乗車権
緋村が足を止めたのは、意外な人物の部屋の前だった。どうしてこの人に話を聴いてもらう必要があるのか、全くわからない。
彼がノックしドア越しに来意を告げると、意外にも、部屋の主はすぐに戸を開けてくれた。
中に入るとその人はベッドに腰下ろし、僕と緋村は立ったままで話を始める。
「お休みのところ押しかけてしまってすみません。二つ、報告したいことがあります。
まず一つ目ですが──石毛さんが亡くなりました。自殺のようです」
「えっ?」驚いた様子で小さく声を上げた。「ホンマなん?」
この部屋の主──須和子さんが聞き返す。
先ほど食堂を出て行った時と比べ、だいぶ彼女の顔色はよくなっていた。その点においてはひとまず安心できた──はずなのだが。
何故だろう、胸の奥で得体の知れない不安が渦巻いているのは。水槽の中に一滴垂らした墨汁のように、それは微量であれど確実に思考を濁らせる。
「ええ。……それでけではなく、石毛さんは例の飛田の事件の犯人だと言うことがわかりました。俺の考えを話し、どうにか認めてもらうことができたんです」
「それって、要するに緋村くんが突き止めたってこと? ホンマに? すごいない? ……あ、でも、と言うことは、今回の事件も……」
「石毛さんの犯行──ではないかと、俺も考えました。しかし、どうやらこちらに関しては違ったらしい」
「違う? ──じゃあ、いったい誰が二人を殺したんやろう? 緋村くんは、もう犯人がわかっとるん?」
「……はい。なので、どうせなら矢来さんにも話を聴いていただこうと思い、伺ったのです。少し長くなってしまうかも知れませんが、どうか最後まで付き合ってください」
「もちろん、ええで。うちも気になりすぎて眠れなかったくらいやから」
「ありがとうございます。それと、もしよければ──トランプを貸してもらってもいいですか?」
何故急に?
須和子さんも戸惑った様子で、「ええけど……?」と怪訝そうに了承する。
再び礼を述べた緋村は、ちょうど机の上に置かれていたその箱を持ち上げ、中身を出すと、それをディーラーかマジシャンがやるように綺麗に広げる。
「畔上殺しに関して、若庭と矢来さんの二人は、『不思議の国のアリス』の見立てと言う意見を出していましたね。あの時は否定しましたが……実は、見立て説はあながち間違いではなかったようです」
不思議なことを言いつつ、彼は先ほどとは反対側へと手を動かす。それに応じて、カードはドミノのように捲れて行き、絵柄のある面が表となった。
「犯人は、やはり『不思議の国のアリス』のワンシーン──女王のクロッケーの冒頭を再現するつもりだったんでしょう。しかし、ある予想外の出来事から、それは中途半端な結果に終わってしまいました。これは至極単純な話で、山風が死体の首を跳ねるのを躊躇ったからです。おそらく、気が咎めたのでしょう……。死体と言えど、畔上の首を切り落とすことはできず、結局彼女は代わりにドラムセットを壊した。真犯人の指示に背いて」
「なるほど、十分あり得る話やな。ミクちゃん気が強いところもあるけど、ホンマは優しい娘やから」
「……話は変わりますが、トランプのスートには、それぞれ異なった性質があると言うのを知っていますか? 例えば、スペードのクイーンは古くから死や復讐と結び付けられていたそうです」
彼は件のカードを、人差し指で抜き取る。
「そして、『不思議の国のアリス』に登場するハートの女王ですが……このキャラクターはハートのクイーンをモチーフとしていながら、その性格はむしろスペードのクイーンに通ずる点が多く見られる。癇癪持ちで執念深く、意地の悪い暗君。実際、ルイスキャロルの手記にも、『手に負えない怒りの化身』として創作したキャラクターだと認められているのだとか」
今度はハートのそれを選り出す。
唐突な薀蓄話はいつものことながら、この時ばかりは彼の意図が全く読み取れなかった。
二枚のカードを取り上げると、緋村は平板な口調でさらに続ける。
「そう言えば、この部屋でババ抜きをした時、矢来さんの上がり札は奇しくもハートとスペードのクイーンでしたね」
「ああ、せやったな。──けと、それがどうしたん?」
「とても暗示的だと思いませんか? まるで、トランプが真実を告げていたかのようだ」
やけに芝居がかった言い回しだ──と思うと同時に、その時先ほど感じた不安が急激に濃度を増すのを覚えた。夢で見た晦冥のような、漆黒へと──
緋村は二つのクイーンを、やけに恭しい手付きで彼女に差し出した。
「自らの僕を斬首刑を命じる、死と復讐の権化。ハートの女王──つまりこの事件の真犯人は、矢来さん、あなたです」
名指しされた須和子さんは、受け取った二枚のカードを茫然と見下ろす。
僕は、暫時彼の言葉の意味が理解できなかった。
「な──何やの、それ? 冗談にしても失礼すぎひん?」顔を上げ、彼女は苦笑する。
「確かにそうですね。無論、冗談だったらの話ですが。──俺は本気で言っているんです」
「本気で? うちが犯人って?」
「はい」と緋村が頷いたところで、僕はようやく反論することができた。
「待ってくれ。須和子さんが犯人だなんて、あり得ないだろ。須和子さんには、誰よりも強固なアリバイがあるじゃないか?」
「アリバイ? なんでそう思うんだ?」
「なんでって……」問い返されるとは思っていなかったので、少々答えに詰まった。「……須和子さんは例の女の手を目撃してから死体を発見し、他の人に報らせに行ってもらうまでの間、僕と一緒にいたんだぞ? つまり──みんなの靴を盗めなかったはずだ。確か君の話では、畔上殺しの実行犯は、木原さんが母屋に戻ってから死体発見の報らせを受けるまでの間に、靴を盗むことができた人物であり、それはあの時母屋にいた人間の中にいるんじゃなかったのか?」
「ああ、確かにそう言ったな。──しかし、考えが変わった。少し頭を捻れば、矢来さんにも十分可能だと気付いたんだ。……簡単なことだ。靴は、本当は二回にわけて盗まれたと考えればいい」
「二回にわけて?」
思わず鸚鵡返しをする。
「そう。つまり、予め木原さんの物以外の靴を盗んでおいてから、死体を発見した後母屋に報らせに走った時に、コッソリ木原さんの靴を盗んだのさ。これなら大した手間でもないし、タイミングの問題も関係ない。山風のサンダルも含めると、真犯人は本当は計三回も靴泥棒をしていたわけだ。──そうですよね?」
直接本人に尋ねる様は、酷く図々しく映った。
「うん、せやね──って、言うと思う? 確かにそれならうちにも靴は盗めるやろうけど、重要なことを忘れとるんやない? あの時、うちは裏口の方から母屋に入ったんやで? で、喫煙所におった緋村くんと佐古ちゃんと会たやない。もちろん、これだけやったら否定できひんけど、足跡の問題もある。うちの足跡は、外の喫煙所から別棟に向かう物と、別棟から母屋の裏口に向かう物の二つだけやった。もし本当に玄関の方へ回り込んで、木原ちゃんの靴を盗んだんやとしたら、その時の足跡が残ってないのはおかしいんやないかな?」
そうだ、彼女の足跡は確かにその二つだけだった。もし緋村の言うように、一度玄関に向かった後すぐに引き返して来て、裏口から中に入ったのであれば、砂利を敷いてある庭側はともかく、そこに向かうまでの間に余計な足跡が残るはずである。
「それもちょっとした小細工で解決できます。実際、俺や若庭も同じことをしましたから。──ピンと来てないって顔だな」矛先がこちらに向く。「ほら、まだ靴が見付かってない時に、誰が外灯を消したのか確かめに外へ出たことがあっただろ? その時、俺たちはどこを通った?」
どこを?
一瞬考え込んだが、すぐに思い出してしまう。
「……花壇の縁を伝って、砂利の上に降りたって言いたいのか」
「ああ。おそらく裏口のドアの前に、一歩ぶんくらいスペースを空けた上で、花壇の縁に飛び乗り、玄関へと回り込んだんだろう。で、靴を盗んだ後は、その空けておいたところにうまく降りて、一条の足跡だけが残るようにした。──まあ、ここまで念を入れなくても、あまり不自然なことにはならなかったと思うがな」
機先を制するように、「ちなみに」と言葉を続ける。
「ちゃんと根拠もあります。──若庭に聞きましたが、矢来さんは外の喫煙所に来た理由について、『二人が外にいたから自分もそっちで煙草を吸うことにした』と言う旨のことを話していたそうですね」
「そうやったかもな。よく覚えてへんけど」
「これは要するに、『二人が外の喫煙所にいるのが中から見えたから、自分も外に出ることにした』と言う意味なんですよね?」
「……かもね」
「だとしたら、この発言には明らかにおかしな点があります」
そんな物、いったいどこにあると言うのだろうか。──実際に言葉を交わした僕がわからないと言うのに、彼に指摘できるはずがないじゃないか。
それが道理と言う物だろうに……。
「わかりませんか? ──では、答えを言ってしまいますが、実は、中にいる矢来さんに外にいる二人の姿は見えなかったはずなんです。何故ならあの時、喫煙所の傍の外灯は点いていなかった。つまり、暗かった。そんな状態で、室内から外を見ても、庭の先にある喫煙所の様子が見えるわけないんです。暗がりから明るい場所はよく見えても、その反対──明るい場所から暗がりは見えませんから」
その言葉を聞いた僕は、思い出す。夜を映し出す窓、その黒く塗り込められたガラスを。
星明かりがあったとは言え、より光量の多い側からしたら、外の景色は闇としか映らなかっただろう。
「にもかかわらず、矢来さんは二人が外にいることを知っていた。そして、そのことを知る機会があったとしたら──それは、最初に靴を盗んだ時だと考えられる。つまり、木原さんと若庭の靴がないのを見て、二人が外に出ているのを知ったんです」
彼の言っていることは理解できた。しかし、犯人と断じる決め手としてはあまりにも貧弱ではないか。
須和子さんは、僕たちが外にいるのが「見えた」と明言したわけではないのだ。
「靴を盗んだと考えられるから、うちが殺人の実行犯やったって言いたいんやろうけど、さすがにロジックとしては貧弱すぎるんやない? 勘違いしてもらったら困るけど、別にうちは中から二人がおるのを見たわけやないで? よく晴れとったから、星が見られるんやないかなって思てって外に出ることにしたんや。それで、玄関のドアを開けたら、二人が喫煙所におるのが見えたってだけや」
微笑を崩さぬまま、穏やかに反駁する。当然の余裕だ。
何より彼女にはもう一つ、より堅牢なアリバイがある。