我に返るスキマを埋めろ
宇宙の歴史──そしてそのなかでのわれわれの生と、われわれの生のきわめて微少な細部──は、ある卑賤な神が悪魔と意を通じるために書いた文章である
ホルヘ・ルイス・ボルヘス(鼓直訳)『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』
その後、何があったのか。正直なところ、あまりよく覚えていない。緋村が他の人に報告してくれたらしく、いつの間にか部屋の中に《GIGS》の面々が集まっており、茫然と立ち尽くす僕の代わりに、木原さんが彼女を抱き寄せて嗚咽していた。
それから僕は自室に戻り、眠ったのかどうかさえよくわからないまま、惚けていたように思う。
だから、緋村たちが助けを呼びに下山したかどうかはわからない。
ただ、気が付いた時には地元の警察署で事情聴取を受けており、まるで自分が犯罪者にでもなったような気分で、刑事の問に生返事ばかりしていた。
やがて長い拘束からも解放され、ようやく下宿先の自室に帰り着くと、風呂に入ることもせずに、僕は泥のように眠った。
──そして、半日以上経って目を覚ますと、僕はすぐさまそれに取りかかった。
買ってはみたものの手付かずのままだった原稿用紙を引っ張り出して来て、そこにこの事件の顛末を綴り始めたのだ。僕が見聞きし触れて来たことを元に、足りない箇所は想像で補って。
自分でも、その行為に何の意味があったのかわからない。もしかしたら、事件によって受けた心のダメージを癒す為に、執筆と言う儀式が必要だったのかもしれない。
あるいは、逝ってしまった人たちへ、僕なりの供物を捧げるつもりだったのか……。
とにかく、僕はその日から何かに憑かれたようにひたすら筆を駆け巡らせた。授業もバイトも投げ出し、閉じた部屋の中で一心不乱に原稿用紙に向かう。それまで一行どころか一マスも埋められていなかったのが嘘のように、僕は驚異的な速度でこの物語を書き上げた。
──結果、妓楼での殺害シーンから始まり、彼女の死の光景によって終わる墓標の如き事件記録は、わずか一ヶ月ほどでほぼ完成状態になっていた。
そんなある日、普段どおり昼頃に目を覚ますと──
「……よお」
何故か緋村がいた。
しかも、とっ散らかった床に胡座を掻いた彼は、勝手に事件記録を読んでいるではないか。
一瞬、何の悪夢かと疑い目を瞬かせたが、彼の姿は消えてくれない。
仕方なく、敷きっぱなしの布団の上で体を起こした僕は、ようやく当然の疑問を口にした。
「……なんでここにいるんだ? いったい、どうやって入って来た? ──と言うか、読まないでくれよ」
「文句言うくらいなら、ちゃんと戸締りしとけよ。鍵かけ忘れてたぜ?」
「だからって、普通勝手に部屋に上がってくつろぐか? ──読むのやめろって」
彼はようやくページを閉じ、僕の小説をテーブルの上に置いた。
そして、久しぶりに見た気がするあの死んだ目をこちらに向け、
「お前、あの日新今宮の駅にいたんだな」
「……ああ」
「日々瀬の言っていたことを覚えているか? ──真堂って奴が『撮ってはいけない写真を撮るつもりだ』と豪語してたって話だ」
覚えている。
「これは本当に根拠のない想像だが──真堂は、飛田新地で何かを写真に収めるつもりだったんじゃねえかな。ほら、ああ言う場所って、写真や映像の撮影はタブーだろ? 真堂は禁忌を犯すスリルを楽しもうとしていたのかも知れない」
緋村の推測はおそらく正しいのだろう。
事実、真堂はあの日飛田にいた。
そもそも──僕が新今宮の駅にいたのも、元を辿ればあの人に呼び出されたからだった。