第52話 ライラの歌
オレはまだ日が昇る前に、アマデウスホールにやってきた。
こんなに朝早くに起きて仕事をするなんて、本当に久しぶりだ。
おかげでまだ眠い。
だが、かといって眠っていることはできない。
オレがアマデウスホールの裏口から中に入ると、すでにヨハンさんが出ていた。
「おはよう、ビートくん」
「おはようございます!」
挨拶をすると、ヨハンさんによって事務室へと案内された。
そこでオレは、ガリ版刷りのチラシを手渡された。
「これが、昨日非番だった団員たちに頼んで作ってもらったチラシだ。頼んだよ」
「はい、任せてください!」
オレはチラシの束を抱えると、東の空が白くなりつつあるアルトの街へと、駆け出した。
次から次へとポストを見つけては、チラシを投かんしていく。
まさか鉄道貨物組合で請け負った、ポスティング活動の経験が、こんなところで役に立つなんて……。
人生、何がどこでどう役立つかなんて、分からないものだな。
そんなことを考えながら、オレはチラシを投かんしていく。
夜が明け始めたアルトの街の通りに、人はまばらだった。新聞配達員か、牛乳配り、早朝ランニングをする人くらいしか見受けられない。
「……よし、と」
オレは最後の1枚を、ポストに投かんした。
これでオレが担当していた枚数は、全て配り終えたことになる。
気がつくと、太陽はすっかり昇っていて、仕事に行く様子の人も通りに出てきた。
道理で、辺りが見やすくなったわけだ。
とりあえず、これでひと区切りついた。
だが、オレの仕事はまだ終わったわけではない。
いやむしろ、ちょうどいいウォーミングアップを終えて、これからが本番といったところだ。
オレは駆け足で、アマデウスホールに戻ると、団員たちと共にホールの掃除を始めた。
なんとしても、今日の午後からの公演に間に合わせないと、いけなかった。
9時頃になると、ライラがやってきた。
「ビートくん!」
事務室で休憩していたオレに、ライラが駆け寄ってくる。
「おはよう、ライラ! 朝ご飯は済ませた?」
「うん! ちゃんと食べてきたよ!」
その言葉に、嘘は無いようだ。
証拠に、ライラの口元にはパンケーキのシロップらしきものがついている。
オレが指摘すると、ライラは顔を真っ赤にして、慌ててハンカチで拭き取った。
「ビートくん、少しでいいから、フガ――」
「ライラさん」
ライラが云いかけた時、声をかけられた。
アルト・フォルテッシモ楽団お抱えのスタイリストが、ライラの後ろに立っていた。
「これから、打ち合わせと衣装合わせを行いますので、控室に来てください」
「でも、その前に少しだけ、ビートくんのにお――」
「間に合わなくなっちゃいますから、来てください」
スタイリストがそう云うと、ライラは少しだけ耳を垂らした。
諦めたらしく、オレに背を向けて、歩き出す。
「ライラ――」
オレは控室に向かい出したライラに向かって、云った。
「帰ったら、思いっきりフガフガしていいぞ!」
「――!!」
ライラの垂れていた耳が立ち上がり、尻尾もピクンと上を向いた。
「うん! 楽しみにしているね!!」
ライラは笑顔でそう云うと、控室に向かって行った。
正午が近づいてきた頃。
控室から出てきたライラを見て、オレは目を奪われた。
舞台衣装となるイブニングドレスに身を包み、両手はイブニンググローブで包まれている。
そして首に光るのは、オレが贈った婚姻のネックレス。
それ以外には何もつけていないが、それだけで十分だった。
必要以上に着飾る必要はない。
素材そのものが、美しいのだから。
「ビートくん、どう?」
「すごく美しいよ!」
「本当!?」
ライラが尻尾を振ると、イブニングドレスのスカートがバサバサと音を立てる。
「今回のテーマは、貴婦人の決意ですよ」
スタイリストが、そう云った。
「プログラムにもあるように、貴婦人が旦那さんと共に訪れた夜会で、ある誓いを立てるというストーリーになっています。なので、歌の内容もそれに沿ったものになっています」
「わかりました!」
そして、ついに正午が訪れた。
アマデウスホールの中では、アルト・フォルテッシモ楽団の団員たちが楽器の最終調整を行っている。そして観客席には、すでにたくさんのお客さんが来ていた。
朝にガリ版刷りのチラシをポストに入れていっただけなのに、こんなに来るなんて……。
オレは自分の目が信じられなかった。
予想以上の満員御礼に、オレは息を飲んだ。
ふと隣を見ると、ライラも驚いていた。
「ビートくん、いっぱいいるよぉ……」
ライラもここまで集まるとは思っていなかったらしく、緊張しているようだった。
無理もない。ここにいる全員の前で歌うとなると、オレだって緊張するだろう。
だけど、ここで「無理しなくていいよ」という声をかけるのは、ダメだろう。
主役になるのは、ライラなのだから。
ここでオレが掛けるべき言葉は、ライラをなだめる言葉ではない。
ライラを、やる気にさせる言葉なんだ。
「ライラ、心配することは無い」
「どうして? すごく緊張するよぉ……」
「観客を全員、オレだと思って歌ってみてよ。あそこに座っているのは、オレなんだ」
オレがそう云うと、ライラの表情が変わった。
「いい? あそこに座っているのは、全員オレだ。全員が、オレなんだ……」
呪文を唱えるように、オレはライラに繰り返し伝える。
ライラの目をじっと見ると、ライラの目にオレの顔が鏡のように映って見えた。
「ライラ、舞台の上で、オレに向かって打たんだ。いいね?」
「うん!」
ライラが、元気よく答える。
そこに先ほどまでの、緊張した様子のライラはいなかった。
「ビートくん、頑張るから、終わったらいっぱい撫でてね!!」
「もちろん、列車に戻ったら、嫌というほど撫でるよ!」
オレはそう約束した。
そして開演となる13時までに、予想していたよりもはるかに多くの観客が、アマデウスホールに集まった。
13時になると、公演が始まった。
オレは舞台のそでから、公演を見守ることとなった。
「レディースアンドジェントルメン! 突然の公演にもかかわらず、お集まりいただきまして、誠にありがとうございます!」
燕尾服に身を包んだヨハンさんが、舞台に立って挨拶した。
ヨハンさんの挨拶に、観客たちが盛大な拍手で応える。
「本日は『貴婦人の決意』をテーマに、スペシャルゲストの歌姫ミス・ライラが歌声を披露いたします! どうぞ皆様、素敵なひと時を是非お過ごしくださいませ!」
ヨハンさんは一礼すると、指揮棒を手にした。
すぐに団員たちが楽器を手にして、すぐにでも演奏できるように待機する。
「それでは、歌姫ミス・ライラのご登場です!」
その言葉の後に、ライラが舞台の中心へと歩み出る。
観客席からは拍手が送られると同時に、男たちのざわつきが聞こえてきた。
「あの少女が、歌姫だって!?」
「なんて美しいんだ……!」
「以前にも見たぞ! あの少女、すごく上手だった!」
ありがとう。オレの妻を、そんなに褒めてくれて。
観客席に向けて、オレは軽く頭を下げた。
さぁ、これからライラが歌声を披露するぞ!
以前と違って、今はディアブロたちはいない。何かあったとしても、オレが走り出すことは絶対にない。
ここで、ライラの歌声を最後まで楽しんでいこう!
アルト・フォルテッシモ楽団による演奏が始まると、少ししてから、ライラが歌い出した。
アマデウスホールの中に、アルト・フォルテッシモ楽団の演奏に乗せて、ライラの歌が隅々まで響き渡っていくようだ。
オレは、ライラの歌に耳を傾けながら、舞台のそでからライラを見守る。
歌の内容と、舞台衣装に身を包んだライラの姿が、予想以上にマッチしていた。
テーマは貴婦人の決意。そしてライラは、誓いを立てようとする貴婦人になり切っていた。
白いイブニングドレス姿で誓いの歌をうたうライラと、結婚式でのウェディングドレス姿のライラが、オレには重なって見えた。
ライラが……美しすぎる……。
その後、5曲演奏され、ライラは最後まで歌い上げた。
もちろん最後は、観客からの惜しみない拍手が、いつまでも送られた。
終わった後の、ライラの晴れ晴れとした表情も、きっと忘れないだろう……。
そしてなんと、ヨハンさんから大金貨40枚以上の売り上げが出たことを、オレたちは後から知ることとなった。
その日の夜。
「さぁさぁ、遠慮しないでどんどん食べておくれ」
ヨハンさんが、オレのグラスにワインを注ぎながら、そう云ってくる。
オレとライラは、アルト・フォルテッシモ楽団の団員たちと一緒に、テーブルを囲んでいた。
テーブルの上には、数々の高級そうな料理が、所狭しと並んでいる。
肉料理が多いためか、ライラは目をキラキラさせていた。
「2人のおかげで、最高のステージになったんだ。遠慮することは無い。好きなだけ食べて、好きなだけ飲んでおくれ」
「今日は本当に、ありがとう」
ライラのグラスには、マリアさんがワインを注いだ。
マリアさんとライラが並んで立つと、まるで年の離れた姉妹のようだ。
「お肉もたくさんあるから、どんどん食べてね」
「はいっ! ありがとうございます!」
明るい表情で、次々に肉料理に手を出していくライラ。
幸せそうな表情で、肉料理を食べているのを見ると、オレも嬉しくなってきた。
オレも今宵は、ヨハンさんの好意に甘えて、思いっきり食べておこう。
「……いただきます!」
そう云って、オレも数々の料理に手を伸ばした。
夜遅くまで、夕食会は続き、お開きになったのは1時を過ぎてからだった。
列車に戻ったオレとライラは、翌日は少し遅めに目を覚ますこととなった。
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