夏の日、残像
八月一日。
僕は有料駐車場の入り口の傍で、待ち惚けを食らっていた。伝えられていた時間はとうに過ぎ、陽が傾き始めている。それでも真夏の街は熱気を宿しており、ジッと佇んでいるだけでも絶えず汗が噴き出して来た。
──結局、一時間以上も遅刻して、あの人は現れた。
「悪いな、遅くなっちまって」
いやに気取った口調で言い、真堂初太は片手で拝むジェスチャーをした。膜の張ったように昏い目を、贅肉に埋もれさせる。到底心を許す気になれない、醜陋な笑顔だ。
僕が反応せずにいると、彼は何を思ったか、小さな棒付きキャンディを取り出した。
「飴、食う?」
当然、断る。
そんなことより、早く用件を教えてほしかった。
「そう警戒することねえだろ、俺と葉ちゃんの仲なんだから」
一切悪びれる様子を見せずに言い、彼はキャンディをしまった。そして代わりに、煙草の箱とライターを取り出して一本咥え、馴れた手付きで火を点ける。
「歩きながら話そう」
僕たちは有料駐車場の前を離れ、新今宮駅のある方へと歩き出した。
「本当は葉ちゃんにいい物を見せてあげようと思っていたんだがな。少し時間を調整しているうちに、想定外のことが起こった。どうやら事件があったらしい。そのせいで足止めを食っちまったんだが、まあ、これはこれで面白い体験ができたよ」
質問に答えているようで、その実自分のしたい話しかしていない。この手合いは、自らの行いに罪の意識が皆無の為、始末に負えない。
紫煙を吐き出しながら一人で喋り続ける彼を眺め、僕はある話を思い出した。
──確か、人の体を構成する要素は、七年間で丸ごと作り変えられるんだったか、と。
それが本当だとしても、果たしてここまで変わってしまうものだろうか? そのことに関しては、純粋に不思議だった。
──あれから約七年。大学で再会した幼馴染は、驚くほどの変貌を遂げていた。
体型の変化もさることながら、何より瞳が酷い。人を見下した上で品定めするような、あの黒すぎる黒眼。それは緋村の物と似ているようで少し違い、彼よりもいっそう見る者に不快感を抱かせた。
もっとも、七年前──震災直後の時点で僕はその片鱗を垣間見、だからこそ彼から距離を置くようになったのだが。あの時、彼はすでに下衆な野次馬の素養を開花させていた。あの震災が、彼を歪めてしまったのだ。
僕のホームズはもうどこにもいない。安楽椅子に細長い体躯を収め、悠然と脚を組む姿は、スッカリ遠い記憶の景色へと変わっていた。
「実体二元論って知ってるか?」
何の話の流れかは覚えていないが、そんな問いが寄越される。僕は適当に「……デカルトでしたっけ?」と返した。
「そう、デカルトの「二元論」も同じだ。古くはプラトンにまで遡ることができるようだが」
それから彼は、滔々と薀蓄を語った。完全調和の世界と、泡の中の物質世界と言う喩え話を。
そうしているうちに駅に着き、真堂は煙草を消して携帯灰皿に捨てる。
「今日は本当に悪かったな。また今度埋め合わせをさせてくれ。──なんなら、飛田でも奢ってやろうか?」
再びあの下卑た笑みを見せられ、辟易した。そんなことより電車賃を出してくれた方が遥かにありがたい。
結局時間を無為に費やしただけだった。こんなことなら《GIGS》の花火鑑賞会に参加すればよかったなと、後悔を噛み締めつつ、僕は駅のホームで電車を待つ。
ほどなくして、快速列車の通過を予告するアナウンスが流れた。
そして──その時は訪れる。
真堂はどう言うわけか、点字ブロックの向こうに立ったまま下がろうとはしなかった。彼が何故そんなことをしたのかは全くの謎だが、とにかくホームのヘリに立ち、こちらに猫背気味の膨れた背中を向け続ける。
まるで、自ら死に向かおうとするかのように。
彼岸の入り口に佇むその後ろ姿を、僕は無感動に眺めていた。
直後──
真堂は左胸に手を当てがい、前屈みになって苦しみ出した。
何が起こっているのかわからないうちに、呻き声を漏らした彼は、一、二歩前へとよろめき、かと思うとそのまま線路上に落ちて行しまう。
無論、僕はすぐにそのことに気が付いた。しかし、どうしたわけか体は少しも動かなかった。まるで、無意識のうちに彼を見捨てようとしているかの如く。
もっとも、動き出せていたとしても、到底間に合いはしなかっただろうが。
──刹那、時速数百キロの鉄塊が通りがかり、慈悲もなく若者を轢き殺した。
その瞬間から目を逸らした僕は、数歩、後退る。
他の利用客の中に身を隠すかのように。
騒然となるホームの中、今いる場所とすぐ目と鼻の先にある──はずの惨状に思いを巡らせ、僕は改めて慄然とした。
あの日は、何が起こったのかわからなかった。しかし、後になって、真堂の目的や事故の原因を推察することはできた。
真堂は、須和子さんと面識があった。彼女に津波の瞬間を映した映像を売っていたのだから。
そして、おそらく彼女があそこで働いている、と言うことも突き止めていたに違いない。
つまり、あの日彼が僕に見せたかったのは──店に出ている須和子さんの姿だったのだろう。
「──真堂が撮りたかったのは、飛田で働いている誰かの姿だったのではないか。だとしたら、それは彼と面識のある矢来さんだと考えるのが妥当だ」
緋村の語る声で、現実に引き戻される。
「あの日、飛田に来た真堂は、矢来さんが出勤するまでの間時間を潰す為に、《幽世》の向かいの店に入ったのかも知れない。事件当時、その店でも客を取っていたそうだからな」
そのとおりなのだろう。待ち合わせに遅れて現れた彼が、差し出したあの飴。あれは、店で出された物だったに違いない。飛田新地では、「自由恋愛」を終え帰って行く客に、飴を渡すことが多いと言う。その飴を持っているかどうかで、すでに別の店に入った後だと言うことが、一目でわかるように。
「その後、真堂は線路に落ち、不運なことに通りがかった電車に轢かれてしまう。お前の小説によると、それは陽が沈む頃──すなわち、飛田の事件が発生してから、二時間ほど経った後と言うことになる」
事件があったのは、十七時頃。そして、真夏の陽の入りは十九時頃だ。
「言い換えば、真堂が店に入ってから約二時間後ってわけだ」
緋村が言わんとしていることは、とうにわかっていた。しかし、そんなこと、本当にあり得るのだろうか? にわかには信じ難かったし、真実かどうかはすでにどうでもよかった。
「もし、真堂が線路に落ちた原因が、心臓発作──虚血性心不全だとしたら、その引き金となったのは、それだったのかもな」
僕は、以前彼が《えんとつそうじ》言っていた話を思い出す。人間は一番の疲労のピークは耐えられるようにできており、それが過ぎ去って気の緩んだ時が、最も危ないのだ、と。
すなわち──真堂は腹上死していたのだ。
毒々しい夕陽によって焼かれた、真夏の線路の上で。