Sonic Disorder
同時に、理解する。
ナイフが刺さったままだったからこそ──それが栓の役割を果たしていたからこそ──、彼女は大して出血していなかったのだと。
「……気付かんかったやろ? ちょうどフードの位置と被っとったから。まあ、それを狙ってパーカーにしたんやけど……」
彼女はパーカーを着直し、ファスナーのスライダーを元どおりに上げた。そして、再びベッドに腰を下ろす。
凶器が突き刺さったままにもかかわらず、彼女は平時と変わらぬように振る舞い、約一日を過ごして来たのだ。その事実は、自然と首なし鶏を連想させた。首を失ってなお生き延び、餌を啄ばむ真似さえする怪鳥を。
畔上の用いた『亡霊』と言う表現は、あながち間違いではなかったのかも知れない。あの時すでに、彼女は殺されていたのだから。
「で、でも、どうしてナイフが──そのナイフは、順一さんの遺体に埋め込まれていたんじゃ」
思わず飛び出た問いに答えたのは、緋村だった。
「もう一本あったって、別におかしくはないだろ。それに、これも単なる想像でしかないが──そのナイフは、キヨカさんが自殺に用いた物なんだと思う。つまり、自宅から取って来たのは花束だけじゃなかったんだ」
「それは……凶器として使うつもりで持ち込んだと言うことか? けど、元々順一さんは注射器を使う予定だったんだろ? 注射器が弥生さんに捨てられたのがわかったのは、夕食後だったはずだ。つまり、昼間石毛さんを迎えに行った時点では、順一さんはそのことを知らなかったと思うんだけど」
「そうだな。だから、おそらく初めは凶器にする予定はなかったんだろう」
「じゃあ、いったい何の為に」
「贈り物だったのかも知れない。──二人への」
いったいそれは、どの二人のことだ?
順一さんのターゲットだった山風と宇佐見かと思ったが、どうも違うらしい。
「順一さんは、キヨカさんと錫宮さんに贈る為に、ナイフを持って来たんだ。刃物は縁まで切ってしまうことから、贈り物には適さないとされることが多い。だから、日本やフランスなんかには、縁が切れないように刃物の贈り主に少額の硬貨を渡す風習がある。ただでもらったんじゃなく、購入したことにするわけだな。日本では無論『ご縁』にかけて五円玉を渡すことが主流だが、他の国ではその時ポケットの中に入っていた最小額を支払う場合もある」
なんでまた急に薀蓄のスイッチが入ったのか。当惑しながら聞いているうちに、僕はその意味を理解し、再び強い衝撃に打ちのめされる。
「お前が順一さんの部屋で見付けた五セントユーロ硬貨。あれは錫宮さんの遺品で、彼の服のポケットから出て来たそうだ。ちょうど条件に合う。順一さんはそれを受け取ることで、二人との縁を断つことなくナイフを贈ろうとした」
「い、いったい何の為に? どうして贈り物なんて──二人はもう亡くなっているのに」
「順一さんは、見立てをするつもりだったんだ。Yの死体の周囲に装飾をして、ある物に見立てることを計画していた。──そして、その為にもう一つ自宅から持って来ていた物があった」
まだ先があるのだ。この長い解答編には。
「それは──キヨカさんのワンピースだ。順一さんは、結婚式の見立てをする為に、ワンピースと薔薇の花束、そして贈り物のナイフを現場に残す予定だった」
不意に、いつだか耳にした弥生さんの一言が蘇る。
──おかしな表現ですが、まるで、ウエディングドレスのようでした。
彼女はキヨカさんの白いワンピースを、そう表していた。
また、佐古さんたちが目にした時、順一さんは花束の他に、シーツのような物を持っていたと言う。きっと、あれは本当はワンピースだったのだろう……。
「花束はブーケ、ワンピースはウエディングドレスだったわけだ。ナイフに関しては急遽凶器として使うことになったわけだが、初めから死体に添えるつもりだったんだと思う」
以前、緋村は言っていた。見立てなどと言う意味のない演出をする犯罪者が現実にいるとすれば、それはよっぽど頭のおかしい人間か、見立ての題材自体に強い想い入れがあり、その再現も目的に含まれているかのどちらかだ、と。当然、彼の意見がどんなケースにおいても正しいとは思わない。しかし、少なくとも順一さんの犯行に関しては、それが当て嵌まったとしてもおかしくないのだろう。──娘の結婚に想い入れのない父親など、いるはずがない。
「犯行後、ここに帰って来た順一さんは、手押し車と合羽を放置したまま、自室に戻った。そして、しばらくして『虚無への供物』を読んでいる間に、急死してしまう。──そう言えば、前に虚血性心不全の仕組みを話したことがあったな。あの時俺が言っていたこと、覚えているか?」
確か、大石内蔵助がどうとか言っていた奴か。
「虚血性心不全は、激しい運動をした直後か、それを終えて数時間経過した後に起こる。人間の体はよくできていて、一番の疲労のピークはどうにか持ち堪えるようになっているんだ。反面、気が緩むとそれまで抑え込んでいた物が一挙に押し寄せる……。意識を失っている人間を運ぶのは、かなりの重労働だっただろうな……」
「ま──まさか!」
「順一さんが発作を起こした本当の原因は、これだったのかも知れない」
僕は眩暈を覚えた。ここはもう、何が起こっても不思議ではない異空間なのか。
僕の知る世界は、やはりとうに作り変えられてしまっていたのだろう。
あの小さな流入物によって──
「……無論、大して根拠があるわけじゃない。あくまでもそう言う可能性もあり得るってだけだ。
話を戻そう。廃墟で目覚めた矢来さんは、供えてあった花束を拾い《マリアージュうたかた》に帰った。そしてその際、自分の靴がなかった為投棄物のスケート靴を履いたのでしょうが、身に付けた物はそれだけではなかったんですね? ──矢来さんは、シャワーを浴びようとしていたところを襲撃された為、目を覚ました時服を着ていなかった。だから、スケート靴と同じように、近くにあったワンピースを着たんじゃないですか?」
「せやねん。素っ裸のまま戻るよりはまだマシや思ってな。……何より都合のええことに、あれなら腕を上げなくても着られた。──ちなみに、さっきもチラッと言ったように、あのワンピースもクローゼットの中にあるで?」
「畔上が矢来さんの怪我に気付けたのも、ワンピースだったからなんでしょうね。パーカーと違い、ナイフが刺さっている部分は露出していたはずですから……。
そう言えば、彼はキヨカさんの写っている写真を見て『どうして……』と呟いていたらしいですが、これはおそらく、自分の見た人物も同じワンピースを着ていたことに気付いた為、零れた言葉なのだと思います。いや、実際に全く同じ物だと言うことがわかったかは不明ですが、少なくとも、『亡霊』がワンピースを着ていたことは理解できたでしょう」
僕は、あの嵐の夜のことを思い描く。
生き延びた彼女は、滂沱たる雨の中、農道を歩いて行く。亡き少女と同じワンピースを纏い、手には生首のようなブーケを握って。スケート靴を履いている為、酷く難儀しながらも、どうにか風に耐えユックリと歩みを進める。
白い薔薇の花びらは、容赦なく散らされたことだろう。
それから幾許もせぬうちに、背後で恐ろしいほどの轟音が響き、激震を感じた。
立ち止まり、振り返る。
暗闇の中でも、道に雪崩れ込んだ大量の土砂ともうもうと舞う土煙は、ハッキリと目に映った……。
──この時すでに、殺人劇は大きく歪んでしまっていたのだ。
「フラウ・カール・ドルシュキーの花を一輪だけ刈り取ったのも、本当は順一さんだった。そこに関しては、どんな意図があったのか不明だが……」
「ああ、それならここに戻って来た時、このベッドに置いてあったわ。もしかしたら、せめてもの手向けのつもりやったんかな。そもそも復讐する相手を間違えとったわけやけど」
「なるほど。だからこそ矢来さんは花束から一輪だけ薔薇を抜いて現場に供えたんですね? つまり、すでに一輪順一さんの手で刈り取られていたことを知っていたから、同じ薔薇だと見せかけることができる、と考えたわけだ。
とにかく、どうにか無事に《マリアージュうたかた》に帰り着いた矢来さんは、先ほど言ったようにスケート靴を使って電話を壊した。もちろん、その際ブレードに着いていた汚れはワンピースで拭ったのでしょう」
そう言えば、今朝ロビーに斧を取りに向かう際、心なしか床が湿っているように感じた。あの時は靴下がすでに水没していた為よくわからなかったが、実際濡れた跡があったのかも知れない。
「では、結局のところ、矢来さんが電話を破壊した理由は何だったのか……。例により想像で語らせてもらいます」
これまで回答を先送りにして来た最も重要な疑問に、ようやく答えてくれるらしい。
「矢来さんは、自分が何故順一さんに襲撃されたのか、その理由がわかっていた。つまり、山風と間違えられて復讐の標的となったことに気付いたんです。その上で、こんな風に考えたんじゃないですか? 今ならまだ、歪んでしまった順一さんの復讐を修正することができる、と」
──復讐の修正?
彼女は土砂崩れの瞬間に居合わせた。連絡手段を断ってしまえば、それだけで閉鎖空間を作り出せる──可能性がある──ことを知っていた。
だから、電話を壊した……?
「する」為にしたのではなく、「できる」からした……?
「謂わば、順一さんに山風を殺し直す機会を与えるべく、俺たちを閉じ込めてしまおうとしたんですね? 間違ってしまった殺人を、連続殺人に変えることで修正しようとしたんだ。──違いますか?」
「やっぱり盗撮なん? いや、この場合読心術を疑うべきか。──おうてるよ」
須和子さんが、心なしか疲れたように首肯する。
「廃墟で気が付いた時点で、正直もう死んでもええかなって思ったんや。ただ、あんな寂れた場所で最期を迎えるんも癪やったから、必死こいてここまで帰って来た。記念にブーケをもらってな。──ああ、大して意味はないで? ただ綺麗やったからもらって来ただけや。で、緋村くんが言ったとおり、せっかくやからオーナーさんにチャンスをあげたろう思って、電話を壊したわけやな」
しかし、翌朝、彼女にとって想定外の事態が起こった。
「……それやのに、蓋を開けてみれば亡くなったのはオーナーさんの方で、なんでか私は生き延びた。迎えるつもりのなかった朝が来た……。だから──いっそのこのと、私が殺人犯の役を受け継ぐことにしたんや。勝手に花束をもらってもうたからな」
──まるで、ブーケトスだ。
あの嵐の夜、薔薇のブーケを掴み取った彼女は、同時に悪魔の祝福を受けた。
だからこそ、そんな狂った理由で二人もの人間を葬り、虚無へと還したのだ。
僕はいつの間にか、須和子さんが犯人であることを疑わなくなっていることに気付く。聴かされた話のどれもが荒唐無稽であり、現実味を感じられなかったせいかも知れない。
同じ部屋の中にいるはずの二人の姿ですら、蜃気楼のように遠く揺らいで見えた。
酷くなるばかりの眩暈に耐えながら、僕は最後の疑問を口にする。
「ま、待ってください……まだ一つだけ、矛盾していることがあります。須和子さんは、どうして順一さんが復讐相手を間違えたことに気付けたんですか? キヨカさんが自殺したことや、山風が彼女の元クラスメイトで、虐めの主犯格だったことなんて、一日目の夜の時点では知る由もなかったはずじゃないですか……」
そして、その時点でそれを知らなければ、自分が勘違いによって襲われたことや、本来の標的がこの宿舎にいることもわからなかっただろう。
つまり、復讐の修正が可能だと言う発想にも至らなかったはずではないか。
「それとも、本当はキヨカさんと面識があって、彼女から虐めやYの話を聞かされていたとか……?」
そうだと言われたら納得するしかないが。
僕の問いに答えたのは、例によって緋村だった。
「確かに、矢来さんは当事者から直接話を聞いていた。だから、今回の合宿が始まる前から、ただ一人全てを知っていたんだ。……ただし、その話を教えたのは、被害者ではない。加害者側──つまり宇佐見愛里紗からだった」
それでは、須和子さんは宇佐見と面識があったと言うのか?
しかし、いったい彼女たちにどのような繋がりが? そんな物到底ありそうにないのに。
「──矢来さんと宇佐見は、同僚だったんだよ。話を聞かされたのも、おそらく職場なんだろう」
彼が言わんとしていることを、僕はすでに知っているような気がした。にもかかわらず、何故か意識が理解を拒絶し、思考は泥濘で空回る。
しかし、答えは常に、否も応もないままにもたらされた。
「矢来さんは、あの事件の現場となった店で働いていたんだ。──飛田にある、《幽世》と言う妓楼で」