ポストワールド①
「そもそも腹上死って言うのは状態を指す言葉であって、死因自体はほぼ心筋梗塞──つまり、虚血性心不全だ。激しい運動によって急激な負荷がかかると、心臓は酸素を欲して早鐘を打つ。それで、必要なだけの酸素が運ばれて来るんだったら何の問題もないんだが、血管が狭くなっている──謂わゆる動脈硬化って奴だな──と、そうはいかない。スムーズに血が流れず、満足に酸素を得られなかった心筋は酸欠状態に陥り、壊死しちまうわけだ。
で、ここからが興味深いところなんだが、どうやら、腹上死と言っても、その最中にポックリ死んじまうわけじゃないらしい。発作が起こるのは、だいたいコトを終えた直後か、その二、三時間後──多くは眠っている間だそうだ。人間の体ってのはよくできていて、一番の疲労のピークには、どうにか持ち堪えるようになってんだと。──で、それを過ぎて緊張の糸が切れると、生きようと言う気力が抜けちまって、一気に症状が現れる。ほら、マラソンランナーなんかが、ゴール前やゴールしてからぶっ倒れちまうのと同じさ。
それに関してもう一つ、面白い逸話が載っていてな。『忠臣蔵』で知られるかの大石内蔵助は、情報を伝えに走って来た飛脚を労うんじゃなく、『しっかりしろ』って叱咤したらしい。つまり、気が緩んで死んじまわねえよう、喝を入れ直してたってわけだ。昔の人も、気が緩むんだ時が一番危ねぇってわかってたんだろうな。
それから、心臓発作に関しては、ある借金取のケースが──」
「ちょっと待った。もうわかったから。要は、それだけ君がその本を気に入ったってことだろ」
話が長くなる予感がしたので──いや、すでに鉤括弧に収めるには長すぎる──、僕は慌てて止めた。普段はむつりとしていることの方が多いクセに、自分の知識を披瀝する時ばかり饒舌になるのだから困る。
「ずいぶん乱暴にまとめるな。まあ、間違っちゃいねえけど」まだ話し足りないと言いたげな顔をしていたが、先ほどに比べ幾分か機嫌がよくなったように見えた。
「ところで、例の超大作とやらはどうなってんだ? 在学中に書き上げて、華々しくデビューする予定なんだろ? ──完成の目処は立ったのかよ」
「まあ、ね。至って順調だよ」
嘘だ。本当はまだ、一マスも埋まっていない。
すると、目敏く僕の心中を察したのか、緋村は意地悪そうに目を細めた。
「そいつは結構。──ネタに困ってんだったら、実際の事件でも題材にしたらどうだ? 例えば、アレとかな」
「アレ?」
僕は首を曲げ、彼が顎で指した先に目を向けた。
緋村が言っているのは、どうやら中年客の読んでいる新聞の記事──「飛田殺人事件、未だ犯人の足取り掴めず」と言う見出しのことらしい。「飛田殺人事件」とはその名のとおり、三日前に飛田の料亭街で起きた、とある殺人事件のことだ。被害者は現場となった店で働いていた女性で、勤務中に毒殺された。
「ああ、あの事件か……。確かに、魅力的ではあるかな。──何せ、実際に起きた密室殺人だし」
「密室? お前、まだそんなことで喜んでんのか?」
「だって、実際そうじゃないか。犯人は、逃げ道のないはずの現場から、忽然と姿を消してしまったんだ。ありふれたくだらない事件とは、わけが違うよ」
僕は力説したが、緋村は醒めた顔付きで煙を吐くだけだった。自分から話を振ったクセに。
「きっと、犯人は何かトリックを弄したんだと思うんだけど……」
しかし、それがどんな物なのかがわからない。独白しつつ、僕は今一度事件に思いを巡らせた。