囚われメイドは束縛を受け入れる
無我夢中で森の中を走って逃げる。
追ってくる者はいないけれど、あれだけの事をしてしまったのだ、捕まればどんな仕打ちを受けるか容易に想像が出来る。
野蛮な男たちの中に放り込まれて辱めを受けるくらいなら、狼にでも食い殺された方がまだマシだと森に分け入ったけれど、それすら自害するほどの勇気がないからの行いだった。
どのくらい走っただろうか。
心臓が暴れまわり、喉が張り付きそうにカラカラで、今にも膝から崩れ落ちそうな感じだった。そして最後のひと掻きをして森が開けた瞬間、口をふさがれて気を失ってしまった。
目が覚めると、まず鼻についたのは埃っぽい匂い。
そして目に映るのは朽ち落ちそうな天井や壁。
私はそんな部屋にある、粗末なベッドに寝かされていた。
着衣に乱れはないので辱めを受けてはいない様だったけれど、首輪をつけられ鎖でベッドに繋がれている状況だった。
これから辱めを受けるのだろうか?
ならば覚悟を決めて、喉を掻っ切って自害するしか……。
スカートを捲り太腿に括り付けた鞘に触れると、そこにあるはずの懐剣が見当たらない。走っている最中に落とすような止め方はしていないので、取り上げられてしまった様だけれど、見回す限り懐剣が置いてある様子もない。
しかたがないので、他に命を絶つ道具は無いものかとベッドから降りると、床板が嫌な悲鳴を上げる。
そのあまりの大きさに冷や汗が流れ、同時に開かれた扉に目が吸い寄せられて、固まってしまった。
「目が覚めたようだな。何故そんな恰好で森の中を走っていた? 足を傷だらけにして、何から逃げていた? それとも、何かを探っていたのか?」
扉の所から声をかけて来たのは、均整のとれた短髪の若い男だった。
着ている物に派手さはないものの、その生地は上質なもので体によくフィットしている。腰には幅広の剣を提げ、右手で私の懐剣を弄んでいた。
「口が利けないのか? それとも言葉を知らぬのか?」
どこぞの貴族か、領主の側近か。男がある程度の身分を持つ者なのはすぐに分かった。そして纏う雰囲気から、かなりの剣の使い手である事が窺える。
敵か味方か分らないその男に、どうしたものかと思案していると、ゆっくりとした歩調で近づいてきて、おもむろに胸元へ懐剣を突きつけられる。
服を切り裂くギリギリの所で止まった刃先に息を飲むと、焦らすように懐剣の刃先が下腹部の方に下がっていき、男の空いた左手がスカートをゆっくりと捲る。
「ぃゃ!」
思わず漏れた声に男は口角を持ち上げ、捲り上げたスカートから覗くホルスターに懐剣を戻すと、手の届かない距離まで下がる。
「喋れるのだろ? その懐剣には血が付いていた。誰かを襲って逃げていたか、襲われそうになって傷付けたのか。ハッキリ申さねば次は本当に服を剥ぎ、黙っていた事を後悔させてやるがどうだ?」
そう言った彼の眼は鋭く、誤魔化したりすれば何をされるか判らない。
「私はマリア。この先に在る、コーデック男爵様のセカンドハウスに仕えるメイドです。訳あって主に刃向い、手傷を負わせてしまって逃げてきました。ただ、我が身を守るための行為で、大それた目的があるとかではございません」
「ほぉ。大方、先だって急逝されたデバッシュ子爵の時から、あの屋敷に仕えていたのだろう。男爵に体でも求められたか?」
逃げるに至った経緯を含め、そのものズバリを言い当てられて警戒心が増す。
子爵様とは歳も離れているが、お知り合いで子爵様のご生前、屋敷にお見えになった事があるのだろうか。
それとも男爵の手の者で、ここでも何やら秘密裏に進めているのだろうか。
「何故それを? やはり貴方は、あの男と……」
「だとしたらどうする? それだけの器量だ。連れ帰ってやれば、さぞ男どもに喜ばれるだろうな。ところで、俺に協力する気はないか?」
「……」
「なに、俺はさる御方の命で、男爵の動向を探っていたのでな。屋敷の好況を教えてほしいのだよ。当然ながら礼はするし、事が終わった後の待遇も考えよう」
どちらか判断に迷うやり取りに、嘘を含めず簡素に答える事にした。そうしておけば、男爵の手の者だとしても言いがかりは付けてこないだろうと考えたからだ。
「突然のお越しでしたので、屋敷の者は多くはありません。維持のために残されていた者だけで、私を含めてメイドが三名と下働きの男どもが五名です。男爵は側近を一名連れてきており、荒くれ者が二十名ほど客として滞在しております。近々、王都の別邸に御移りになられるとか」
「そうか。ではもうしばらく、ここに居てもらおう。後で人を寄こすから、それまで寛いでいてくれ」
そう言い残して、首輪の拘束は外されないまま出て行ってしまった。
懐剣が戻って来た今なら命を絶つのは容易だけれど、状況が解るまで大人しくしている事にした。
一刻ほど経っただろうか、再び扉が開いて二人の男女が入ってくる。
女は私の姿を確認すると、先ほども来たもう一人を睨み付けてから近づいてくる。睨まれた男は扉の所から動かず、剣の柄に手を添えて苦笑いを浮かべている。
「とりあえず、足の治療をしましょう。その後に食事、と言ってもパンとスープしかないけど、持ってくるので食べてね。本当は拘束も外してあげたいのだけど、鍵はアイツが持っているので我慢して」
「はい。あの、私はいつまでこうしていなければ成らないのでしょう」
「もうしばらくとしか言えないわね。悪いようにはしないから、我慢してね」
腕や足に負った切り傷や擦り傷を、ひとつずつ丁寧に治療を施してくれ、一旦出て行った女はパンと暖かいスープを運んできてくれた。
夕食を食べそびれていたので食事は有りがたかったけれど、鎖で繋がれたままでは食が進むはずもなく、それでも何とか完食する。いざという時に動けないでは、逃げ出しようも無いのだから。
「あの、トイレに行かせていただけないでしょうか」
逃げるにしても、部屋の外の様子が分らなければ動きようがないので提案してみると、申し訳なさそうに女が口を開いた。
「実はここ、トイレが壊れていて。その、外でしてもらう事になるのだけど……」
「安心しろ、俺が付いて行ってやるから」
「いえ、それは……」
「どうせもう直ぐ引き払うんだ。なんならここでしてしまっても構わないが?」
「そ、外へ連れて行ってください」
部屋の外は少し広めの空間に六人掛けのテーブルがあり、奥には薪ストーブが見える。上に乗っているのは、先ほど出してもらったスープの鍋だろう。
テーブルの上には何もなく、他に人のいる気配も無い。いったいこんな所で、剣を提げた男女が何をしているのだろうか。
連れ出された外は薄暗かったけれど、ほんのりと空が明るくなってきている。
振返ってみると、今まで居た建物は猟師小屋である事が窺えた。随分くたびれている所を見ると、しばらく放置されていた様だ。
窓の明かりがわずかに届く茂みに入ってしゃがみ込むけれど、当然あの男は鎖を持ったまま後ろに立っている。
「木に繋ぐとかして、離れていてもらえませんか?」
「逃げられて、男爵に情報が渡ってしまうのは困る。なに、寝ている間に体中触りまくって確認した。いまさら恥ずかしがっても遅いと思うぞ」
「そうだとしても、お願いですから」
「致し方ないか。ただ、直ぐ近くには居させてもらうぞ」
男は鎖を太い枝に括り付け、数歩離れた木の裏側に回った。
どうしてこんな恥ずかしい仕打ちを受けなければならないのか、激しい憤りを感じるけれど、涙をこらえて用を済ます。
「耳まで赤くして、そんなに恥ずかしかったか? その様子だとメイドと言うのも嘘ではないらしい。訓練された兵ならそうはならんからな。さて戻るとしようか、男爵の待つ屋敷へ」
「え? そんな事をされたら私は……」
とっさにスカートに伸びた腕を後ろ手に締め上げられ、首輪を引かれて胸を張らされる。
「兵士でも無い者を危険にさらすのは本意ではないが、全力をもって守らせてもらうので、男爵を引っ張りだす餌になっていただく。なに、その後はいろいろと選ばせてやるから、我慢してもらおうか」
「分りました。だから離して!」
食事をくれた女性は、既に森の奥へと消えていて、二人だけで男爵の待つ屋敷を目指す事となった。
朝靄の中を屋敷に着けば、ガラの悪いお客人が二人ほど門番の様に立っていて、私を認識すると駆け寄ってきた。
「残念だったなぁ、嬢ちゃん。男爵んとこに連れて行ってやろう。さあ、鎖を渡しな」
「いやだね。ちょっとばかし交渉したいんで、男爵に会わせてもらおうか」
「は~ぁ。なに言ってんだ! さっさとその嬢ちゃんを渡しな!」
「なんだ。王城の警備情報を高く買ってくれるって聞いたから、こうして出向いて来たのに門前払いか? いいから、男爵に取り次げ! 」
ひとりが走って屋敷に消え、しばらくして男爵が数人の男達とこちらに向けて歩いてきた。側近がいないのが気になるけれど、まさか本当に男爵が出て来るとは思わなかった。
「これはこれは、コーデック男爵閣下。私はアリステル辺境伯様の配下でマコーミックと申します。王宮においては城門警備を仰せつかっている者です。主の命により、閣下に警備の情報提供のために参りました」
「して、アリステル殿は何と」
「現王は内政ばかりに目を向け、貴族、特に国の要である辺境伯を蔑ろにしている。王弟マクスエル様を新王とすべく、宰相閣下にご助力したいと。事の成った暁には、隣国へ侵攻する許可を頂ければ報奨は要らぬと」
「あい分った。最前線でご活躍されている部隊のご助力は、我ら革命軍にとっても大いに心強い。今後も良しなにとお伝え願いたい。ところで、その娘を引き渡していただけないのは何故か?」
この男は男爵に組して、国家の転覆を図る仲間だったようだ。
子爵様の弔いにと集めた情報を裏付ける様な会話に、それを阻止できなかった悔しさが込み上げてくる。
更に男爵は、切り付けた私を未だに欲している。情報を握っている事は知られていない筈なのに、その執着に嫌な予感しかしない。もしかすると、私の秘密を知っているのかもしれない。
いま抵抗したとしても、この男に敵わないのは実証済みなので、屋敷に連れ込まれる時が最後のチャンスだと覚悟を決めた。
それなのに、この男はとんでもない嘘を吐き始める。
「昨晩は散々楽しんだんですが、まだ足りないんですよ。実に具合が良い。なんで、報酬代わりに頂けないかと。閣下くらいの御方なら、メイドが一人減ったって差し支えないでしょ」
「それで首輪か。貴様も大概、いい趣味をしておるな。まぁ良い、くれてやろう」
「ありがとうございます。こちらが我が主より預かりし密書にございます。お受け取りください」
マコーミックが懐から封書を取り出し、膝を付いたところで荒くれ者達が一斉に剣を抜いた。それでもこの男は取り乱すでなく、薄ら笑いを浮かべながら男爵をじっと見ている。
「はて、何の真似でしょうか?」
「その娘が生きていると困るのだよ。だから、揃って死んでもらえぬか」
「生きていると困る娘? 閣下は死んだ娘を抱く趣味でも御有りなのでしょうか? いやはや、変わった趣味をお持ちだ。では飽きるまでお貸し願えないでしょうか」
「どう捉えてもらっても構わぬ。所詮死んでゆく身なれば、いちいち戯言に目くじらを立てる必要もなかろう。お前も最後に女にしてもらったそうだから、悔いも無かろう。さあ、殺してしまえ」
「城の警備情報は要らぬと?」
「構わぬ!」
「しかたがないですね。少し抗ってみましょうか」
マコーミックは臆することなく立ち上がり、首輪の鎖を外しながら小さな笛を吹き鳴らす。詰め寄ってきた荒くれ者を鎖で牽制し、立ちすくむ私の腰を抱き寄せると、警戒しながら抜刀して身構える。
笛の音に呼応して森から走り出た数十人の甲冑姿の兵士は、躊躇いも無く荒くれ者に切りかかり、あちらこちらで剣撃が起こる。
もっとも数と装備で上回る甲冑兵に歩が有り、瞬く間に圧倒していく中を男爵だけは屋敷へと逃げてゆく。
屋敷にたどり着いた男爵は、扉を開けようとするもののびくともしない様で、扉を叩いて怒鳴り始めた。
「おい! 開けろ! なにをしている!!」
扉を激しくたたいて屋敷内の仲間に言っているのだろうが、一向に開く気配が無いまま、荒くれ者を一掃した甲冑兵に縛り上げられてしまう。
「さて男爵、助けは期待しない方が良いぞ。屋敷内も部下が制圧しているだろうし、王都に集まりつつあったお前の私兵たちは、王都からの兵によって武装解除が進んでいるはずだ。むろん、王都に潜むお仲間もな」
そう宣言するマコーミックに、男爵は驚愕の表情で食って掛かる。
「いったい誰の差し金で動いている! こんな事をして許されると思っているのか!」
「誰の指示でもねぇよ。世話になった子爵が急逝したと思ったら、次期当主の帰国調整が難航し、成り上がり男爵風情が代官として収まっている。裏があるのだろうと探ってみれば、中立を公言している侯爵三人の進言だ。これがまた、王弟派と連絡を取っているようなのだから、どう考えても現王に対する反逆の一環だと気付くだろう」
「貴様はいったい、何者なのだ!」
「五つ在る辺境伯がひとつ、アインツボーダ家の次期当主と言えば分るか?」
「マクミラン・F・アインツボーダ。王太子妃の護衛騎士筆頭……」
「さて、貴公には子爵殺害の嫌疑もかかっている。王都へ連れて行くのが筋だが、この娘に判断を委ねようか」
未だ腰を抱いたままのマコーミック。いえ、マクミラン様がこちらを向いて口角を上げ、その表情は何とも言えない意地悪さを感じさせる。
メイドの私に男爵を糾弾する資格はないし、掴んでいた情報さえここに至っては紙くず同然の価値しかない。それでも、許されるのならば子爵様の無念を晴らしたい。
「マリアはどうしたいだろうか? 国の裁きを受けさすも良し、自身に危害を加えた罰を与えるも良し。それとも、父の恨みを晴らすか? マリアンジェ・デバッシュ」
「っ!」
秘密のはずの出自を、何故この方は知っているのだろうか。疑問と猜疑心が入り混じって、身がすくんでしまい言葉が出ない。それが公になる事は子爵家にとって外聞の悪いことであり、要らぬ対立を招きかねないのだから。
「父君とは旧知でな、王都に居る間はいろいろと教えて頂いたものだ。そんな折、訳あって認知できない娘がいると聞かされ、有事の際は保護をと依頼されていた。大方、そこの阿呆も知っていたから命を狙ったのではないかな? そして替え玉をもって子爵位を欲しいままにしようと」
私の母も生前はこの屋敷でメイドをしていて、雇い主の息子である父と恋仲になったものの、所詮は身分違いの恋だった。
結ばれる事など叶わなかったはずなのだが、政略結婚である奥様との不仲が続き、家督を継いで間もない疲労から、一時の情に流されて身籠ってしまったのだ。
だから奥様は私の存在を知らないし、知っていたとすれば雇止めをされていただろう。
だからこそ父は、ここに滞在する時だけは奥様を同行させず、私に父親として接してくれていた。
何もしてやれないが、と言いながら愛情だけは惜しみなく注いでくれていた。
それなのに父は……。
「恐れながら。この男の罪は、王都で正しく裁かれるのでしょうか?」
二歩下がって両の膝を付き、頭を垂れて問う。どう足掻いても、対等に話をしてよい立場にはないのだから。
そしてその答え如何によっては、己の手を汚す必要が生じる覚悟をもって。
「とりあえず面を上げられよ。こればかりは俺にも何とも言えぬ。露呈しない様に庇い立てする者もいるであろうし、切り捨てられるやもしれぬ。ただ、より多くの反逆者を炙り出す火種になりえるのだ」
「では、どうぞ王都で正当な裁きを。お国のために私怨は捨てますので、王国の安定をまずお考えください」
「良いのだな?」
「はい」
悔しみが無い訳ではない。メイドとしてな、自らの手を染めてでも恨みを晴らしたかった。でも子爵家の娘として問われた以上は、そう答えるしかなかった。
マクミラン様は精悍な顔を始めて見せたと思ったら、その答えを待っていたかのように部下へと指示を飛ばす。
「副長、聞いての通りだ。王都への護送を一任するので、直ちに隊を編成して出発しろ。アンナの小隊はここに残り私と明日の出発とする。アンナはマリアンジェ嬢の護衛に付き、お世話を」
「「はっ!」」
「では、マリアンジェ嬢。お疲れでしょうから、話しは後ほど」
マクミラン様はそこまで命じると、私たちを置いて集結しつつある兵の方へ行かれてしまった。
残された私はアンナ様に誘われて屋敷の中へ入り、メイドたちと抱き合って無事を確かめ合った。
「マリアン……」
「アンナ様! 私の事はマリアとお呼び下さい。ここの皆がその名を知っている事とはいえ、私の立場はメイドです。父のお許しを頂いていない以上、その名を呼ばれるのはその、不本意です」
「それではマリアさん。まずは湯浴みをして、ゆっくりお休みください。また主の指示とはいえ、今朝の無礼な仕打ちを止められず申し訳ありませんでした」
「いえ。この様な状況でしたので、気になさらないでください」
「ありがとうございます。私の事はアンナとお呼び下さい」
メイド長が湯を張ってくれていたので、ゆっくりと浸かり昨晩からの疲れを癒す。
洗い立てのメイド服を身に着け、自室に戻ってベッドに腰掛けると、香の匂いも手伝ってか直ぐに眠ってしまった。
どのくらい寝ていたのだろう。目が覚めると、なぜかベッドの上でちゃんと横になっていた。
半分寝ぼけたまま半身をねじり窓の方を見ると、差し込む光から昼時だと判った。三刻近く寝ていたようだ。
「お目覚めかな?」
驚いて声の方に顔を向けると、クローゼットの前にマクミラン様が立っていて、柔らかい表情でこちらを見ていた。
「あ、はい、申し訳ありません。つい、眠ってしまったようです」
「気にすることは無い。その香は気持ちを落ち着かせる効果があるからね、疲れていたのだから眠ってしまうのも頷ける」
「ご用でしたら、構わず起していただいて良かったのですが……。あの、いつから」
「少し前かな? 特に急用というわけでも無いのでね」
どうやら、かなり前から部屋にいて寝顔を見られていたようだ。
いくら身分が上とは言え、いやだからこそ、メイドの部屋などに長居するのは好ましい事ではない。部下とは言え、在らぬ噂で立場を危うくする行為は控えて頂きたいと思ってしまう。
とは言え、どうにかして応接室へ移動したいのだけれど、なんと声をかけてよいものやら判断も付かない。
「それではマリアンジェ嬢。応接室へお越し願えますか?」
「はい。あの、マクミラン様。マリアとお呼び下さい」
「その件も含めて応接室で」
すでに応接室には入った事が有る様で、迷う事無く進むマクミラン様の後を追って応接室に入る。
マクミラン様はなぜか下座に座り、黙って上座を指示して座るように促してくる。
「そこに座る資格を有していませんので、立ったままで失礼いたします」
「いいからそこに座りなさい。目を通してもらう書面もある」
では座る位置が逆とも思ったけれど、いまさら座り直せとも言えず、言われるがまま腰を下ろす。
「まず、子爵から届いた手紙を読んでいただこうか」
そう言って手渡された手紙には父の筆跡で、私の出自やこれまでの接し方、万が一の際の後見人を願いたいと書かれていた。そこまでして頂けたと思うと、父への感謝を改めて感じるとともに、奥様方への申し訳なさが増してしまう。
「その手紙があったので君の名前を知っていた訳だ。それと以前、二度ほどここに招待されたことがあるので、君の顔は知っていたのだよ。そして次の手紙だが、奥方から預かってきたものだ」
その手紙には、私と実母の事を以前から知っていた事、父の要望で会う事はしなかった事が綴られていた。認知しなかったのは政略結婚に巻き込みたくはなく、自由に恋愛をしてもらいたかったからだとも書かれていた。
驚いた事に、希望するならば認知の上でこの屋敷に住まい、生活資金の一切を面倒見るとあった。
「さて、君の今後については選択肢が広がったわけだが。今現在、恋人や思い人はいるのだろうか?」
「え? いえ、そういった方はおりませんが……」
「それでは私からの提案なのだが、子爵家令嬢として王宮に上がるつもりは無いかな? 一般的な貴族令嬢の手習いだが、伴侶を探すも良し、ここに戻って女主人として生きるも良し、と言ったところか」
そこに自由恋愛は有るのだろうか?
とは言え身元が露呈している以上、今の身分でここに留まる事が難しいのは理解している。
「これ以上は、奥様や次期当主様にはご迷惑をおかけしたくは有りません。野に紛れるのも難しいと思いますので、この身を御家のために使いたいと思います。ですので、マクミラン様の考える最善を、示していただけないでしょうか」
「……」
マクミラン様は一度口を開きかけたものの、言葉をためらった挙句に視線を逸らせて考え込んでしまった。
「あの。今すぐに出る答えでないのならば、王都へお連れ頂いた後でもかまいませんか。奥様にも一度お会いしなければと思いますし」
「マリアンジェ嬢は、これまで恋をした事は有るのだろうか」
「お恥ずかしいのですが、この様な田舎の、ましてや町から離れた場所に居ては出会いもございません」
「そうか。ところで、首から下げているカフスに意味は有るのかな?」
「え?」
確かにカフスを加工してもらったペンダントヘッドを下げてはいる。昨晩の事を考えれば見られていた事も頷けるのだけれど、なぜあれがカフスであったと判るのだろうか。
「幼い頃、お客様として参られました男の子がいました。その日の私は、どうしても木苺のパイを食べて頂きたくて不用意に森に入り、野犬の群れに襲われてしまったのです。木の上に逃げたのは良いのですが、それ以上どうにも出来なくなった所で、その方に助けて頂いたのですが、噛まれた傷のせいで私は二日ほど熱を出してしまって、ちゃんとお礼が言えなかったのです。その時に枕元にこのカフスが置いてあったので、ずっとこうして持っている次第です」
父に聞いてもどなたなのか教えてもらえず、立場的には直接お礼を言えるものでもないので、うやむやになってしまっていた。
それでも私の事を気にしていたとも聞いていて、頂き物なのだから肌身離さずにいれば会う事も叶うだろうと、ペンダントヘッドに加工してくれたのだった。
「その男の子が、好きなのか? だからその様に持ち歩いているのだろうか」
「どうでしょう。初恋だとは思いますが、なにぶん幼かったものですから」
「再会できたとしたらどうする?」
言われて初めて気づいた。カフスには紋章が描かれているのだから、王宮に上がれば探し出す事も出来るだろう。父と懇意にしていただけていたのならば、お礼ぐらいは受けてくれるかもしれない。
直接が失礼にあたるのならば、奥様にご相談すれば計らってくれる可能性もある。
「お声掛けできる身分の方であれば、あの時のお礼をしたいと思います。命を落としていたかもしれませんので、出来る限りの恩を返したいと」
それを聞いたマクミラン様は、急に意地悪そうな口元のまま上機嫌な笑顔を浮かべると、身を乗り出すようにして口を開いた。
「では明日、王都に向けて出発する。口利きをするので王宮勤めを一年行ない、そこで意中の男性が見つからなければ私の妻になってもらおう」
「マクミラン様の妻、ですか? 何のお戯れでしょうか。いえ、愛妾と言う事でしょうか」
「正妻として言っている。不服かも知れないが、今ここで誓ってもらおう。君のペンダントと私の懐中時計に賭けて、あの時の恩を返してもらおうか」
そう言って取り出された懐中時計の蓋には、ペンダントと同じ紋章が刻まれていた。ハッとして顔を上げた私に苦笑いを向けたマクミラン様は、腕を組んで背もたれに身を預ける。
「アンジェ。そう呼んでくれと言ったわりには、君は本当につれない。二度目に会ったのは一昨年だったが、気付く素振りも無く素っ気なかったものだから、かなり落胆したのだよ。昨晩、君のそれを見てまだ芽があるや思ったが、やはり気付いてはくれない。思わず意地悪な事をしてしまって後悔もしたが、諦めきれず無理強いもしたくは無いのでな」
「それ故の猶予一年なのですね」
「まあ、そうなるな」
マクミラン様はちょっと不貞腐れた感じの表情になって、そっぽを向いてしまったが、気付けなかった仕返しが昨晩のあれでは割りが合わない。そもそも十年以上前に数度顔を合せただけなのに、覚えていろと言う方に無理がある。
それでも、父とあの子だけが知っているその名を覚えていてくれて、この十年の間も私を気にかけて思ってくれていたのならば、今回の行動がそれを裏付けるものならば、提案に乗るのも良いだろう。
ならば最後にひとつだけ確認しておく事にしよう。
「王太子妃の護衛騎士である貴方様が、この地を訪れてこの件に携われたのは、誰の命によるものなのでしょうか」
「俺自身の意思だ。反対する者もいたが、立場を利用して押し通してきた。子爵の心残りはどうしても摘んでおきたかったし、それを他の者に任すつもりも譲るつもりも無い」
「では、ご提案をお受けします。が、期日の条件は呑めません」
「一年では短すぎると?」
「いえ。貴方様の望む時で結構です、と申し上げたいのです」
「今直ぐと言っても、か?」
「はい、お受けいたします。こんな私のために動いていただけたのなら、私に出来る最善の恩返しを。抱いてはいけないと蓋をしたこの気持ちも含めて、貴方様に捧げます」
「ならば私も、この屋敷に残る者たちと亡き子爵に誓おう。アンジェを生涯守り、唯一の人として最大限の愛を捧げる事を」
明日、ここを去ることになる。
再び訪れる事ができるかは判らないけれど、ここに居た時と同じくらい幸せでいると、天国の父とここに残る皆に報告できるよう、新たな一歩を最愛の人と踏み出す。