ジョーカー
「それに、ミクちゃんの時はどうなるん? わかっとるとは思うけど、うちはずっと緋村くんたちと行動しとったんやで? 三人で喫煙所におる時にミクちゃんが来て、そのまま脱衣所に行ってから遺体を見付けるまでの間も、一緒におった。これって、誇張抜きに鉄壁のアリバイって言えるんやない?」
そう、このアリバイは絶対に揺らがない。他ならぬ僕たちが証人なのだから。
加えて、密室の謎もある。
事件当時、僕たちが母屋に戻って来て以降、裏口のドアは施錠されていた。石毛さんを警戒するあまり、僕が無意識のうちにツマミを捻り、施錠してしまったからだ。
山風が脱衣所に向かったのは鍵が閉められた後であり、死体発見までの間、喫煙所の前の廊下を通った者は誰もいなかった。
──つまり、あの現場は完全に密室状態だったのである。
無論、自分のせいで状況をややこしくしてしまった以上、罪悪感はあるものの、この点を指摘せずにはいられなかった。
これを話すと須和子さんは、
「そうやったんか。──アリバイモノのミステリなんかは、よく『時間的密室』みたいなことを言われるけど……今回の場合、時間と空間の両方において、うちには犯行が不可能やったみたいやね」
至って穏やかにそうコメントする。
しかし、何故だろうか。心なしか彼女が愉しそうに見えるのは。
まさか、この状況を望んでいたなんてこと、あるわけがないのに……。
「仰るとおり、矢来さんに山風は殺せません。それどころか、他の誰にも犯行は不可能でした。誰かさんが勝手に鍵をかけたせいで。……しかし、そもそも本当は殺す必要するなかったんですよ。何故なら──彼女は勝手に死んでくれる段取りになっていたのだから」
「どう言う意味なん?」
「言葉どおりです。──矢来さんは予め山風と打ち合わせをしていたんです。彼女がドアノブで首を吊って自殺するように」
「自殺させたってこと? ──いったいどうやって? それって、普通に殺すよりよっぽど難しいと思うんやけど」
同意である──が、「普通に殺す」と言う言葉からは、異様な冷たさを感じずにはいられなかった。まるで、「ただ殺すだけならば容易いことだ」と言っているようで……。
「平時であればそうかも知れませんが、山風はそれだけ追い詰められていました。そして何より、木原さんに対して激しい怒りを覚えていた。矢来さんは、それを巧みに利用したんです」
「話が見えへんな」
「矢来さんは事前に幾つかの布石を打っていました。その一つが、盗まれた山風のサンダルです。犯人が山風のサンダルを盗んだ思惑に関しては、基本的には前に話したとおりでしょう。彼女に罪を着せる為に逃げ場をなくし、現場を荒らしに向かわせた、と言う奴です。──しかし、真の目的はそれだけではなかった。本当は彼女の心を掌握し、コントロールしやすくすることに意味があったんです」
言いながら、緋村は再び机に近付き、トランプに手を触れる。
「順番に説明しましょう。まず、ある理由から畔上を殺さなければならなくなった矢来さんは、機転を利かせ、このアクシデントを山風の殺害に利用できないかと考えました。そして、『練習室1』に彼を呼び出し、包丁で刺して殺害。その際、予め盗んでおいた山風のサンダルを傍に置いた上で、凶器を引き抜いた。──こうすることで、盛大に飛び散った返り血は、サンダルにも降りかかりました」
彼の白く長い指が、ダイヤのジャックを抜き出す。
「それから畔上のスマートフォンで現場の様子を写真に収めた矢来さんは、それを山風の部屋に、ドアの下の隙間から差し入れたんです」
確かに、管理人たちの部屋と違い、客室のドアの下には隙間があるが。
「さて、その写真を目にした山風は、当然サンダルが本当に盗まれているのか確かめに向かったでしょう。果たして、彼女のサンダルは靴箱にはなく、代わりに畔上のクロックスが置いてありました。言うまでもなく、矢来さんが持ち帰った物です。──そして、ここからが布石の第二段階。ロビーに降りて来て面食らっていたであろう彼女に、矢来さんは声をかけました」
まるで見て来たかのような口振りだ。
「山風は、差し入れられたスマートフォンやサンダルが盗まれていたことを、自発的に相談したはずです。あるいは、玄関にあるクロックスが畔上の物であることにあなたが気付いた演技でもしたのかも知れない。いずれにせよ、彼女から助けを求めて来るように仕向けた上で、手を差し伸べるフリをしたんです。──具体的には、彼女が別棟に向かっている間に、他の人の靴を盗む役を引き受けました。たとえサンダルを持ち帰ったとしても、血塗れでは履けませんから、いっそのこと隠しておくべきだとでも助言したのでしょう。そして、山風のサンダルだけがないと言う違和感をなくす為に、他の靴を盗んだわけです」
「で、その時にキバちゃんたちが外におることを知った、と。──大した想像力やな」
この皮肉を、彼は当然のように黙殺する。
「矢来さんは他にも、助言と言う形で山風に指示を出しましたね? それこそが、最初に言った『不思議の国のアリス』の見立てだったんだ。──サンダルにわざと血がかかるようにしたり、白薔薇を現場に置き写真に収めたりしたのも、全てこの為です。
サンダルの状態からして、そのまま持ち帰ったのではカーペットの血の跡が途切れるなどして、現場にあったことがバレてしまう可能性がある。そこで、赤いペンキをぶち撒けその痕跡を消すことにした。……しかし、ただペンキをかけるだけと言うのも不自然に思われる可能性がある。ならばこの違和感から目を逸らさせる為に、いっそのこと『不思議の国のアリス』の見立てにしてはどうかと提案したんでしょう。現場の写真──そこに写っていた白薔薇を見て、さもたった今思い付いたかのように」
つまり、自然に見立ての着想を得る理由を作る為だけに、薔薇を現場に残し尚且つ写真に収めたと言うのか? ──馬鹿馬鹿しい。そんな手の込んだことをする意味がわからない。
それに、いきなりペンキをぶち撒けろだとか斧で死体の首を切り落とせなんて言われたら、さすがに山風も不審に思うのでは?
「まあ、そうだろうな。だからこそ、彼女は首を刎ねることはできずに、ドラムセットを破損するに留まったわけだ。
ちなみに、ペンキや斧が倉庫にあるって情報は、スイカ割りに使うブルーシートを出した時に見たと言えばいい。この点は事実だからな」
「だとしても、そんな何でもかんでも言われたとおりにするかな?」
「させたのさ。自分も靴を盗むと言う形で協力することで、山風が断り辛くなるようにしたんだ。──そして、彼女は矢来さんの指示に従い現場に見立てを施した後、別棟の角から腕を突き出し二人を手招いた。つまり、あれは任務完了を伝える合図だったんだろう。予め、その頃には外の喫煙所に出ていると打ち合わせしていたのかも知れない」
「けど、死体の写真を見た彼女が騒ぎ出す可能性だってある。他の誰かに知られたら、それだけで計画は頓挫するじゃないか」
「そうならない為に、彼女がサンダルがなくなっていることを確かめに来たところに声をかけた。あるいは、玄関ではなく二階の廊下で待ち伏せしていたのかも知れない。そうやって誰かに話す前に先手を打ったんだろう。──それに、たとえ他の人間に言われても、即座に自分の犯行であることが露呈するわけでもないからな。多少予定が狂う程度だ」
「……結局、どれもただの想像だ」
「ああ。──しかし、想像できるってことは、実際にあっても不思議ではないことだ、とも言える」
臆面もなくよくそんなことが言えるな。呆れる僕の視線の先で、今度はハートのジャックが選ばれる。
「そして、ここであなたは第二の布石を打ちます。すなわち、山風が木原さんを疑うようなことを吹き込んだのです。……例えば、『木原さんが二階の山風の部屋の前にいるのを見かけた』、とか。山風は普段から彼にいい感情を抱いていなかったらしいですね。そんな相手に陥れられたのですから、憤慨するには十分でしょう」
「そう? かなり強引な気がするけど」
「ですが、実際彼に糾弾された際、彼女は怒りを露わにしていました。あの時山風が発した『見え透いたことを』と言う言葉は、木原さんが犯人だと思い込んでいたからこそ、飛び出した物でしょう。
それに、木原さんの方でも山風をよく思っていなかったこと、そして彼がミステリ好きであることから、この展開は十分予想できたはずです。──もっとも、本来であれば山風は別棟にいる時点で見付かる予定だったのでしょうが……。やはり、あの密室状態──謂わゆる足跡の謎──は、期せずしてできてしまった物だったわけだ」
その点においては、以前彼が披露した推理と同じらしい。
もっとも、重要な部分が大きく違ってしまっているが。
「矢来さんの思い描いたプランでは、山風は別棟にいる時点で発見され、最有力容疑者となる──が、別棟にいたのではあのタイミングで靴を盗むことができないことがわかり、一時的に疑いが晴れ、尚且つ彼女が木原さんへの怒りをより募らせるように仕向けるつもりだったのでは? ──実際には山風がコンクリートの部分を利用して逃げ回った為、このとおりにはいきませんでしたが……まあ、木原さんの鋭い指摘と播州弁によって、結果的にはあまり変わりませんでしたね。──そして、思惑どおり山風が木原さんへの怒りを募らせたところで、矢来さんは彼女にある計画を持ちかけたんです」
音もなく動いた彼の手が、モノクロのジョーカーに触れる。
「結論から言えば、それは──擬似的な狂言自殺です。つまり、容疑者に仕立て上げられたことへの仕返しとして、『木原さんに自殺に見せかけて殺されそうになった』と言う芝居をし、反対に彼を陥れる、と言うわけです」
──異常な報復だ。非常に回りくどいやり方とも言える。
何より、その程度のことで命の危険を冒すとは思えない。
「いくら頭に来たからって、さすがにそこまで危険なことはせんくない? 死んでまったら何の意味もないやん」
「だからこそ、非定型縊死を選んだんです。両脚が床に着いた状態の首吊りは、通常の物に比べ、死んでしまうイメージを抱き難い。──少なくとも、そう思わせることは十分可能でしょう」
仮定に次ぐ仮定の話に、すでに辟易していた。
が、彼は止まってはくれない。
「後は簡単です。ただ何もせずに待てばいい。これだけで鉄壁のアリバイを確保しつつ、彼女に罪を擦り付けることができる。恐るべき犯行ですね。自ら追い詰めた上で手を差し伸べ、仕返しに協力するフリをして裏切ったのですから」
ここまでいいように言われてもなお、須和子さんは微笑を保っていた。不快感を露わにするどころか、楽しげですらあるのは、呆れ返っている為か、それとも別の感情故なのか……。僕には、よくわからなくなっていた。
「ちなみに、遺書の字をわざと崩して書いていたのも、『自殺に見せかけた他殺』だと思わせる為の策だったのでしょう。もちろん、実際に書いたのは山風本人だった」
「根拠は?」
「山風が失禁していたことです。彼女は化粧を直していたにもかかわらず、事前に用を足してはいなかった。このことから、彼女は誰かに発見されるつもりはあったが死ぬつもりまではなかったと考えられます」
「……ナルホド。けど、そんな打ち合わせ、いったいいつしたんやろ? 緋村くんの話やと、食堂での集まりが解散した後に持ちかけたってことやんな? うちはルナちゃんと一緒にミクちゃんの様子を見に行ってから、ずっと誰かと行動しとった。そんなタイミング、なかったはずやけど」
「もちろん、日々瀬が山風の部屋を訪れる前です」
「それはおかしいんやない? だって、その時ミクちゃんの部屋には誰もおらんかったはずやろ? ルーズリーフを取りに戻ったルナちゃんが出直して来たタイミングで、ちょうどうちが来たんやから」
「その言い方は正確ではありません。実際には、一度部屋に引き返した日々瀬が、再び山風の部屋に向かうと、ドアの前に矢来さんが立っていたんです。──そして、実はこの時、すでに打ち合わせは済んでいました」
緋村は弄んでいたジョーカーを、二枚のジャックの隣りに置く。
「最初に日々瀬が山風の様子を見に行った時、矢来さんはすでに部屋の中にいた。そして、日々瀬がルーズリーフを取りに引き返した隙に部屋から出て、ドアの前に立ちました。こうすることで、彼女が戻って来た時、たった今部屋を訪れようとしている風に見せかけたんですね? 山風が日々瀬をすぐに部屋に入れずに、紙をもらいたいと頼んだのも、この隙を作る為だったんでしょう」
「……だとしても、まだ君の推理には矛盾していることがある」
不安を押し込めるように、僕は必死に言葉を発した。