夏の決心①
「どうやってって、簡単な話じゃねえか」
気付かぬうちに発していた僕の呟きを拾い、緋村はそっけなく答えた。短くなった煙草を揉み消すと、すぐにまた新しい物を取り出し、口に咥える。
「なに? それじゃあ、君には犯人がどうやって現場から脱出したのか、わかったって言うのか?」
「ああ。犯人は──巨視的トンネル効果を利用したんだ」
……馬鹿にしやがって。
「なんだ、明らさまにウンザリしてるみてえな顔だな」
みたいじゃなくて、実際しているのだ。
「まあ、さすがに今のは冗談だとして──何にせよ、犯人が特別なトリックを用いたわけじゃねえのは確かだろうな」
「やけに断定的な言い方をするなぁ。そう考える根拠は何なんだ?」
「根拠も何も」煙草に火を点けた彼は、眉間に皺を寄せながら煙と共に吐き出す。「そもそも、複雑なトリックを弄する理由がねえだろ。人を殺して現場から逃走しようとする人間が、そんな何のメリットもないことしねえよ」
確かに。あんな場所で人を殺したのだから、普通は余計なことなどせずさっさと逃げるはずだ。
「でも……だったら、犯人はどこに消えたんだ? オーナーたちが調べた時、建物のどこにも潜んでいなかったし、一階には別の従業員がいて、しかも『誰も下りて来ていない』と証言してるんだぞ? そんな状況で、どうやって……」
「単純に考えりゃいい。──つまり、それらの証言の中に、嘘が混ざっていたのさ」
こともなげに言い、片頬を歪める。正直「肩透かし」もいいところだが、同時に、非常に現実的な答えでもある。
「考えられるパターンは、取り敢えず次の三つ。──一つ目は、店先に出ていたもう一人の嬢が嘘を吐いている場合。二つ目は、オーナーと呼子が嘘を吐いている場合。そして最後は、事件当時《幽世》にいた全員が口裏を合わせている場合。そして、この中で最もあり得そうなのは──ズバリ一つ目だ」
「ナルホド。──その心は?」
「大喜利かよ。──つまり、後の二つは、どっちも密室にするメリットがないからさ。
まず、二つ目が事実だとしたら、オーナーたちは事件の真相を隠蔽する為に、架空の犯人をでっち上げ、外部の人間の犯行に見せかける為に嘘を吐いた、と言うことになる。例えば、本当は店の関係者の中に犯人がいる、あるいは宇佐見の死は過失による物で、責任を逃れようとした、とかな。──けど、もしそうなら、そもそも嬢に店番をさせる必要がない。むしろそのせいで、密室って言う、不可解な状況ができちまったんだからな。
──三つ目も同じだ。もし仮に、あの日店にいた人間がみな共犯者で、口裏を合わせるとしても、わざわざ犯人の逃げ場がわからなくなるような証言をする必要はない。余計世間の注目を浴びちまうだけだろ?」
「確かに、おかしくはあるな。ただでさえ、特殊な場所で起きた事件なのに」
「ああ。やるなら事故や病死に見せかけるか、いっそ密かに死体を処分しちまって、事件の存在自体を隠す手もある」
複数の人間が関わっているのなら、死体を運び遺棄することも容易だったはずである。これまた、快刀乱麻を断つような推理──などではなく、ただの「当たり前の話」だ。
「となると、もう一人の従業員の証言が『偽』だったわけだから──つまり、犯人は、正面口から堂々と出て行った?」
「そう」ふうっと煙を吐きつつ、彼は頷いた。「この場合、犯人が取った行動はこれだけだ。──まず、被害者を殺害した彼はトイレに隠れ、死体が発見されるのを待つ。その後、呼子とオーナーが現場に入った隙に、急いでそこを出て一階に下り、堂々と逃げて行った。お誂え向きに、トイレは階段の傍にあったらしいからな」
「でも、なんでその従業員は嘘を吐いたんだ? もし仮に、犯人が用意し共犯者だったとしても、君の話では密室にする理由がないんだろ?」
「ああ。だから、俺が思うに、密室やその嬢の証言は、犯人にとっても想定外の物だったんじゃねえかな。──つまり、その嬢は正式な仲間じゃなかったんだ。言うなれば、『予期せぬ共犯者』ってところか」
予期せぬ共犯者? ──しかし、それでは余計に、彼女が虚偽の証言をした理由がわからない。
「さあな。単なる悪戯だったんじゃねえの? 警察を困らせてやろうと考えたか、あるいは世間に謎を提供して面白がってることか。──何にせよ、その発想の源になったのは、おそらく向かいの店の呼子さ」
「え? まさか、その人も事件に関わっていたと言うのか?」
「いや、そうじゃない。俺が言いたいのは、呼子が《幽世》の方を全く見ていないことに気付いたからこそ、『予期せぬ共犯者』はデタラメを答えたんじゃねえかってことだ。要するに、自分が『誰も下りて来ていない』と答えれば、摩訶不思議な状況を作り出せると考え、嘘を吐いたんだな。──謂わば、『する』為に『した』んじゃなく、『できる』から『した』わけだ」
呼子自身も言っていたように、彼女は普段から常に向かいの店のことを見ているわけじゃない。ましてや、当時は従業員が接客中で、新しい客を取れなかった。そう言った時、呼子は大抵携帯を弄っているそうである。
つまり、画面を見るのに夢中で向かいの店や通りのことなど気にかけていないだろう──と、「予期せぬ共犯者」は予想したわけか。確かに、わからない話ではない──のだが。
「『できる』から『した』か。──言いたいことはわかったし、面白い考察ではあるけど、少し無理がないか? 仮にも同僚が殺されてるって言うのに、そんな酔狂なマネをするのは、さすがに不自然だろう」
「仰るとおりだな」緋村は、いやにアッサリと認める。「理由なんて、正味本人にしかわからねえし──そもそも、この話自体ただの推測、と言うか空想だ。俺自身、これが正解だと思って話してるわけじゃねえよ」
無責任なことを。これではまるで、解答編がまるまる落丁した推理小説ではないか。
「どれだけここで推察を巡らせようとも、本質的な謎は残り続けちまう。“無限後退”って奴だな」
「……『何故何もないのではなく、何かがあるのか』か?」
緋村は頷いた。