ヘッドフォンチルドレン②
「こ──これは違うんです! 私はただ……」
咄嗟に弁明しようとするも、続けるべき言葉が見付からなかったらしい。しばし唇を震わせただけで、彼女は青褪めた顔を俯けた。
相当狼狽えている様子だが、もしや凶器を調達しているところを目撃され、焦っているのでは?
そう勘繰り、僕は俄かに緊張した──のだが、
「安心してくれていい。日々瀬さんが犯人だと思ったわけではないよ。ドアを開けっ放しにし、部屋の灯りを点けて凶器を物色するような犯人だったら、もっと簡単に事件は解決しているだろう」
相手を落ち着かせる為か、いつになく穏やかな声音で緋村は言った。彼女に敬語を使うのをやめたらしいが、この場合は効果的だったのかも知れない。
オズオズと面を上げた日々瀬は、「信じてくれるんですか?」と尋ねた。
「もちろん」緋村の答えは短く、あまり愛想がいいと言える物ではなかったが、それでも、彼女を安堵させることはできたらしい。
小さく息を吐き出した日々瀬は、ようやく持っていた物を傍らの流しに置く。
「でも、そんな物を持ち出してどうするつもりだったの?」
と、僕は高圧的にならぬよう気を付けつつ、訊いてみる。
「そ、それは……何か、身を守る物がほしくて……先輩方が煙草を吸いに行っているうちに、探しておこうかと……」
「『てんでんこ』ってことかな」
「……聞かれてたんですね」
「若庭がね。──ところで、少し世間話をしてもいいかな? 君は、もしかして岩手県の出身なんじゃないか?」
「そ、そうですけど……あの、それがどうかしたんですか?」
「いや、単に気になったから訊いてみただけだよ。昨日、岩手県のある旅館からDVDが盗まれたって話を、石毛さんがしてくれたんだけど、その時君は俺たちのことを見ていたそうだね。こいつから聞いたんだ」
「それもバレてたんですね……」
彼女は弱々しい苦笑を浮かべる。なんだか告げ口をしてしまったようで、僕はあまり気分がよくなかった。
「認めます。私はお二人の会話が気になって思わず盗み見てしまいました。──でも、それは単に出身地の話題が上がっていたからではないんです」
では、いったい本当の理由は何だったのか。
続いて発せられたのは、予想だにしない言葉だった。
「私は、そのDVDの映像を観たことがあります。記録されていた物のコピーを、ある人に売ってもらって……」
──DVDのコピーを売ってもらった? いったい何故?
そして、誰から?
緋村にとっても意外な展開だったらしく、興味を惹かれた様子で同じ問いを口にする。
「……どうしても知りたかったんです。七年前のあの震災で、自分の出身地がどんな風に被害を受けたのか──津波がどんな風に、私の生まれ育った街を飲み込んだのかを。……あの日、私はたまたま親戚のところに行っていて、被災を免れましたから」
親戚と言うのは大阪にいるらしい。彼女は今、その親戚の家に住まわせてもらっており、そこから大学へ通っているのだ。
「当時、まだ小学校は春休みに入ってなかったんですが、たまたま親戚に不幸があって、急遽家族で大阪へ向かうことになったんです。……震災のことも、向こうの家のテレビで知りました。両親や親戚や──大人たちが、みんなテレビを観ながら呆然としていたのを今でも覚えています。私も驚きましたし、もちろん、とても恐かった……」
──大慌てで地元に引き返した彼女たち家族は、そこで壊滅した街の景色を目の当たりにする。特に海に近い地域の被害は夥しく、二百人近い犠牲者が出たそうだ。
辛うじて家は残ったものの、すぐに元どおりに暮らせるはずもなく、彼女も長期間避難所で過ごすことを余儀なくされたと言う。
「当時は余震に怯えてずっと泣いていました。本当に本当に怖くて……もし自分が本震と同じ規模の地震に遭ったら、ショックだけで死んじゃうんじゃないかって、本気で思ってました。──けど、あれから七年経って、ようやく震災と向き合う決心が付いたんです。今ならもう大丈夫。あの日のことを振り返ることができる、と。……むしろ、平成が終わる前に自分の目でその瞬間を見ておかないと、どんどん過去の出来事になってしまいそうで──もちろん、それ自体は悪いことではないんでしょうが、とにかく克服するなら今だと考えたんです。それで……」
画像や動画を自分で調べるうちに、そう言った物の売り買いをしている人間がいることを知る。
それも、自分の通う大学に。
「私はその人のことを紹介してもらって、実際に会ってみました。その人、私が買った物の他にも、いろいろな写真や動画のデータを持っているみたいで……。実際に自分で被災地に行って撮影したこともあるそうでした。……ただ、私が売ってもらった物に関しては、盗品だとハッキリと言っていましたが。隠すどころか、むしろ誇らしげに」
だからこそ、石毛さんの話が聞こえて来た時、すぐに自分が買った映像のことだと思ったのだそうだ。
「そうだったのか。──君に映像を売ってくれた人って言うのは、誰なんだ? もしかして、俺たちも知っている人なのかな?」
確かにそれは僕も気になった。彼女の言い方からして《GIGS》のメンバーと言うことはないだろうが……。
「口止めされているのなら、無理に答えなくていい。正直、この話が事件と関係あるとは思えないし、ただの興味で訊いているだけだから」
「……いえ、大丈夫です。本人もさほど隠している感じではありませんでしたし、それにもし止められていたとしても、たぶんもう関係ないでしょうから」
何やら意味深長な前置きをした彼女は、さらに意外な事実を告げる。
「彼は、ついこの間亡くなったんです。新今宮駅のホームで、電車に轢かれて……」
その言葉を聞いた瞬間、あの日の駅のホームの喧騒や、ジットリと纏わり付くような暑さ、そして毒々しい夕焼けの朱が鮮明に蘇った。
──あの「若者」だったのか。
僕がその死の瞬間から目を逸らした、あの──
まさかこんなところで繋がって来るだなんて。以前、弥生さんから宇佐見のことを聞いた時と似た感覚を味わう。
世界に仕掛けられた巨大なカラクリ──本来ならば不可知であるはずのそれに、不意に手が触れてしまったかのような……。
「それは……確か写真学科の生徒の?」
「はい。真堂初太さんと言う人です……」
彼らの会話が、やけに遠くから響いて来る。まるで僕一人水の中に沈んでおり、外の音を聞いているかのように。
「真堂さんは学科では有名だったみたいですね。すごく歳上なんだろうなとは思っていましたが、湯本さんの話を聞いて少し納得しました」
「浪人と留年を繰り返していたって奴か」
「何の為にそんなことをしていたんでしょうね? そう言った不思議なところもあってか、正直、あまり印象はよくなかったです。なんだか得体の知れない雰囲気を醸していて……しかも、それを向こうも自覚しているようで……」
──特にあの目が厭だったと、日々瀬が述懐するのが聞こえた。
「被災地の写真や映像を蒐集しているのも、ほとんど面白半分だったんじゃないかと思います。言葉が悪いですけど、そう言った物を集めている自分に酔っていると言うか……。中には遺体や泣き崩れる遺族が写っている物もあったのに……」
ジャーナリズムとはほど遠い、悪質な行為だ。
そして、震災直後、真堂のような輩が被災地まで出張って来ていたのは事実であるらしい。これも昨日石毛さんが語っていたことだが、非常識な野次馬と被災者との間でトラブルに発展しかけるようなこともあったのだとか。──そんなことが、泡を口から吐き出すかの如く、次々に浮かび消える。
「そう言えば、真堂さんは今『撮ってはいけない写真』を撮ろうとしていると、笑いながら言っていました。もし撮影できたら、君にも見せてあげようか、とも。──もちろん、私は断りましたが」
撮ってはいけない写真、か。いったい、それは何を被写体にした物なのだろう? ──謎を餌にして釣り上げられるように、僕の意識は水面から顔を出した。
「ふうん、何を撮ろうとしていたんだろうな。結局、彼にはもう二度と撮影できなくなってしまったわけだが」
無味乾燥な声で呟いた彼は、思い出したように話題を転じる。
「ところで、もう一つだけ気になることを聞いたんだけど、畔上の部屋を出て行く時、君は窓の外に何かを見たのか? ──いや、これもこいつが言っていたんだけど、部屋を出る間際、窓の方を見ていた君が、何かに怯えている様子だったって」
「あ、そんなところまで見られていたんですね」
「ストーカーみてえな奴だろ? 殺人犯より、こっちに気を付けた方がいいかもな」
おい。
「と言うことは、若庭さんは犯人ではないんですね? だったら安心です」
彼女は小さく笑う。完全にリラックスできている様子で何よりだ。
殺人の容疑だけでなく、ストーカーに関しても否定してほしかったけど。
「あれは、窓の外を見ていたんじゃないんです。窓に映った石毛さんの顔を見て、少し驚いてしまって……。──あの時、石毛さんはものすごく怖い表情をしていましたから」
「怖い表情? それは……どんな風だった? 説明できるならでいいから、もう少し具体的に教えてほしい」
「は、はい。うまく言えるかわかりませんが──何かに怒っていると言うよりは、驚いているみたいでした。こんな言い方は失礼すぎますけど……まるで、虚を衝かれるあまり本当の貌が表に出て来てしまったかのような……。って、やっぱり失礼ですね」
誤魔化すように苦笑していたが、なかなかわかりやすい喩えだと思った。そう感じたのは、彼が殺人犯であることを知っているから──だけではないのだろう。
それよりもずっと早い段階で、その片鱗を垣間見ていたのだ。
僕は、外の喫煙所から戻る途中で振り向いた時に見てしまった彼の姿を思い出す。
煙の向こうからこちらを見送る、黒い黒眼。そして、闇の中に浮かぶ仮面のような白い顔を。
あの時抱いた恐怖は、やはり間違いではなかった。
そう確信すると同時に、何かまた違った引っかかりが脳裏を掠める。うまく言い表せないが──忘れてはいけないことを忘れてしまっているかのような……。
しかし、いくら考えても思い出せない。酷くもどかしく感じながらも、忘れてしまったことは仕方ないと、違和感は思考の片隅に措いておくことにする。
「ありがとう、イメージしやすかったよ。──それにしても、石毛さんは何に反応したんだろうな。あの時あったことと言えば……」
「畔上の携帯電話が消えていることが発覚したな」と、思い付くまま口にする。
「しかし、そんなことで『本当の貌』が現出するとは思えない」
「あ、あの、もしかしてスケッチブックの絵が原因だったんじゃないですか? ほら、畔上くんが見た『亡霊』を描いた絵です」
「それだ」指でも鳴らしそうな勢いだった。「そもそも畔上が殺されたのは、その『亡霊』とやらを見てしまった──つまり、犯人にとって都合の悪い何かを目撃してしまった為だと考えられる。であれば、あの絵に描かれていたのは、他ならぬ石毛さん自身だったのかも知れない」
「えっ? そ、それじゃあ緋村さんは、犯人は石毛さんだと考えているんですか?」
「ああ。──ちなみに、凶器はこの注射器だ」
彼はこともなげに言い、注射器と遺書をしまったビニール袋を掲げてみせる。
「はあ……」と反応に困っている様子の彼女に、緋村はかなり掻い摘んでことのあらましを話した。すなわち、ある偶然の重なりから石毛さんが犯人だと考え、そのことを本人にぶつけてみると、飛田での事件に関しては認めてもらえたと言った風に。
これを聴いた日々瀬は無論驚いていたが、同時に話を呑み込めていない様子であった。突然ロジックをすっ飛ばして真相を聞かされたのだから──そのロジックも突飛な物だったが──、当然の反応である。
彼女は控えめに疑義を呈する。