8
籠女は響を絵に描きたいと言って、再び響を自室へと連れてきた。
響にとってはそのほうが都合良かった。あのまま三人で口裏を合わせたように話を誤魔化され続けては何のためにここまでやってきたのかわからない。
籠女は響を椅子に座らせると、自分はベッドへと腰をおろしてスケッチブックを手にとった。
「籠女さん、お願いがあります」
「なんですの?」
そう訊きながらも、すぐに籠女はスケッチをはじめた。
「籠女さんのことをもっと教えてもらいたいんです」
「まあ、私を?」
照れたように小さく笑う。「どうすればよろしいんです?」
「昔のことを教えてくれませんか?」
だが、籠女の答えは意外なものだった。
「すいません。実は、私には昔の記憶が御座いません」
「記憶がない?」
「私がハッキリと記憶しているのは、この家で暮らし始めた頃からなのです。ですから、それ以前のことは残念ですがお答え出来ないのです」
籠女は申し訳なさそうに言った。
「お父さんたちは?」
「さあ、それはわかりません。この家で暮らしはじめてすぐ私は両親に以前のことを教えてほしいと頼みました。でも、教えてもらえませんでした」
「お父さんたちは何を隠しているんでしょう?」
「私にはわかりません」
それは決して嘘をついている表情ではない。いや、彼女は出会った時からずっと感情のままに振る舞っている。――だとすれば、この家に漂う妖気はやはり他の誰かのものだろうか。
「憶えていることはありませんか?」
「どうしてそんなことを気にされているんですか?」
「どこかで会っていないかを確認したいんです」
籠女は少し困ったように視線を外す。
「止めませんか? そんなことをして何の意味があるんです?」
「意味?」
「私も昔のことが気にならないわけではありません。でも、私は今の生活が幸せなんです。それだけで十分じゃありませんか。昔のことを思い出して、それで幸せになれるんですか? もし、それで何かを失うとしたら?」
「実は、ボクも過去のことを憶えていません」
「響さまも?」
ハッとしたように籠女は再び響へと視線を向けた。
「それでも昔のことが気になります。自分が何をしたのか、どうして今の自分になったのか、それを知ることこそが前に進むことになると考えています」
「前に進む?」
「ボクはあなたと会ったことがあるような気がするんです。いえ、『会った』なんてものじゃない。もっと深い関わりがあったように思うんです。それはボクにとってとても大切なことなんです」
「響さま、あなたが私のことを知っているのならば、私たちは運命で結ばれていたのです。過去のことなどもうどうでもいいではありませんか」
「でもーー」
「私たちに前も後ろもありませんわ」
籠女はやはり頑なだった。
やはりこの家全体を漂っている妖気を消し去る必要がありそうだ。少し乱暴なやり方かもしれないが、結界でこの家を覆ってしまえば妖気を消せるかもしれない。
「ちょっと待っていてもらえますか?」
そう言って、結界を貼るための呪符を取り出そうとする。
「何を……する……つもり……ですか?」
まるで響の心の中を読んだかのように、籠女はそっと問いかける。
「いえーー」
答えようとして、なぜか言葉に詰まる。そして、自らの手の動きも止まる。
(何だ?)
突然、頭の芯がボヤける。
今、自分は何をしようとしていた。何と答えようとしていた。
それが一瞬、わからなくなる。
「考える……必要……なんて……ない」
その籠女の声が、頭のなかへ吸い込まれるように入ってくる。
(しまった)
いつの間にか、自分もまたその妖気の一つになろうとしている。
その時、再び、あの声が聞こえてきた。
「いつまでダラダラやっているの?」
その声は音無雅緋のものだった。