ライラの首筋の匂いを嗅ぐと、ライラが身をよじる。しかし、嫌がってはいないようで、尻尾を左右に振っていた。
明らかに、喜んでいる。
どんなことをしても、ライラは喜んでくれる。
いつかライラとの間に子供ができたとしても、ライラはきっと喜んでくれるに違いないだろう。
そんなことを考えながら、オレはライラの匂いを嗅いでいた。
そのときだった。
「うああっ!!」
突然、廊下から女性の呻き声が聞こえてきた。
オレとライラは驚き、お互いの匂いを嗅ぐのを止め、ドアの方を凝視した。
「ビートくん、今の何!?」
「分からない! だけど、すごく苦しそうな声だったな……」
オレはライラから手を離すと、立ち上がってガンベルトを巻き付けた。
リボルバーに弾丸が装填済みになっているか確認し、リボルバーを手にしたまま、オレはドアに向かった。
「ビートくん!」
「大丈夫!」
オレはライラにそう云ったが、不安だった。
女性の呻き声は、時として男の呻き声よりも恐ろしい。特に姿が見えないとなると、なおさらだ。考えられるのは、相手をおびき寄せようとしているか、本当に苦しんでいるかだ。本当に苦しんでいるのなら、助けないといけない。しかし、誰かが罠を張っているとしたら、見破るのは難しい。
いや、考えても仕方がない。
呻き声の元を確認しないことには、答えははっきりしないのだから。
オレはドアのカギを開け、ドアを一気に開けてリボルバーを構えた。
「誰だ!!?」
「うう……た、助けて……!!」
「!?」
ドアの先に現れた光景を見て、オレは目を見張った。
そこに居たのは、人族の女性が1人。
ゆったりとしたワンピース姿で、オレたちの居る部屋の前に、座り込んでいた。そして特徴は、目を見張るほどの大きなお腹。太っていたとしても、そこまで大きくなることは無いほど、膨らんだお腹だ。それを見れば、誰だってその女性がどういう状態なのか、すぐに分かる。
明らかに、妊婦だ。
オレはリボルバーをホルスターに戻すと、ライラを呼んだ。
「ライラ、手を貸して! 妊婦さんだ!!」
「わかったわ!」
このまま、廊下に放り出しておくわけにはいかない。
オレとライラは、妊婦に肩を貸して、オレたちの個室へと連れ込んだ。
いつでも横になれるようにベッドに座らせ、持っていたビン入りの水を飲ませると、ようやく妊婦は落ち着きを取り戻した。
「た……助けていただき、ありがとうございます。私は人族のクリスといいます」
クリスと名乗った人族の女性に、オレとライラは自己紹介をした。
「クリスさんは、妊婦ですよね?」
「えぇ、そうなのよ。もうすぐ、生まれる予定なの」
ライラの問いにクリスはそう答え、大きくなったお腹を撫でる。
大きく膨らんだお腹の中に、赤ちゃんがいる。ここまでお腹が大きくなった出産間近の女性を見るのは、初めてだ。オレは物珍しさから大きくなったお腹に、目が行ってしまう。しかし、ジロジロ見るのも気が引けた。
「でも困ったわ。バーン・スワロー号には、乗り組みの医師が居ないのよ」
クリスはそう云って、困った表情になる。
医師が乗り組むことが義務付けられているのは、大陸横断鉄道のアークティク・ターン号や、傷病人を運ぶ輸送列車だけだ。長距離列車には、医師が乗り組むことについての規定は無い。乗り組んでいることもあれば、いないこともある。そして、このバーン・スワロー号には医師は乗り組んでいない。
もしも走行中に産気づいたりしたら、どうすればいいのだろう?
駅ならすぐに医師を呼べるが、走行中にはそうはいかない。
「もうすぐ出産なんですか?」
「えぇ。もういつ産まれても、おかしくないわ」
ライラの言葉に、クリスは答えた。
「あの、それならどうしてこの列車に乗っているんですか?」
オレは、疑問をクリスに投げかけた。
「産まれる日が近いのでしたら、自宅や産院で大人しくしている人がほとんどのはず。だけどクリスさんは、長距離列車に乗っています。これは、どうしてですか?」
それがオレが抱いている、疑問だった。
出産間近だというのに、なぜわざわざ、リスクを伴う長距離列車で移動しているのか。どこから乗ってきたのかは分からないが、産院はよほどのへき地でもない限り、どこの町にも必ずある。自宅が難しくても、産まれる日が近いなら、産院に入って産まれる日を待つこともできたはずだ。
「故郷に、帰る途中なの」
そんなオレの疑問に、クリスは嫌な顔ひとつせずに答えてくれた。
「私の故郷は、東大陸のシェヘラ領サウド地方マサラ。ちょうど、このバーン・スワロー号の停車駅なの。元々私は、西大陸で旦那のダイトと一緒に暮らしていたんだけど、故郷で子育てをすることに決めたの。それで、バーン・スワロー号で故郷に帰ることにしたの。本当はもっと早くに帰る予定だったんだけど、旦那の仕事が長引いちゃって、帰るに帰れなかったの。それまでにこんなに大きく育っちゃって……」
クリスは話しながら、自分のお腹を再び撫でた。
「でも、安定期に入ってきたから旦那と相談して、故郷に帰ることにしたの。旦那も私も、出身は同じマサラだから、故郷で子育てしたい気持ちは一緒だったわ。それで相談して、バーン・スワロー号に乗り込んだのよ」
「そうだったんですね……よく分かりました、ありがとうございます」
そういう事情があるのなら、納得だ。
オレとライラは視線を交わし、頷いた。
「クリス!?」
突然、オレたちがいる個室のドアが開き、1人の男性が入ってきた。
紳士の服を来た若い男性は、首から婚姻のネックレスを下げている。
「ダイト!」
「クリス!!」
クリスが男性に向かって云い、ダイトと呼ばれた男性が、クリスに駆け寄った。
「トイレに行ったきり戻ってこないから、心配したよ!」
「ありがとう、ダイト。このお2人が、手助けしてくれたの」
「そうだったのか……ありがとうございます!!」
クリスから云われて、ダイトと呼ばれた男性は、オレたちに頭を下げた。
「紹介が遅れました、僕はダイト。クリスの夫で、代書人をしています」
「僕はビートです」
「わたしはライラ。ビートくんの奥さんです!」
自己紹介をしたダイトに、オレたちも自己紹介をする。
「妻のクリスが、本当にお世話になりました。ありがとうございました!」
「また何かありましたら、力になります。いつでも呼んで下さい」
「ありがとうございます!」
ダイトは再度、オレたちに頭を下げた後、クリスに手を伸ばした。
クリスはそっと立ち上がり、ダイトの手を取る。ダイトが手を握ると、クリスの表情が柔らかいものになっていった。
やっぱり、大好きな相手に触れられると、安心するのだろう。
その表情は、オレに手を握られたライラと、どこか似ているような気がした。
「大変お世話になりました。どうもありがとうございました!」
最後にもう一度、オレたちにお礼を云ってから、ダイトとクリスは共に個室を出ていった。
ダイトとクリスが居なくなると、オレたちの個室には静寂が訪れた。
「ビートくん、わたし妊婦さんの介抱したの初めて」
「オレも、初めてだよ」
2人だけになった部屋の中で、オレとライラは共にベッドに寝転がった。
疲れがどっと押し寄せてきた。慣れないことをして、緊張したのだろうか。
「なんだか、すごく疲れたような気がするよぉ」
「オレも同じだ。だけど、少しだけいい経験になったかもしれない」
「どうして?」
ライラが、オレの言葉に首を傾げた。
「……いつかきっと、分かるよ」
「?」
不思議そうな顔をして、ライラはオレを見つめてくる。
将来、オレとライラの間に子供ができたりするだろう。その時に、オレがどう対応すればいいのか。
クリスの介抱をしたことで、それをちょっとだけ知れたような気がした。
だけど、それはまだ先のことだ。
いつになるか分からない。だから、今からそんなことを考える必要はない。
すると、ライラが口を開いた。
「ビートくん、疲れちゃったから、そろそろ寝ようよ。もう、かなり遅くなっちゃったよ?」
「そういえば……そうだな」
オレは懐中時計を取り出した。
時計の針は、夜中の1時を指し示している。いい加減、寝ておいたほうがいい時間だ。
「あまり遅くまで起きていても、やることがない。寝ようか」
「うん。それに次の停車駅って、まだまだ先なんでしょ?」
「あと2日はかかるな。ボーンまで、まだまだ先は長いよ……ふわ~ぁっ」
オレは大きなあくびをした。
ベッドから起き上がると、枕元の読書灯だけを点け、個室の照明を落とした。
部屋の中が暗くなると、読書灯のを頼りにしてベッドに戻り、ライラの隣に戻った。
オレが寝転がると、すぐにライラが抱き着いてくる。
「おやすみ、ライラ」
「おやすみ、ビートくん」
ライラがそう云って、オレの頬にキスをした。
オレとライラは、お互いの温もりを分かち合いながら、眠りについた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます!
感想、誤字脱字、ご指摘、評価等お待ちしております!
次回更新は、5月6日の21時更新予定です!
そして面白いと思いましたら、ページの下の星をクリックして、評価をしていただけますと幸いです!





