02 内緒話で大声を出すな
今日は良い天気だった。
空は晴天。暖かい日差しに、春を感じさせる風。誰かが演奏しているピアノが耳に心地よい。
絶好の昼寝日和だ。食堂のランチを完食し、お腹いっぱいになった私は、足取り軽く旧校舎の裏庭に向かった。
今年の夏に取り壊し予定の旧校舎に、立ち入る生徒は少ない。そのため裏庭はひと気がなく、植えられた大木が日陰をつくっているため、昼寝するには最適だ。私はお気に入りの場所に辿り着くと、ハンカチを地面に敷き、木の幹を背もたれにするよう座った。
寒くもなく暑くもないちょうど良い気候が、食後の眠気を後押しする。小鳥の鳴き声を子守唄に、私はうとうととしていた。
遠のいていく意識が、夢と現実を曖昧にする。私は今起きているのだろうか、眠っているのだろうか。自分の現状すらはっきりしない中、私は虚構の世界を謳歌していた。
——ボロボロな旧校舎から、使い古された机や椅子がひとりでに動き始める。軽快な音楽がどこからともなく流れ、私の周りで踊り始めた。
くるくるくるくる。くるくるくるくる。
四脚を器用に使ってリズムを取る机と椅子が可笑しくって、私は腹を抱えて笑った。すると、椅子たちが怒り出し、私を持ち上げ上へ上へと積み上がる。おどおどしていると、あっという間に一人舞台の出来上がりだ。いつの間にか机が天井をつくり、周りを暗くしていた。ありったけのガス灯が一箇所に集まり、スポットライトを私に当てる。それが合図となり、机と椅子から口が生え、合唱し始めた。
有名な歌だ。互いに想い合う男女が、永遠の愛を誓うために苦難を乗り越える話。情熱的な音楽が、舞台を支配する。私はどんどん熱に浮かされていき、とうとう積み上げられた椅子の上で踊り始めた。
くるくるくるくる。くるくるくるくる。
机や椅子が拍手でリズムを取る。私は調子に乗って、それに合わせて体を動かす。
右に左に。
腕を上げて足を上げて。
回って回って回って。
タップタップタップ。
踵を鳴らし、スカートを翻す。
それが楽しくて楽しくて。
さあここがラストスパートだ。
歌の一番の盛り上がり。永遠の愛を誓う男女の有名な歌詞。
私はそのタイミングに合わせ、地面を蹴って宙に浮かぶ。
「たとえ天が赦さなくとも、我らは永遠の愛を誓おう!」
——背後から声が聞こえた瞬間、虚構が壊れた。
バラバラと崩れていく夢の世界から、急激に現実世界へと意識を引き戻される。
ハッと目を覚ませば、木の幹を挟んだ向こう側から、男子生徒の声が続いた。
「ずっと、君に伝えたいことがあった」
聞き覚えのある声だった。徐々に覚醒していく思考が、私に嫌な予感だと警鐘を鳴らす。
「本当は、君が好きなんだ! アリス!」
「レ、レイモンド殿下……」
夢で聞いた音楽のように情熱的な雰囲気が背後から伝わってくる。学園で有名な人物の名前が二つも聞こえてきて、私はくらりと目眩がした。
私の背後にいるお二方は、おそらく、第二王子のレイモンド殿下とサビラン男爵家のご令嬢、アリス・ロウ・サビランだろう。
噂に疎い私でも流石に存じている厄介ごと。それが、このお二方とオーゲスト公爵家のご令嬢スカーレットによる三角関係だ。
レイモンド殿下とスカーレット・ラウ・オーゲストは幼少期から婚約されている仲だ。
学園でも美男美女のお二人はお似合いの恋人だと言われていた。どちらも金髪碧眼の整った容姿なため、お二人が並んでいる姿はとても絵になる。王国の女性の間では憧れの恋人同士らしい、とお兄様が仰っていた。本当かどうかは知らないが。
だが、相性が良さそうに見えるのはうわべだけだった。
というのも、レイモンド殿下が落ち着いた性格に対し、スカーレット嬢の「高貴さは義務なり」精神が高すぎるのだ。
スカーレット嬢は良くも悪くも貴族であることへの誇りと責任が強い。貴族社会では彼女の思想は高潔なものであるが、私のような社会不適合者にとっては立派すぎて疲れるのである。私も彼女からたまにお小言を告げられるが、正直余計なお世話だ。別に問題を起こしているわけではないのだから、放っておいて欲しい。
貴族として末端の私にですらそれなりの対応を求めるスカーレット嬢が、王族であるレイモンド殿下には更なる完璧を求めないはずがない。もとより殿下は重責に強くない性格。ただでさえ王族としての責任があるというのに、追い討ちで完璧を求めるのは酷というものだろう。側から見た私ですらそんな感想を抱くのだから、当の本人の精神的苦痛は如何なるものか。傍観者としては殿下に同情せざるを得ない。
まあ王族たる者そんな重責耐えて当たり前、と断じられたら私は何も言えないが。むしろ、そのような思想が根幹にあるため無理を強いることができるのかもしれない。
しかし、力を加え過ぎればいつかは折れるというもの。
そのポッキリと折れてしまった結果が、背後の状況ということだ。
「い、いけません、殿下。殿下にはスカーレット様が……」
「……彼女は私のことなんかどうでもいいんだよ。スカーレットが求めているのは、全貴族の見本となる第二王子。本当の私を見てくれたのはアリスだけなんだ」
「殿下……」
背中から甘々しい雰囲気が伝わってくる。明らかな浮気の現場に出会してしまったことに、私は遠い目をするしかなかった。
アリス・ロウ・サビラン。同世代の私たち——もちろん、スカーレット嬢を含めた——中で、ずば抜けて容姿が整っている彼女は、学園での有名人だ。サビラン男爵の愛人の子供で、三年前養子となったらしい。そんな出生のためか貴族としてのマナーは私よりも酷く、度々スカーレット嬢と衝突している。
アリスは裁縫が趣味で、それがまた学園内で評判が良いのが衝突の原因でもある。彼女が作った帽子が学園内で流行ったとき、スカーレット嬢が「私の趣味ではありませんわ」と言って、これみよがしに帽子へワインをかけたことは記憶に新しい。そのあとアリスはアリスで、スカーレットと親しい貴族に自作のドレスを贈りパーティで着用させるという、なかなかの仕返しをしているが。
スカーレットと犬猿の仲なのが気に入ったのか。はたまた他の貴族令嬢と毛色が違うのが面白かったのか。真偽は分からないが、レイモンド殿下がアリスに興味を示すにはそう時間はかからなかった。そして、その距離が近くなるのも。
しかし、二人が恋仲になっているかどうかは、あくまでも噂であった。
スカーレット嬢と渡り合うほどのアリスだ。疑惑はあれど、決定的な証拠は残さなかったということだろう——その決定的な証拠となる現場に、私は出会してしまったが。
さて。
二人が恋仲になろうが私には関係ない。
もっと言えば、学園内で波紋が広がろうがどうでも良い。
ただ一つ、私が確実に困ることは——
「私はアリスと一緒にいたい。だから、スカーレットとの婚約は破棄したいと考えている」
——大事に巻き込まれることである。
アリスが息を飲むのがわかった。私は殿下の言葉に泣きそうになっていた。
ちょっと待って。そんな重大な話ここでしないで欲しい。
というより、いくら大木の幹を挟んでいるとはいえ、そろそろ私の存在に気がつくものでは?
少なくとも会話が聞こえる距離にいるんだから、気づかないなんておかしい話だろう!?
「だ、だけど、スカーレット様との婚約は政略で結ばれたもの。それを破棄するなんて、殿下ですら無事にすむかどうか……」
「ああ、その通りだ。一筋縄でいかないのは重々承知。だからこそ、今から話すことは二人だけの秘密にしてくれ」
甘々しい雰囲気から一転、真剣な空気を漂ってくる。
ちょっとやめてやめてやめて!
明らかに今後のことで多大な影響を及ぼす話だよねそれ!? そんなの盗み聞きなんてしたら、確実に厄介ごとに巻き込まれることになる。
そんなの嫌に決まってるでしょう!?
今すぐここから立ち去らないと!
私は慌てて立ち上がり、殿下たちに見つからないよう反対側から裏庭を出ようとする。しかし、寝起きで急に走ろうとしたためか、足がもつれて盛大に転んでしまう。
「いった!」
地面に身体をぶつけ、無意識に声が出てしまった。
しまった、と口を押さえるももう遅い。
「誰だ!」
殿下の鋭い声が、背後から突き刺さる。
まずい。いやでもまだ、顔は見られていない。
ならば、逃げるが勝ちだ。
私は慌てて起き上がると、振り返らずそのまま裏庭を走り抜けた。