夜明けの歌
その時去来したのは、これまでこの事件の中で何度か味わって来た感覚だった。全ては繋がっていた。予めこうなることは決められていて、そこに至る為のカラクリは、いつだってすぐ目の前にあったのだ。
──この事件の中心にいたのは、初めから須和子さんだった。
その証拠に、予期せぬ共犯者の存在は、最初から提示されていたではないか。
「石毛さんは『亡霊は本当にいた』と言うメッセージを遺して自殺した。そして、事件のあった店の名前は《幽世》。……幽世とは、あの世のことだ。そこの従業員なんだから、確かに『亡霊』に違いない」
石毛さんは、須和子さんの正体に気付いていたと言うのか?
だとしたら、それはいつか──
「畔上の部屋でスケッチブックを見た時、石毛さんは怖い顔をしていたそうです。あれは、本当は『亡霊』のスケッチに対してではなく、その前のページにあった、矢来さんの絵に対する反応だったのでしょう。あの時、石毛さんは気付いてしまったわけだ。矢来さんが、あの日店に出ていた従業員だと言うことに」
「ウィッグを被っとる時の絵やったから、わかったんやろう。仕事の時もよく被るから。まあ、あの絵のとはまた違う奴やけどな。──これでも、バッチリ化粧して服装もいつものとちゃうのを着たら、ちゃんと女らしくなるんやで? 驚いた?」
女を捨てるどころか、ある意味では活用しているではないか。
そう思いはしたが、それを口にするのすら億劫だった為、僕は何も言わない。
ただもう、目の前の光景を受け入れるだけだった。
「宇佐見は大して悪びれる様子もなくキヨカさんのことを話して来てな。罪の意識なんて一ミリも感じてませんって、言う風に。……殺されたのを知った時は、正直スカッとしたわ」
「なるほど、それでは初めから彼女にはいい感情を抱いていなかったんですね? だからこそ、あの日店から立ち去る石毛さんを見逃した、と」
「ああ。ついでにちょっとした腹いせのつもりで、現場が密室になるような証言をしたんや」
「それはわかりましたが、では何故、順一さんの復讐を受け継ぐ必要があったんでしょう? キヨカさんの話を聞いて憤っていたのだとしても、そこまでのことをする理由はなかったはずです。直接矢来さんとは関係ないのだから。それなのに、どうして二人もの人間を殺さなければならなかったんですか? 畔上に至っては完全な巻き添えだし、山風の罪も死ぬほどの物とは思えない。──もちろん、答えてくださいますね?」
突き刺すような眼差しや、硬く冷たい声音は、返答を拒むことは許さないと告げていた。
「……どうして、か。ホンマ、なんでなんやろな。今になって思うと、自分でもようわからんわ。でも、たぶん、ずっと相手が欲しかったんやと思う……。復讐する相手が……」
そう言えば、先ほども「やっと相手が見付かった」と言っていたか。
しかし、いったいどう言う意味なのだろう? ──どんな意味だろうと、もうどうだって構わないが。
「どう言うことですか?」
こればかりは、緋村にもわからないらしい。
「……実は私、昔岩手に住んどったことがあったんや。で、そっちで仲良くなった子がおってな。幼馴染って奴やね。それから家の都合で大阪に引っ越してからも、彼とは手紙や電話でのやり取りを続けとった。小学校の長期休みには向こうに遊びに行って、彼の家の船に乗せてもらったこともあったわ。めっちゃ船酔いして戻してもうたこともあったけど、まあ、ええ思い出やな。──そんな風に仲のいい幼馴染の関係は、なんやかんや中学二年になっても続いとった。それで、ある時ふと気付いたんや。私にとって、彼はただの男友達とは違う、もっとずっと特別な相手やったんやって。──純情やろ? そんな時期私にもあったんやな」
自嘲的に笑う。
「それからは居ても立っても居られなくなった。すぐに彼の気持ちを確かめたい。それも、手紙なんかやなくて、直接会って。──結局休みに入るのを待たれへんくて、学校をサボって岩手まで会いに行ってもうたわ。もし受け入れてもらえたら渡そ思って、プレゼントを持って……。結果は──気恥ずかしいからあんま言いたないけど、彼も同じやったのがわかった。当時の私は、それはもう舞い上がっわ。やからかな、私が最後まで間違いに気付かんかったのは。
彼に渡したプレゼントは、マフラーやった。手編みではないけどな。そんな器用なことできひんし。──これから春って時期やったけど、向こうの方はまだまだ寒いやろうし、実用的でええんやないかなって思った。彼の分と自分の分、お揃いのマフラーを一緒に買ったんやけど、次の日家に帰ってみて驚いたわ。彼に渡すはずやった青いマフラーが、部屋にあったんやから。──そこでようやく、間違えて自分用に買った方を渡してもうたことに気付いたわ。……我ながらそそっかしいなぁって自分に呆れたけど、その時はそこまで大したこととは思わんかった。すぐにまた春休みに入るんやし、今度会った時に交換すればいい。むしろ、ええ話のネタにやりそうやってな。──震災が起きたのは、その次の日やった」
ああ、そうか。やはりそこと繋がって来るのか。
僕よりもむしろ緋村の方が意外そうにしているのが、妙に滑稽だった。
「では、その人は……」
「津波に連れてかれた。──あの時は愕然としたわ。こんなことがあっていいはずがないって。もちろん悲しかったんやけど、それ以上に腹立たしかった。彼を、彼との未来を奪われたことが。……けど、身を焼き焦がすようなこの怒りをぶつける相手は誰もおらんかった。復讐心だけは絶えず燃え続けるのに、復讐する相手がおらんねん。結局私は、神様に矛先を向けるしかないようなどうしようもない感情を抱えたまま、この無意味な七年間を過ごして来たわけや」
一万八千と言う巨大な数字の中に埋没してしまった、たった一人の死。それに触れた時、きっと彼女は全てを失ってしまったのだろう。
そして、そこから先の日々は泡のように空虚な物だったのだ。
《GIGS》で過ごした青春も。
星空の下での、僕との談笑も。
何もかもが──
「……それと、山風たちを殺す動機と、どう関係があるんです?」
「ホンマはもう、わかっとるんやろ? それだけ勘がスルドいんやから。──復讐する相手ができたんや。たとえ誰かの代理やったとしても、そのことには変わらん。……何より、ミクちゃんは被災者への虐めに加担しとった。そんな屑みたいな奴、死ぬべきやと思わん?」
「いいえ、全く同意できません。……そもそも、山風は本当に虐めの主犯格だったんでしょうか?」
「何やの?」
「キヨカさんのことを知っていたのではないか、と尋ねた時、山風はこう言っていました。『宇佐見のグループには、逆らえんかったから』と。──率先して虐めを行った人間が、果たしてこんな言い方をするものでしょうか? 本当は、彼女は加担すること、あるいは見て見ぬフリをすることを、強要されていただけだったのかも知れません」
「……だとしても、関係あらへんよ、もう。殺してもうたんやから」
乾ききった、冷淡な声音で言い捨てる。
確かに、そのとおりだと思った。彼がどれだけ真実を解き明かそうと、奪われて行った命は戻らない。
彼女の罪が消えないのと同様に。
緋村どう考えているのか、しばし醒めた黒眼で相手を見下ろしていたが、ほどなくしてそれをやめ、体の向きを変える。
「確か、スケート靴や花束はクローゼットの中にしまってあるんでしたね? 開けてみても構いませんか?」
「ああ、ええよ……」
僕の前を横切り、そちらに近付いた彼は、手を伸ばした。
が、その瞬間、
「──DVDのこと、ルナちゃんから聞いた?」
手が止まり、彼女を振り返る。
「津波の様子を映した映像のことですか? 確か、真堂と言う阪芸生から買ったとか……」
「そうそう。──実は、私も同じ物を彼から買うたことがあるんや。そもそも、ルナちゃんに真堂さんのことを紹介したのも私やしな。──驚いたで。津波に呑まれる瞬間の彼の姿が、シッカリ映っとったんやから。それも、私が間違えて渡した桜色のマフラーを、律儀に巻いとった……。ホンマは、海の色みたいに真っ青なマフラーを、渡すつもりやったんやけどなぁ……」
独白のような言葉は、それこそ無意味なことのように思えた。
緋村は再びクローゼットに向き直り、両開きのその扉を引く。
そこには、これまでの話に登場した四つの品──スケート靴と泥と雨水に汚されたワンピース、ボロボロに花が散ったブーケ、そして、一輪の白薔薇がしまわれていた。緋村の推理を裏付ける無言の証人たちだ。
僕は彼の背中越しに、茫然とそれらの品々を眺める。
すると、その視界の端で──
彼女がベッドから落ちた。
喫驚した風に、緋村が振り返る。
彼女は床の上に倒れ込んだまま、起き上がろうともしない。
「す──須和子さん!」
名前を呼びながら、僕はようやく呪縛から解かれたように、慌ててそちらに駆け寄った。膝を着き、彼女の華奢な体を抱え起す──そのあまりの軽さに、僕は愕然とした。
「……あかんね……もう、時間みたいや……」
掠れた声で呟く。弱々しい息遣いは、今にも掻き消されてしまいそうだった。
──何故、急に? つい先ほどまで普通にしていたのに。
まさか、これも心臓発作や何かと同じように、疲労のピークを過ぎ、気が緩んだせいなのか?
混乱する僕の腕の中で、彼女はうわ言のように僕を呼んだ。
「……葉、くん……最後に、お願い……聞いてくれへん? ……こ、これ……」窮屈そうに、右手を後ろに回す。「……背中のナイフ……抜いてほしいねん……」
ナイフを引き抜く。
しかし、そんなことをしたら、それこそ彼女は──
「……気にせんで、ええよ。どのみちもう、限界みたいやし……。それに、本当はあの時死んどった、はずやから……。頼む、わ……いつまでも、借りとるのは……あの人たちに……申し訳、ない、やろ……?」
「…………」
その時、僕の心はそちら側へと落ちかけていたと思う。彼女も言ったとおり、何もしなくとも須和子さんは死ぬ。生きる為の力が萎んで行くのが、目に見えるようだ。
──このまま連れて行かれてしまうくらいなら、いっそ彼女の望みを叶え、この手で引導を渡すべきではなかろうか?
ここで彼女を殺せば、それな何よりも強い繋がりとなって、永遠に残るのではないか、と。
気が付けば、僕はそのパーカーの襟元へと、手を伸ばしていた。蝋のように白い彼女の首が生えた、その先へ。
無意識に従い。
──が、しかし。
僕がそこに手を差し入れる寸前で、左肩を掴まれる。
死に行く彼女とは対照的に、確かな温もりと力の込められた手で。
ヨロヨロと振り仰ぐと、彼は心なしか哀切な面持ちで、僕を見下ろしていた。
「……だめだ。そっちには──行くな」
懇願するような響きは予想外の物で、僕は少しだけ戸惑った。だからだろう、境界線を越える寸でのところで、踏み留まれたのは。
そして。
「……須和子、さん……?」
返事が寄越されることは、二度となかった。
──泡が、割れた。
僕の腕の中で、亡霊は死体に戻ったのだ。
静寂に包まれた部屋の中、僕はただ無感動にそれを見つめ続けた。窓に引かれたカーテンの隙間から、青白い朝陽が染み出しているのを感じながら。




