ポストワールド②
事件が起きたのは今月の頭──八月一日の夕方頃。被害者はとある料亭の従業員の女性であり、密室云々以前に、その現場の特殊性がまず話題となった。
と言うのも、現場となった飛田の料亭街──通称「飛田新地」とは、長い歴史を持つ花街なのである。聞くところによると、こうした店舗型の風俗は、表向きは料亭やスナックなどと銘打ち、あくまでも従業員と客との「自由恋愛」と言う名目で、今なお売買春を続けているらしい。
飛田新地の敷地は広く、それこそ風俗店だけで構成された一つの「街」のようになっていた。木造の建物が密集した映画のセットのような街並みの中、遊女が笑顔を振り撒き、呼子の老女が猫なで声で客を招く様子は、別世界じみた異様さがある──のだとか。
問題の事件現場は、飛田新地の正面口にほど近い店舗の一つ、《幽世》と言う料理屋の接客スペースだった。
殺されていた従業員の名前は、宇佐見愛里紗。二十二歳だと言うから、僕たちと同年代だ。
この日、十七時前に出勤し店先に出た彼女は、店に出た直後、最初の客を取る。
──そしてこの客こそが、犯人と目される──少なくとも、何らかの形で犯行に関わっているのは確実だろう──男だった。
男は真夏にもかかわらず黒いジャケットを着込み、ニット帽を目深に被っていたと言う。それに加えマスクまでしていた為、顔はほとんど分からなかった。年齢は二十代から四十代後半、中肉中背で──要するに、ロクな情報がないと言う。
宇佐見と男は共に二階へ上がり、接客スペースの四畳半へ向かった。
──と、ここまでは何の異変もなかったのだが、一人一階に残った呼び込みの老女は、次第におかしなことに気付く。とっくに代金を受け取っているはずの宇佐見が、一向に下りて来ないのだ。
通常ならば部屋に入った時点で時間を訊き、その分の料金を従業員が受け取って、事務所にいるオーナーの元へと持って行く決まりになっていた。
それでも初めのうちは、単なるミスだと思っていたようだ。──が、その後十分ほどが経過し、別の従業員が出勤して来た後も、宇佐見はやはり下りて来なかった。
いったい何をしているのか、もしかしたら客と揉めているのでは? 彼女が訝っているところへ、暖簾の奥からオーナーが現れる。
「あれ、アリアちゃん(宇佐見の源氏名)、まだ下りて来えへんの?」
「そうなんですよぉ。私も今、ちょうどおかしいなと思っとったところで」
「ふうん、どないしたんやろな。──悪いけど、ちょっと上行ってそれとなーく、様子見て来てくれへん? 店番は俺がしとくから」
この日はまだ他の従業員は出勤していなかった為、オーナーはそう指示を出すことにしたと言う。こうして呼子は二階に上がり、オーナーは一人その場に残った。
細い廊下には階段を上りきった傍らに手洗いがあり、そちら側から見て左手に並ぶ三部屋は、全て接客用だ。
宇佐見はそのうちの真ん中の部屋を使っているはずであり、呼子もまっすぐにそこへ向かった。
すると、すぐに妙なことに気付く。
襖が開け放たれているのだ。
普通、客が入っている時に開けっ放しになどするはずがないのに──いったい、どうしてだろう? 不審に感じた彼女は、恐る恐る室内の様子を窺った。
──その目に飛び込んで来たのは、変わり果てた宇佐見の姿だった。
死体発見時、宇佐見は部屋に敷かれた布団の上に仰向けに倒れており、驚愕の表情のまま凍り付いた顔からは、すでにこと切れていることは明らかだ。
しかし、部屋の中に客の姿はなく、また人が隠れられるスペースもない。
当然ながら喫驚した呼子は、とにかく報告しなければと、急いで階下へ降りて行った。
「た、大変です! アリアちゃんが!」
彼女は宇佐見が死んでおり、もしかしたら殺されたのかも知れないことを、オーナーに伝える。
仰天した彼は暖簾の奥に声をかけ、つい今し方出勤して来たばかりの従業員を呼び出した。彼女に店先にいるよう指示を出しておきつつ、自らの目で確かめる為、彼は呼子を伴って二階に上がる。
──かくして、オーナーも現場に足を踏み入れ、宇佐見の死体を確認することになった。
そして、すぐに例の客の行方が問題になる。残りの二部屋も確認してみたが、やはり誰の姿もない。
「おかしいやないか。他に隠れられそうな場所なんて……」
「あっ、もしかして」
呼子が思い至ったのは、廊下の反対側の突き当たりにある手洗いだった。誰かが隠れているとしたらもうそこしかない──と、同時に、トイレの窓は人が通り抜けられるような大きさではないから、犯人に逃げ場はないことになる。
ゴクリと唾を呑み込んだ後──と言う部分は僕の想像だが──、意を決したオーナーは、ドアを開けた。
もし本当に犯人が潜んでいたならば、彼らは反撃を受けてしまった可能性もある。
その点を鑑みれば幸いと言うべきか──トイレの中は、やはり誰もいなかった。
──ならば、表口から堂々と逃げて行ったのか?
飛田遊郭の店々の一階部分は、開店中は常に扉を開放している。よって、外に出るだけなら容易い──のだが、下にはもう一人の従業員がいる。もし犯人がそこから出て行ったのであれば、何をどうしても、確実に彼女の目に触れたはずだ。
首を傾げながら一階に下りた二人は、さっそく従業員を問い質した。──しかし。
「え? お二人が二階に上がってから今まで、誰も下りて来てませんけど……?」
この答えに、オーナーと呼子は顔を見合わせたと言う。
──また、事件当時、通りを挟んで真向かいにある別の店舗も開店していた。
しかし、そこの呼子も何も見ていなかったらしい。
「さあ、全く気付きませんでしたわ。うちらも、常にお向かいさんのこと見とるわけやありませんから。それに、ちょうどその時はうちの娘もお客さんの相手させてもろとったんです。せやから、余計に通りのことなんて気にしとりませんでしたわ」
従業員が空いていなければ客を呼び込むこともできないのだから、表を気にかけていなくて当然だ。
──以上の証言から、犯人はまるで白昼夢のように消え失せてしまったことになった。
果たして、犯人はどのようにして、この密室から脱出したのだろうか……?