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悪の問題〜あるいはYの悲劇’18〜  作者: 若庭葉
第五章:晦冥を飛ぶ
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狭心症

 白い墓窖(ぼこう)

 唐突にそう思い当たって、男はようやく納得した。


 中井英夫『薔薇の夜を旅するとき』

 轟音と幽かな振動を感じ、石毛幹久はPCの画面から顔を上げた。

「……地震か?」

 一人口に出してみるが、答えが返って来るわけもなく、聞こえるのは激しい雨音や悲鳴のような風の音だけだ。

 軽く頭を振った彼は、目頭を指で押さえた。思うように仕事が進んでいないようだ。その証拠に、卓上には仕事道具だけではなく、ワインのボトルとその中身が注がれたグラスが置かれていた。

 三分の一ほど残っていたそれを飲み干すと、彼はPCの電源を落とし、立ち上がる。そろそろ眠ることにしたらしく、あくびをしながらドアに近い方の壁に近付き、部屋の灯りを消した。

 それにより濃密な闇のベールが引かれ、室内の様子は塗り込められたようにわからなくなった──


 その瞬間を、僕は()()()()()()()()()()()()


 幽体離脱や臨死体験の如く霊魂だけの存在となった僕は、そのまま嵐の夜空へと上昇して行く。降りしきる大粒の雨も、木々を薙ぎ倒さんとする暴風も、何物も僕を阻むことはできない。

 やがて、分厚い暗雲にぶち当るも、やはり何の感覚も得られず、そのまま空気のようにそれを通り抜けた──

 その先で僕を待ち受けていたのは、壁によりかかり煙草を咥える緋村の姿だった。

 それは、昨夜の喫煙所での彼の姿を再生したヴィジョン。あの後──「病める薔薇」の(くだり)があった後で、どんな会話の流れかは忘れてしまったが、彼お得意の薀蓄が飛び出したのだ。

「『何故何もないのではなく、何かがあるのか』って言う問題は、大昔から様々な学者たちを悩ませて来た。中でも、神を『全知全能で完全に善なる存在』だとしたライプニッツは、自身の論と現実との狭間(はざま)にある矛盾に、生涯苦しむこととなる。

 簡単に説明すると、ライプニッツはこの世界が存在するのは、『全知全能で完全に善なる存在』である神が創りたもうたからである、と考えた。しかし、それでは何故、世界には苦痛や悲しみ──すなわち『悪』が溢れているのか? そんな、ある意味当然の疑問に、彼はぶち当たってしまったんだ」

 緋村は煙草で息継ぎをするようにして、ひたすら喋り続ける。他の人も周りにいたはずなのに、彼らがどんな表情をしていたのかさえ思い出せない。

「もしこうした悪を修正できないのであれば、神は全能ではないことになる。また、この世界の状況を予測できなかった──あるいは認知していないのであれば、神は全知ではない。はたまた、わかっていながらわざと修正せずにいるのだとしたら、今度は『完全に善』と言う点が否定されてしまう。

 では、悩みに悩み抜いたライプニッツは、この問題に対してどのような答えを出したのか。曰く、『こんなに酷い世界でも、神にとっては最善の物であるのだろう。そして、悪の存在は善を定めた際に後からくっ付いて来た物であり、神に悪意はない。故に、やはり神は全知全能にして完全に善なる存在である』だってよ」

 皮肉な笑みと共に、紫煙が吐き出される。

 世界に満ち溢れる悪。いつの時代もそう言うのは変わらないんだなと、僕はその時酷くボンヤリとした感想を抱いた。

 あと一年も経たずして終わるこの平成においても、同じだったではないか。

「ライプニッツは、自らが想定した完璧な神と言う前提を崩さない為に、この悪に満ちた世界を受け入れることにした。そして、彼を悩ませたこの問いを──“悪の問題”と呼ぶ」

 そう発したのを最後に、緋村の姿や周囲の背景は揺らぎ、煙を払うように霧散してしまう。しかし、彼が口にしたそのフレーズの残響だけが、何もない闇の中で長く尾を引いた。

 そして、それすらも聞こえなくなった時、僕は果てなき晦冥の中にいた。上も下も右も左もなく、どこまで先があるのか、自分が今上昇しているのか下降しているのかさえ判然としない。

 絶対無限。

 完全調和の世界。

 僕の魂は今、あるべき場所へと還ったのだ。






 ──が、しかし。


 どうしたわけか、漆黒を映し出す意識は、一向に終わる気配がない。

 それどころか、何者も存在し得ないと思っていた虚無の先に、小さな白い点が現れたではないか。

 はて、あれは何なのだろう?

 そう思っていると、僕の意識はカメラのズーム機能さながらに、その点へと近付いて行く。

 ──ほどなくして、その正体に気付いてからも、それは止まらない。


 晦冥の中、最後に浮かび上がったのは、()()()()()()()()だった。


 怪鳥の巨体を目路イッパイに見せ付けられていると、今度は不意に、ある声が降って来る。

 ──実体二元論って知ってるか?

 何故か()()()()()()を思い出したところで──僕は目を覚ました。


 ※


 枕元に置いていたスマートフォンを取り寄せ画面を見ると、時刻は「4:32」を表示していた。一応二時間弱は眠れただろうか。

 おかしな夢を見たせいか、眠り直す気にはなれず、僕はすぐにベッドを出る。

 他の人はどうしているのだろう? 《GIGS》の面々は、あのまま食堂で駄弁っているのか。

 緋村は少しくらい休むことができたのか。

 そして、須和子さんの体調は回復したのか。

 時間が時間だけに部屋を訪問するわけにはいかないが──このまま一人で籠っているのも焦れったい。大して考えがあったわけでもないが、僕は取り敢えず部屋を出ることにした。


 廊下はシンカンとしており、何の音も聞こえなかった。食堂を覗いてみようかと思ったが、ロビーまで来たところで気が変わる。

 喫煙所であれば、誰かしらいるのではないか。そう考え、僕は反対側の廊下へと進んだ。

 すると、そこには灯りが点いており、案の定人がいた──のだが、意外なことに、それは緋村だった。彼は一人、首を折り曲げた姿勢で、力なくソファーにもたれかかっている。

 一服したら部屋に戻ると言っていたはずなのに、そんな様子は少しも見受けられない。喫煙所内の空気は換気が追い付かないのか薄く靄がかっており、灰皿の中で山のように積もった灰からも、相当な本数を喫んだことが窺えた。

 項垂れる彼の姿は一見して死んでいるのかのようで、一瞬ギョッとしたが、ほどなくして、

「……なんだ、結局戻らなかったのか?」

 目を伏せたままそんなことを訊いて来た。

 生きているとわかり安堵すると同時に、意外な質問に少々面喰らう。

「え? ──いや、一応仮眠を取って来たけど……」

「そうか」興味がなさそうに言うと、ようやく顔を上げた彼は、傍らに置いてあった煙草の箱を掴んだ──が、とうに空であったらしく、舌打ちと共に握り潰す。

「まさか、あれからずっとここにいたのか?」

「まあな……。どれくらい経った?」

「たぶん、二時間くらい」

「そんなにか。気付かなかったよ」

 それほど集中して()()()()()()()()()()、と言うことだろうか?

 しかし、いったい何を?

 ──思い付くのは、ただ一つだけだった。

「……もしかして、君はずっと事件のことを考えていたのか? 石毛さんの言っていたことは本当で、ここでの事件の犯人は別にいると?」

 どう言うわけか、緋村は答えない。

 その様子に不穏な物を感じつつも、僕は口を動かし続ける。

「やっぱり、石毛さんは犯人じゃなかったんだな? ──少なくとも、彼は亡霊ではなかったんだ。何故なら、あの時──土砂崩れがあった時、石毛さんは外ではなく()()()()()()()

「……何故そう思う?」

「それは──」逡巡した後、馬鹿にされることを承知の上で、素直に答えることにする。「さっき見た夢の中でそうだったから」

 さすがに意外だったのか、緋村は片眉を上げて「夢?」と聞き返す。

 僕はあの奇妙な夢の内容を説明した。

「ふうん、幽体離脱か。まるでろくろ首だな。──ろくろ首には寝ている間に首が伸びるってタイプの他に、首が抜ける──その名も『抜け首』って言われる種類があるんだ。と言うか、むしろそっちの方が原型らしい」

「いや、そんなこと今は」

「江戸時代に編まれた『曽呂利物語』の中では、抜け首は女の魂が寝ている間に体を抜けた物だとされている。謂わゆる離魂病って奴だな。他にも、鶏や女の首に化ける話なんてのも紹介されていて──」

「緋村」自分でも意外なほど硬い声が響いた。「……どうして誤魔化そうとするんだ? 何か──都合の悪いことでもあるのか?」

「…………」彼は、例により無機的な眼差しをこちらに向けて来る。あの嫌な目──人の価値を勝手に見定めるかのような黒眼(まなこ)を。

 僕はその虚無に呑まれまいと、敢えてまっすぐにそれを見返した。

「君は……真相に辿り着いたんだな?」

「……だったらドウスル?」

「どうもこうも知りたいに決まってるだろ。何より、僕にはその権利がある。事件に巻き込まれた者として、真実を知る権利が。君は今まで散々素人探偵ぶって来たんだ。ここまで来たら、最後まで自分の役を演じきるべきだろう」

「……お前には権利、俺には義務があるってわけか。恐れ入ったよ」

 呆れたような笑みを零した彼は、立ち上がり、手の中のゴミをズボンのポケットに捻じ込んだ。

 かと思うと、一転、いつになく真剣な表情でこちらを見据え、

「覚悟はあるんだな?」

 それが、何の意味もなく放たれた言葉ではないことは、明白であった。わざわざそんな確認をしなければならないほどの真相とは、いったいどのような物なのか。

 言い知れぬ不安は拭えぬものの、俄然興味が湧いたのも事実である。

 だから──迷いはしたものの、僕は最後には頷き返していた。

「……わかった」その呟きは、まるで何かを諦めたかのようだった。

「俺は一応止めたからな。後でどうなっても責任は取らねえぞ?」

「そこまで君に求めたりはしないよ。自分から言い出したことだから」

「……なら、付いて来い」

 そう言うと、彼は僕の真横を通り過ぎ、廊下に出た。

「どこに行くんだ?」

「もう一人、話を聴いてもらいたい人がいるんだ。おそらく……今度こそ全てが終わる」

 そう告げる緋村の声音は、異様なほどの冷淡(つめた)さを帯びていた。

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