街の底①
「ち──違う……私はただ、順さんの望みを……順さんの……」
「本当ですか? 実際は彼のことを、ただのスケープゴートとしか見ていなかったのではありませんか? ──それどころか、いいタイミングで死んでくれたと思っていたのでは?」
「違う!」
それまでの静けさもあってか、その怒声は実際以上に大きく室内に響いた。僕は思わず身を竦めたが、緋村は全く動じていない。
醒めきった黒眼で、呼吸を整える彼の姿を眺めていた。
ほどなくして、緋村は無味乾燥な口調で話を再開する。
「……無論、宇佐見を追跡し職場を突き止めたのはあなたで、その後実際に犯行に及んだのは順一さんだと言う風に考えることもできます。飛田の付近で合流し、そこで遺品や凶器を引き渡したと言うケースですね。しかし、これはこれで少しおかしい。──つまり、もし仮に順一さんが復讐を切望したとしても、あなたがそれを止めたはずです。宇佐見が地元に戻って来ていることがわかったわけですから、無理にあんな場所で犯行に及ばずに、計画を練ってから後日決行するのがベターでしょう」
それが道理と言う物だろう。あの奇妙な事件は、犯人が一人だったからこそ──偶然に突き動かされ、尚且つそれを制止する者が傍にいなかったからこそ、起こり得た物だったのだ。
言ってみれば、彼もまた意識の支配から解き放たれ──無意識のままに獲物を追ったのである。
「いずれにせよ、何度も言われているように、物的証拠はありません。ですから、今なら幾らでも言い逃れできるでしょうね」
唐突にいいかげんなことを言って片頬を歪めた──かと思うと、「ただ……」と低く呟く。
それに続く言葉を怖れるかのように、石毛さんは怯えた眼差しで彼を見返した。
緋村は淡々と紡ぐ。
「どうやら、弥生さんはあなたが犯人だと気付いているようですが」
それを聞いたノンフィクション作家は絶句した。全く予想だにしない言葉だったのだろう。
「それだけではありません。彼女はおそらく、あなたのことを庇っています。錫宮さんの遺品に関して『自宅で保管している』とわざと曖昧な言い回しをしたのも、順一さんが飛田の犯人だと信じ込んでいるような言動を見せたのも、全てその為でしょう。──それどころか、後者に関してはむしろ積極的に彼を犯人に仕立て上げようとしている節がある。でなければ、さすがに単なるアルバイトに家族の遺書──だと思っているはずの物──を、読ませはしないでしょうから。あれは、おそらく遺書を僕たちに見せることで、あわよくば順一さんの犯行であると言うイメージを補強する目的があったのだと思います」
彼は本当はダメ元で遺書を見せてほしいと頼んだらしい。意外とスンナリ許可が下りて驚いたと、煙草を吹かしながら飄然と言っていた。
「無論、遺書などを捨てずに取っておいた──つまり石毛さんに相談する気でいた以上、初めは本当に順一さんが犯人ではないかと疑っていたようですが……」
緋村が語る間、彼は血の出そうなほど唇を噛み締めていた。まるで、自らの内側で巻き起こる感情の嵐に吹き飛ばされぬよう、必死に堪えるかのように。
「いずれにせよ、山風の謝罪文を読んだ弥生さんは、相当葛藤していたようでした。当然でしょう。山風から贖罪の機会を永遠に奪ったのは、他ならぬ犯人なのですから」
おそらくそのとおりだったのだろう。
──こんな、人の想いや尊厳を踏み躙るようなこと……どんな理由があろうと、していいはずがない。
彼女の言葉や、流れ落ちた透明な涙が偽りの物とは、到底思えなかった。
やがて、石毛さんは乾いた細い声で、
「これ以上、二人に迷惑をかけるわけにはいかんか……」
静かにそう零した。
再び緋村を見据えた瞳は、意外にも穏やかな色を湛えていた。淀みとは違う、鏡のように風の凪いだ水面を思わせる。
「もっと抵抗できそうな気もしますが……そないなこと聞かされてもうたら無理ですわ。──白状しますよ。宇佐見を殺したのは私です。緋村くんのお話にあったように、錫宮くんの力を借りて殺しました」
「……認めていただけてよかったです。正直なところ、そこまで自信があったわけではなかったので」
「あれだけ容赦なく追い詰めておいて、よう言いますね。食えへん人や」
至って穏やかに苦笑し、石毛さんは一つ溜め息を吐く。
「ところで、どうしても訊いておきたいことがあるんですけど、ええですか?」
「どうぞ。僕も答え合わせがしたいと思っていたところです」
「ありがとうございます。──先ほどのお話やと、注射針に着いた血が遺書に移っとったことから、犯行後その二つは近くにあった、と言うことでしたが……はて、おかしいな。私は注射器と遺書は別々にしまっていたはずなんですがね。
あの時、犯行に使わない荷物やお土産なんかは、いったん駅のロッカーに預けたんですよ。ですから、錫宮くんの遺書もその中にしまっておいたわけです。──ずっと反論したくてウズウズしとったんですが、それを言ったら自白するのと同じでしょう? せやから、なんとかグッと堪えとったんです」
一気に緊張の糸が切れたのか、まるで世間話でもするような口調である。
彼が口にした疑問に関しても、僕は事前に解説を受けていた。
「そうだろうと思いました。あれはただの出任せですから。──注射器の方の血は、確かに宇佐見の物でしょう。しかし、遺書の方は、実は別の人の血だったようです」
「別の人の? ──それは、いったい誰の」
「弥生さんです。あれは、彼女の人差し指の血が付着した物だったんですよ」
「ああ……」呻くような声が漏れる。
僕は反射的に、弥生さんの指先に巻かれた血の滲んだ絆創膏を思い出す。
弥生さんは針仕事をしていて左手の人差し指に怪我をした、と言っていた。針を刺してできた傷だった為に、ちょうど注射針の先に残った物と同じような量の出血になったのだろう。
「そないな偶然から足が着くとは。我ながらツイてへんな。──しかし、と言うことは、弥生ちゃんは怪我をした後で、錫宮くんの遺書に触れたってことですよね?」
「そうなりますね。その時彼女が何をしたのかは明白です。遺書の中身を確認した上で、封筒を糊付けしたんです」
だからこそ、ベロの裏側なんて言う本来指が触れそうもない位置に、血が付いたのだ。
「何故そんなことをしたのか──は、言わずともわかりますね? あなたを庇う為です。犯人の服装が錫宮さんの物と同じと言うことに気付いた弥生さんは、同時に彼の遺品を持ち帰った石毛さんこそが、真犯人ではないかと疑ったのでしょう。そして、もし遺書も遺品の一つだったとしたら、やはりそれらを持ち帰ることができたのも石毛さんだけ──つまり、そこからあなたの犯行であることが露呈してしまうかも可能性を、危惧したのです。となれば、まっさきに彼女がしなくてはならなかったのは、遺書の中身の確認でした。一目見てそれが誰の物かわかるような内容なのかを、確かめる必要があった」
「しかし、心配していたようなもんやなかった。だから、そのまま封をしたってことですね?」
「ええ。──それどころか、順一さんの遺書としてもそのまま通用しそうな物でした。そこでベロに糊付けをし、まだ誰も開封していないように見せかけた上で、僕たちに中身を見せたんです。
そして、それはある意味石毛さんも同じだったのではありませんか? あなたも封筒の中身が《バブルランド》の入場券であることは確認済みだったんだ。だからこそ、遺書を処分しようとはせずに、手を触れて、自らの指紋が付く機会を作るだけに留めた……」
弥生さんが初めて遺書や注射器を取り出した時、僕たちはそれが糊付けされているかどうかを確かめていなかった。彼女以外で封筒を手に取ったのは石毛さんだけであり、そもそもその時はそんなことなど少しも気にかけていなかったのだ。
──そう言えば、封筒に付いた血痕を緋村が発見した際、弥生さんは何かを言いかけて口を噤んでいたか。あれはきっと、その血が自分の物だと気付いたが、黙っていた方が順一さんに疑いの目を向けやすくなると考えた為だろう。
実際、僕はまんまと騙された。
「そうですそうです。向こうで錫宮くんの師匠から受け取った後、私はすぐに中身を確かめました。と言っても、それが入場券であるであろうことは、事前に順さんから聞いた話から、予想できてはおったんですが」
「では、やはり入場券その物は、順一さんが錫宮さんに渡した物だったんですね?」
「ええ。錫宮くんにお願いされて、手許に残しとった物をあげたそうです。それからずっと遺書として大事に取っておいたわけですから……きっと、錫宮くんはいつでもキヨカちゃんの元に行けるよう、準備をしとったんでしょう。自ら命を絶つかどうかは別として」
もし本当にそうであれば、二人の魂が無事再会できたことを祈るばかりだ。
ただ完全調和の世界に帰するなどと言う、無機的な物ではなく。