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悪の問題〜あるいはYの悲劇’18〜  作者: 若庭葉
終章:三つの光景
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夏の日、残像

 八月一日。

 僕は有料駐車場の入り口の(わき)で、待ち惚けを食らっていた。伝えられていた時間はとうに過ぎ、陽が傾き始めている。それでも真夏の街は熱気を宿しており、ジッと佇んでいるだけでも絶えず汗が噴き出して来た。

 ──結局、一時間以上も遅刻して、あの人は現れた。

(わり)いな、遅くなっちまって」

 いやに気取った口調で言い、真堂初太は片手で拝むジェスチャーをした。膜の張ったように昏い目を、贅肉に埋もれさせる。到底心を許す気になれない、醜陋(しゅうろう)な笑顔だ。

 僕が反応せずにいると、彼は何を思ったか、小さな棒付きキャンディを取り出した。

「飴、食う?」

 当然、断る。

 そんなことより、早く用件を教えてほしかった。

「そう警戒することねえだろ、俺と()()()()()()なんだから」

 一切悪びれる様子を見せずに言い、彼はキャンディをしまった。そして代わりに、煙草の箱とライターを取り出して一本咥え、馴れた手付きで火を点ける。

「歩きながら話そう」

 僕たちは有料駐車場の前を離れ、新今宮駅のある方へと歩き出した。

「本当は葉ちゃんに()()()を見せてあげようと思っていたんだがな。少し時間を調整しているうちに、想定外のことが起こった。どうやら事件があったらしい。そのせいで足止めを食っちまったんだが、まあ、これはこれで面白い体験ができたよ」

 質問に答えているようで、その実自分のしたい話しかしていない。この手合いは、自らの行いに罪の意識が皆無の為、始末に負えない。

 紫煙を吐き出しながら一人で喋り続ける彼を眺め、僕はある話を思い出した。

 ──確か、人の体を構成する要素は、七年間で丸ごと作り変えられるんだったか、と。

 それが本当だとしても、果たしてここまで変わってしまうものだろうか? そのことに関しては、純粋に不思議だった。

 ──あれから約七年。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 体型の変化もさることながら、何より瞳が酷い。人を見下した上で品定めするような、あの黒すぎる黒眼(まなこ)。それは緋村の物と似ているようで少し違い、彼よりもいっそう見る者に不快感を抱かせた。

 もっとも、七年前──震災直後の時点で僕はその片鱗を垣間見、だからこそ彼から距離を置くようになったのだが。あの時、彼はすでに下衆な野次馬の素養を開花させていた。あの震災が、彼を歪めてしまったのだ。

 僕のホームズはもうどこにもいない。安楽椅子に細長い体躯を収め、悠然と脚を組む姿は、スッカリ遠い記憶の景色へと変わっていた。

「実体二元論って知ってるか?」

 何の話の流れかは覚えていないが、そんな問いが寄越される。僕は適当に「……デカルトでしたっけ?」と返した。

「そう、デカルトの「二元論」も同じだ。古くはプラトンにまで遡ることができるようだが」

 それから彼は、滔々と薀蓄を語った。完全調和の世界と、泡の中の物質世界と言う喩え話を。

 そうしているうちに駅に着き、真堂は煙草を消して携帯灰皿に捨てる。

「今日は本当に悪かったな。また今度埋め合わせをさせてくれ。──なんなら、飛田でも奢ってやろうか?」

 再びあの下卑た笑みを見せられ、辟易した。そんなことより電車賃を出してくれた方が遥かにありがたい。

 結局時間を無為に費やしただけだった。こんなことなら《GIGS》の花火鑑賞会に参加すればよかったなと、後悔を噛み締めつつ、僕は駅のホームで電車を待つ。

 ほどなくして、快速列車の通過を予告するアナウンスが流れた。

 そして──その時は訪れる。

 真堂はどう言うわけか、点字ブロックの向こうに立ったまま下がろうとはしなかった。彼が何故そんなことをしたのかは全くの謎だが、とにかくホームのヘリに立ち、こちらに猫背気味の膨れた背中を向け続ける。

 まるで、自ら死に向かおうとするかのように。

 彼岸の入り口に佇むその後ろ姿を、僕は無感動に眺めていた。

 直後──

 真堂は左胸に手を当てがい、前屈みになって苦しみ出した。

 何が起こっているのかわからないうちに、呻き声を漏らした彼は、一、二歩前へとよろめき、かと思うとそのまま線路上に落ちて行しまう。

 無論、僕はすぐにそのことに気が付いた。しかし、どうしたわけか体は少しも動かなかった。まるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()かの如く。

 もっとも、動き出せていたとしても、到底間に合いはしなかっただろうが。

 ──刹那、時速数百キロの鉄塊が通りがかり、慈悲もなく若者を轢き殺した。

 その瞬間から目を逸らした僕は、数歩、後退る。

 他の利用客の中に身を隠すかのように。

 騒然となるホームの中、今いる場所とすぐ目と鼻の先にある──()()の惨状に思いを巡らせ、僕は改めて慄然とした。


 あの日は、何が起こったのかわからなかった。しかし、後になって、真堂の目的や事故の原因を推察することはできた。

 真堂は、須和子さんと面識があった。彼女に津波の瞬間を映した映像を売っていたのだから。

 そして、おそらく彼女があそこで働いている、と言うことも突き止めていたに違いない。

 つまり、あの日彼が僕に見せたかったのは──()()()()()()()()()()()()姿()だったのだろう。

「──真堂が撮りたかったのは、飛田で働いている誰かの姿だったのではないか。だとしたら、それは彼と面識のある矢来さんだと考えるのが妥当だ」

 緋村の語る声で、現実に引き戻される。

「あの日、飛田に来た真堂は、矢来さんが出勤するまでの間時間を潰す為に、《幽世》の()()()()()()()()()のかも知れない。事件当時、その店でも客を取っていたそうだからな」

 そのとおりなのだろう。待ち合わせに遅れて現れた彼が、差し出したあの飴。あれは、()()()()()()()だったに違いない。飛田新地では、「自由恋愛」を終え帰って行く客に、飴を渡すことが多いと言う。その飴を持っているかどうかで、すでに別の店に入った後だと言うことが、一目でわかるように。

「その後、真堂は線路に落ち、不運なことに通りがかった電車に轢かれてしまう。お前の小説によると、それは陽が沈む頃──すなわち、飛田の事件が発生してから、二時間ほど経った後と言うことになる」

 事件があったのは、十七時頃。そして、真夏の陽の入りは十九時頃だ。

「言い換えば、真堂が店に入ってから約二時間後ってわけだ」

 緋村が言わんとしていることは、とうにわかっていた。しかし、そんなこと、本当にあり得るのだろうか? にわかには信じ難かったし、真実かどうかはすでにどうでもよかった。

「もし、真堂が線路に落ちた原因が、心臓発作──虚血性心不全だとしたら、その引き金となったのは、()()だったのかもな」

 僕は、以前彼が《えんとつそうじ》言っていた話を思い出す。人間は一番の疲労のピークは耐えられるようにできており、それが過ぎ去って気の緩んだ時が、最も危ないのだ、と。

 すなわち──真堂は()()()()()()()のだ。

 毒々しい夕陽によって焼かれた、真夏の線路の上で。

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