ROBOTMAN②
緋村がドアをノックする。
「緋村です。先ほどの話の続きをしたいので、開けても大丈夫でしょうか?」
──しかし、返事はない。
廊下はゾッとするほどの無音で満ちた。
「石毛さん? ……開けさせてもらいますね?」
この時点ですでに予感めいた物があったのか、彼は返答を待たずに鍵を差し込み解錠する。その様子を端から見ていた僕もすぐに言い知れぬ不安を覚えたが、それは隣りの日々瀬にしても同じらしかった。
その感覚は瞬く間に膨れ上がり──ドアが開かれた時には、頂点へと達した。
──客室は大して広くはない。
だからこそ、それはすぐさま目に飛び込んで来た。
椅子に腰掛けた彼の全身は血塗れだった。
いや、一瞬そう見紛ったのだが、それは血ではなく、どうやら赤ワインの汚れであるらしい。勉強机の上にボトルが置かれており、尚且つ彼の足元には割れたグラスが、それこそ血溜まりのような赤紫の中に転がっていた。
力なく垂れ下がった腕や重力に従い垂れた頭は、そこにもう生命が宿っていないことを容易に連想させる。
「ひっ──」日々瀬が、漏れかけた悲鳴を口を抑えて吞み込むのがわかった。
またしても僕たちは、「死の光景」に出逢ってしまったのだ。
「…………」
緋村は無言のまま彼に歩み寄り、脈を取った。──が、予想どおりすでにこと切れているらしく、目を伏せた彼は丁重に遺体の腕を元に戻す。
緋村が殺人犯と目した男──石毛幹久は一人、眠るように死んでいた。
またしても、閉じられた部屋の中で。
「……殺されてるのか? それとも」
「……おそらく自殺だろう。ワインに毒を入れて、自ら呷ったんだ。ほら、弥生さんが見付けたあの瓶がベッドの傍に転がってる。──問題は、どうやって石毛さんがここを抜け出し、毒薬をくすねたかだが……」
この部屋の鍵は緋村が管理していた。今回もまた密室状況と言えるのだ。
酷く平板な声で呟いたきり、彼は黙り込む。例により感情の読み取れない顔をしている──かと思いきや、その横顔には明らかな狼狽の色が浮かんでいた。亡骸を見下ろすその黒眼が、わずかに揺らいでいるように見える。
意外なように思えたが、しかし考えてみれば当然の反応である。もし彼の自殺を予期できていたのならば、一人にはしなかっただろう。
また、彼にその機会を与えてしまったのは、ある意味緋村自身だとも言えるのだ。
──そんなことを、僕は妙に醒めきった思いで考えていた。やはり、短期間で死体を発見し続けた結果、感覚が麻痺しているのかも知れない。
自分自身を冷静に俯瞰していた僕は、そこで視界の端に映ったある物に気付く。
勉強机の上に、電源の点いたノートパソコンが置かれているではないか。
先ほどこの部屋を訪ねた時はなかったのに。
「緋村」僕は無意識のうちに、彼の名を口にした。
振り返った彼に、それを顎で示してみせる。──そこで初めてその存在を認知したらしい緋村は、吸い寄せられるように勉強机に近付き、パソコンの画面を覗き込んだ。
「こ、これは……」四角い光を黒眼に反射させ、彼は呆然と呟く。「どうやら、またしても遺書のようだが……」
遺書。
その単語を聞くのは、ここに来ていったい何度目だろうか。
僕はヨロヨロと彼の後ろに向かい、肩越しにその画面の中を覗き込む。そこには次のような、簡潔なメッセージが遺されていた。
緋村くん。
亡霊はいたよ。
泡の中の世界に取り残された、孤独な魂が。
──亡霊は、いた?
どう言う意味だ? 石毛さんは、何を指してそう表した?
それに「泡の中の世界」と言う言葉は──まるで、あの話じゃないか。
その独特の言い回しを目にし、自然とあることが想起される。
そして、やはり無意識のうちに、僕はそれを口にした。
「実体二元論……」
「なに?」
唐突に発せられた言葉に驚いた為か、緋村はスルドく聞き返して来た。
が、僕がそれに応じるよりも先に、一人で勝手にその意味を理解する。
「……ああ、もしかしてこの『泡の中の世界』って件のことか? 確か、保江邦夫って言う研究者が、物質と非物質の領域を説明するのに、ジョッキに注がれたビールを喩え話として挙げているんだったか。ビールに浮かぶ小っぽけな泡粒が物質世界、その外側が完全調和の非物質世界って風に。──正確には、これは実体二元論その物と言うよりは、かの湯川秀樹によって提唱された素領域理論を発展させた物だろうが……」
納得顏で言った彼は、それから不意に怪訝そうな表情をこちに向け、
「にしても、お前──よく知っていたな」
「……まあね」




