愚者の独白
愚かな人間だと笑って欲しい。
たかが一人の娘の為に地位も名誉も富さえも失ったこの、私を。
皆が後ろ指を指して嗤い、誰もが私を暗愚な男だと罵り石を投げた。
それでも。
それでも、何一つとして私は間違っていなかったのだと、今でも。
我が首が落ちる今この瞬間まで、思っている。
最愛の娘の為にこの国を裏切ったこと。何一つとして後悔などしていない。
私に笑い掛けることのない青白い顔も、痩せこけて骨が浮く骸も、艶を失って以前の姿からは程遠く見させる赤みの強かった茶色い髪も、亡き妻を彷彿とさせる知性と意思を感じさせるその薄いグレーの瞳も。
今はもう、存在しないのだから。
私は目を閉じる。
沸く観客も娘が愛したあの王太子も王太子が愛する異国の少女も、最早どうでも良いとさえ思える。
ただ、もう、どうでも良かったのだ。
「やれ」
そんな憎き王太子の一声を最期に、私の意識は消えた。
「お父様、お帰りなさい」
「ただいま、シュティ」
次に目に入ったのは、そんな懐かしい景色だった。
吹き抜けのホール。螺旋階段。並ぶ使用人達。
そんな彼らの中心で靡く艶々しい赤みの強い茶髪。凛々しく輝く薄いグレーの眼差し。ふわふわと踊るクリーム色のドレス。
もう、脳裏にしか残らない、その姿。
「…………シュティ」
王子に裏切られ、異国の少女に全てを奪われた愛しい娘の姿と少しだけ若い自分の姿。
無意識に娘の名を呼んでも、当然彼女が振り向くことはない。
しかし彼女達が歩き出せば、私の身体も自然とそれを追うように動き出した。
「ヴァルディス殿下とはどうだ?」
「うーん、まだ分からないわ。でも、嫌われてはいないみたい」
カーペットの敷かれた廊下を二人に並んで歩き、近況を報告し合う。
会話の内容からして私が死ぬ五年以上前のことだろうか。
「…………走馬灯、というやつか?」
親子らしい会話を交わす二人の後ろで私は首を傾げ思案する。
それにしては随分明瞭な気もするが、自分の後ろを歩いているし、首に刃が立つ感覚も覚えている。
「お前が望む道を進めばいい」
「もう、お父様ったら」
しかし、幸せそうに笑う娘の姿が懐かしくて、そんなことはどうでも良くなった。
「お父様、ディー様との婚約が決まったわ」
「おめでとう」
本の頁を捲るように景色が途絶え、違う景色が用意される。
手入れのされた屋敷の庭園で、綻ぶ花よりもずっと美しいその笑顔で、娘は微笑んでいた。
ああ、先程見た記憶より半年程進んだ時のことだ。
当時12の娘と、当時14の王太子との婚約が決まった時のことだ。
勿論王太子と娘の婚約が決まったことは彼女よりも先に知っていたが、自分から報告したいだろうと思って敢えて言わなかったことを覚えている。
「ずっとディー様に憧れていたから、横に並べてとても嬉しい」
「ああ、ずっと頑張って来たな」
騎士家系の侯爵家に生まれ、5つの時から王妃候補として厳しい教育を受けてきた娘が王太子と婚約した時は、確かに心の底から喜んだ。
一目会った時から王太子を慕い、彼を追い掛け続けた娘の姿を見ていたから。
「私、これからも頑張るね」
「ああ、無理はするなよ」
自分の半分くらいしか無いようなその華奢な身体でずっとずっと頑張っていた。座学も、歌も、護身術も、苦手な刺繍も。
王妃候補に相応しくある為だけに過ごしてきた七年間が報われたと知って喜ばない訳がない。
自分の手が娘の頭を撫でる。直接触れてなどいないはずなのに、柔らかくて艶のある髪の感触を手に思い出す。
さらさらしたその髪は、娘の自慢でもあった。
「…………おとうさま」
また景色が歪んで、ランタンを抱えた娘の姿が現れる。
「どうした?」
和らいだ心に、一滴の怒りが垂らされた。
深夜の、虫さえ鳴くことのない夜更けに、泣いた娘が自室にいた私を訪れたのだ。
「わたし、私、何か悪いことしたかなぁ……?」
ぽたぽたと頬を涙に濡らす娘の姿を見たのは、婚約決定から一年程してから。
「おいで」
その時は、何があったのかさえ欠片も知らなかった私は娘を傍に寄せ、震える肩を抱いて静かに話を聞いていた。
最近、王太子が冷たいこと。
お茶に誘っても断られ、夜会のダンスも共に踊ってくれない、挙げ句の果てには娘が違う人間を懸想していると言い出したこと。
「他の方と二人っきりになったりしたことだってないのよ。だって私、ディー様だけが好きなのに」
声を詰まらせて、目を腫らして訴える娘の言葉に頷く。
「ああ、ずっと王太子の横に並ぶ為に頑張ってきたんだもんな。分かっているよ。王太子も、少し虫の居所が悪かったんだろう」
ベッドに座らせて、今思えば気休めにもならないような言葉で娘を慰める。
この時、もっと私が深く首を突っ込んでいればと、死んで何も出来ない今なら思う。
「うん……そうだよね。ありがとう、お父様」
少しだけ落ち着いた様子の娘に肩を撫で下ろし、いつものように頭を撫でてやる。
ああ、もっと、ちゃんと、話を聞いていれば。
「おやすみなさい」
ぱたん、と閉じられた扉の向こうで、娘がどんな顔をしていたのかなんてその時の私は知るはずもない。
「うん…………もっと、頑張らなきゃ」
けれど、今は。
そんな娘の顔が、良く見えた。
「シュティ」
自分を追い込む彼女の姿。
既に寝る間さえ惜しんで王妃教育を詰め込んでいるというのに。
「大丈夫、もっと、頑張ったら、きっとディー様も認めてくれる」
そんな、価値に。
「…………褒めて、くれるよね?」
そんな、言葉の、為に。
「頑張ろう」
娘は、あそこまで追い込まれたのかと。
苦い感情が、やるせない痛みが、胸を締め付ける。
些細なきっかけだったのだ。
些細なすれ違いが重なった結果、王太子との間には亀裂が走っていった。
ああ、でも、と。
闇に消える娘の後ろ姿を眺めて。
これだけならまだ、修復は出来たのではないかと思ってしまった。
だから目を閉じて強制的に視界を葬る。
見たくなかった。これから先、ただ壊れていくだけであろう娘を、もう。
「…………え?」
けれど、そんな走馬灯は、瞼の裏にさえもやってきて。
「彼女を王宮で保護することになった」
願いも虚しく、続きをただ傍観する。
「よろしくお願いします、シュティルさま」
ふわふわとウェーブを描く明るい栗色の髪と瞳。可愛らしい顔立ちと見慣れぬ異国の衣服を身に纏った少女。
「…………ええ」
決定的に王太子との関係を壊す楔となった、存在。
娘が、奇しくも婚約当時の王太子と同じ年になったその年。
王宮にて、見慣れぬ少女が倒れているという報告が上がる。
過去の文献から彼の少女は異国からの来訪者で、国に繁栄をもたらす見識と特殊な力を持っている可能性があるという観点から、王宮で保護することとなった。
「ディーさま!」
王太子の後ろを引っ付くその姿を、王宮で何度も見掛けた。
「なんだ?」
最初は邪険に扱っていた王太子も、裏のない好意をこうも素直に寄せられるとそうは扱えないのか、次第に態度が軟化していく。
「ねえねえ、ディー?」
「ああ」
王宮の庭園で、しばしば業務を抜け出しては異国の少女と共に過ごしているのを目にするようになる。
「えへへー」
「…………」
そんな二人を、遠くから眺めている見慣れた背中も。
「なんでもなーい」
自分が独占している時間がどの様な時間さえも理解していないその少女には、嫌悪しか覚えていない。
「なんなんだ」
しかしそれよりも、その立場をずっと昔から教え込まれているはずの王太子が異国の少女に流されているという現状が、一番理解出来なかった。
その間にも、少しずつ楔は打ち込まれていって。
「ヴァルディス王太子殿下」
王太子から愛称で呼ぶなと命令されてから、娘は婚約者のはずなのにそうも他人行儀に彼を呼ぶようになった。
「なんだ」
先程一緒にいた少女へ吐いた言葉は同じでも、異なるトーンに娘の拳が握られる。
「最近、業務を抜け出す時間が目に余ります。異国の少女を気に掛けるのはご立派だとは思いますが、何れは彼女もここを出なければなりません。余り一人へ構うと良くない噂も立ちます。もう少しお控えください」
「何をしようと僕の勝手だろう」
注意を促す娘と、目の敵である娘の言葉など聞き入れようともしない王太子。
「…………シュティ」
彼女が、努力すればする程。王太子は、彼女から離れていった。
彼が放り出した仕事を、夜会を、全てを娘がフォローすればする程。
「ディー!」
王太子は、無垢で無邪気な異国の少女に傾倒していった。
もう、この時点で修復は不可能だっただろう。
それでも娘は、たった一言を、たった一つのかけがえのない価値を求めて王太子を追った。
「なに、を……?」
ぱらぱらぱらと、ページが飛んで。
娘が壊れるその瞬間を、映す。
「彼女を王妃とすることにした」
異国の少女が現れ、その後二年の間にて病に伏して崩御された先王から王の座を戴いた元王太子殿下が珍しく娘を呼び出した。
何事かと思いつつも、異国の少女のせいで王妃の決まらないことから少しだけ期待に胸を馳せて自室へ行けば。
そんな青天の霹靂のような言葉を、娘は突き付けられた。
「何故……」
唇は震えて、喉は締まって、娘は言葉を紡ぐことが出来ない。
「ごめんね、シュティルさま」
あくまでも、来た当時と変わらぬ無邪気さでその少女は笑う。
「それだけだ。用は済んだから出ろ」
立ち竦む娘の肩を押し、下がらせる王太子。
呆然と廊下に立ち竦むまま、彼女は静かに、ゆっくり、壊れていく。
自分が今まで培ってきたきたこと全てを拒絶された娘の痛みは量り知れない。
王太子の為だけに、彼の為だけに生きてきた娘の、痛みなんて。
「シュティ!!」
「…………おとうさま」
その日の夜。
未だ呆然と虚空を眺める娘の視線が漸く人へ向いた。
「お父様……」
真っ暗だった目に、雫を溜めて。
「ごめんなさい」
娘は、そう言うのだ。
「わたし、まちがえちゃった」
笑おうとして、頬がひきつって、歪になった顔のまま、娘は言う。
「彼の傍に立ちたいだなんて、私には身の丈に合わない願いだったの」
笑っているのに、滔々と涙を流す。
「でも、何も出来ない、しようともしない子が、どうして彼の傍に立てるの?」
眉をひそめて、涙を流して、娘は笑い続ける。
「わからない……わからないよ、お父様」
壊れたように、譫言のようにそう繰り返す娘へ掛ける言葉なんて持ち合わせていない。
以前よりもずっと細くなってしまった身体を抱き締めて、お前は悪くない、なんて、そんな言葉しか言うことが出来ない。
「おとうさま…………ごめんなさい……」
その日以来。
娘は人との会話を一切謝絶して、生きることを諦めた。
そして。
いつものように、娘へ花を買って帰って来た。
「しゅ、てぃ…………?」
脳裏にこびりつくその景色が、違わないまま目の前に映る。
「シュティ……」
生気のない頬。艶の失せた赤茶の髪。閉じられた瞳。青白い肌に浮く、鮮やかな赤。
「ああ……」
ごめんなさい、お父様、と。
「ああぁあぁああ……」
力のない、綺麗な字を残して。
「あ゛あ゛ぁああぁああ゛!!!」
娘は一人、命を絶った。
慟哭を、絶叫を、いくら叫んだとて娘が還ることはない。
それでも、行く宛のない感情を宥めるには叫ぶことでしか解消出来なかった。
叫び、咽いで、声が枯れて涙さえも流れなくなったとしても、娘の痛みを知ることなんて出来ないのだろう。
自ら死を選び、全てを捨て去ってしまった娘の感情なんて。
また、景色が変わる。
大雨の中、黒い群勢が一つの棺を囲っていた。
「…………シュティル様」
使用人、親しかった友人達に死を惜しまれ、哀を告げられる。
そしてしめやかに、娘は埋められた。
娘を埋める時、王太子が現れなくて良かったと心の底から思っていた。
会えば、間違いなくその身体に刃を立てただろうから。
「どうか、堪えてください」
娘を葬り終えた後に、同僚である宰相からそんな言葉を掛けられた。
「…………」
どういう意味なのか、その時は分からなかったが。
ぱららっと軽快な音を立てて、宰相の言葉の意味を理解した瞬間に飛ぶ。
「ご懐妊、おめでとうございます!」
服喪を終え、王宮へ参じた時。
彼の言葉の意味を、知る。
ホールに飾られる数々の祝い品。入れ替わり立ち替わる貴族。高い位置で微笑む二人。
「…………ああ、そうか」
ぷつりと、何かが切れる音がした。
視界がじわじわ滲んで、意識が分離するようにクリアになっていく。
「貴方にとって、娘はどうでも良いのか」
声にすらなったのかさえも怪しいその声で、私は静かに確信した。
もう、今も。既に、昔も。
彼にとって娘は、どうでも良い存在なのだと。
数ヶ月、娘が、仮にも婚約者であった人間が、仮にも先王が病に伏していた間自分を支えた人間が屋敷に籠っていても気にもせず王としての仕事は出来る程度には、どうでも良いのだと。
「そう、か」
王太子を見上げる。かち合うはずのない視線を送り続けて、下を向く。
幾ら彼が名実ともに王であったとしても、未だに私の中の王は先王のまま。彼は未だ、王太子のままだ。
「それなら……」
もう、いい。
忠誠を誓った王も存在しなければ、守るべきモノもない。
こんな国に、私は価値など感じない。
「ああ、好きにしてくれ」
宰相としての権力を濫用して、敵対関係にある人間へ国の情報を流し続けた。
いつか、その情報がこの国を滅ぼすことを願って。
何度も何度も王の部屋へ刺客を送ったりもした。
もう、どうでも良かった。
だからわざと情報の足跡を残して追跡出来るようにもした。
全てが、どうでも良かったのだ。
「…………分かっているよな?」
例え私の罪が明るみとなって拷問を受けても石を投げ付けられても首を落とすことになったとしても。
「どうでも良い、ことだ」
その一言に、王太子の顔が歪む。
そこで、私の走馬灯は終わった。
少しずつ薄れていく意識の中で私は思う。
自分が行ったことに後悔など何一つない。けれど、娘や妻と同じ場所へは行けないのだと思うと、少し悲しい。
きっとまともな後生は送れないだろうが、それでも後悔はない。
でも、ただ一つ。
心残りだけは、あった。
もし、私がもっと娘と会話をしていたら。
娘も、王太子以外のものに目を向けることが出来ていたのなら。
小さく、私は呟いた。
「馬鹿なのは……愚かであったのは、誰だったんだろうな」
父の独白。
それは誰かの耳に入ることのない、ただのひとりごと。