おめえだよ②
「とにかく、石毛さんを突き動かしたのは、こうした奇跡的な偶然の重なりだった。つまり、あの時たまたま凶器と変装道具が犯人の手元に揃っていた──殺人の準備が整っていた──からこそ、あの事件は起きたんです」
謂わばそこにもまた、「できる」から「する」と言うロジックが潜在していたわけだ。だからこそ、計画性があるのかないのかよくわからないチグハグな犯行に見えたのである。
「……あの日、十六時前に順一さんが取った電話は、電車を寝過ごした旨を伝える物ではなく、本当はこの奇跡的な邂逅の報告だったんですね? ──何故そう考えるのかと言うと、順一さんの部屋で話を聴いた際、あなたがこのエピソードに全く触れていなかったからです。石毛さんは、実は知らなかったんじゃないですか? 自分が寝坊したと、順一さんが弥生さんに伝えていたことを」
「寝坊……?」
「ええ。電話を取った順一さんは、あなたが電車を寝過ごした為、天王寺まで迎えに行くと、弥生さんに話したそうです。──やはり知らなかったんですね? と言うことは、あれは順一さんが咄嗟に吐いた嘘だったんだ。ニアミスの報せを受けた彼は、石毛さんが電車を寝過ごしたことにして、あなたの元へ向かう口実にしたんです。もちろん、その時点で石毛さん──が追っている宇佐見──の行き先はわからなかったでしょうから、実際には直接天王寺を目指したのではなく、一度K駅に寄ったのでしょうが……」
緋村は相手の反応を窺うように、そこで言葉を切った。「順さんが……」とだけ呟いた石毛さんは、虚空の一点へと視線を注ぐ。
彼がそこに、故人の姿を幻視したかどうかは定かではない。
──やがて、彼は何かを悟ったように固く目を瞑った。
「……言いたいことはそれだけですか? 長々と喋っていましたが、結局のところ証拠はないんでしょう? 正直に言って、これ以上君の妄想に付き合うのは、体力的にも気力的にもしんどいんですがね」
「……確かに、今はまだ証拠がありません。しかし、必ず出て来るはずなんです。──この遺書から、あなたの指紋が」
石毛さんは、静かに瞼を開く。
「何を言い出すかと思えば。──もしかして、忘れてはるんですか? 弥生ちゃんが写真と一緒に、遺書や注射器を出して来た時、私が遺書を手に取ったことを。たとえ私の指紋が出て来たとしても、それはきっとその時に付いた物でしょう。私が犯人やって言う証拠には、ならないんやないかな」
「仰るとおり──と、言いたいのは山々ですが、生憎そうはいきません。確かに、指紋が付いていること自体は何ら不思議ではない。むしろ、それを狙ってあなたはわざと遺品を手に取ったのでしょう。──しかし本当に重要なのは、指紋が付いた順番です」
「──なに?」
「注射器や瓶はともかく、遺書──つまり紙に付いた指紋は消えにくい。そして、その順番は絶対に変えられない。もし順一さんの指紋の下からもあなたの指紋が検出されれば、それはすなわち、あなたの方が先に遺書を手にしていた──弥生さんの部屋で見せられた時よりもずっと前、誰よりも早く手を触れる機会があったことになります。
これに加え、錫宮さんの指紋が出て来ればもう決定的だ。先ほども言ったとおり、遺書と注射器が犯行後近くにあったと見られることから、犯人は『その時点で錫宮さんの遺書を入手できた人物』と言うことになります。そして、それはごくごく限られている」
「何や、結局仮定のお話ですか。詳しく調べたわけでもないのに」
「ですから、この遺書や注射器は警察に提出するつもりです。そうすれば、僕の考えが真実か否かは自ずとわかる」
叩き落とすような口調に、石毛さんは鼻白んだ様子で唇を結んだ。
「……それとも、やはり順一さんに罪をなすり付けるつもりなのですか? もしそうなら、その目論見は破綻していますよ」
「どう言う」
「確かに、一見して順一さんにも犯行は可能なように思えます。弥生さん曰く、ここから飛田までは車を飛ばせば四十分ほどで着くそうです。十六時前にここを出発したのだから、順一さんも犯行時刻に間に合うことになる。──が、実際は違った。順一さんに宇佐見を殺すことは、実は不可能なんです」
緋村はまっすぐに、相手の虚無を覗き込む。
「先ほど石毛さんは錫宮さんの遺品を犯行に使える人間なんて幾らでもいると仰りましたが、あれはあなたが持ち帰るまで日本にはなかったのだから、実際には石毛さん自身か、石毛さんからそれらを受け取った可能性のある順一さん、あるいは弥生さんの三人だけだ。──そして、目撃証言から、女性である弥生さんは除外されます」
仮に彼女が男装していたのだとしても──そんなことが可能とも思えないが──、飛田の呼子ならばすぐに見抜いてしまうだろう。遊廓だからこそ、「犯人は男である」と言う目撃証言の信憑性は高いと言える。
「ここからが重要な点です。──宇佐見が地元に帰って来ており、さらに飛田で働いていることを、みなさんは知らなかった。もし事前にそこまで調べ上げていたのであれば、あんな場所で殺しはしないでしょうからね。つまり、何度も言うように犯行は計画的な物ではなく、犯人はあの日たまたま彼女を見かけ、その後を追ったと考えるべきだ。──以上のことから、犯人はお二人のうち、『あの日彼女を尾行できた方』だと言えるわけです。
もし電話の内容が事実で、ここを出た順一さんが石毛さんを迎えに行く途中、たまたま宇佐見を見かけたのだとしても、彼にはそれができなかった。何故なら、あの日はPL花火があった影響で、駅周辺の駐車場は埋まり、さらに路肩に停車することもできないほど混雑していたからです。つまり、長い間車を停めておける場所がなく、車を降りることができなかった。宇佐見は当然電車に乗って通勤していたはずから、これでは彼女の後は追えません」
緋村は早い段階で、順一さんは犯人ではないと考えていたらしい。真実を見極めたと言うよりも、単に捻くれた性格の為せる所業のように思えたが、とにかくその仮説を推し進めて来た結果、こうして彼と対峙するに至ったのだ。
「無論、僕が今話したのは、『遺書は錫宮さんの遺品』であり、尚且つ『注射器は石毛さんが用意した物だった』言う仮定の上に成り立った推論です。そのいずれかが否定されれば一気に瓦解してしまう。──が、とにかく、一度警察に調べてもらう必要があることは、確かでしょう」
「……そないな話、彼らがまともに取り合うと思いますか? 単なる妄言と一蹴されるんがオチやと思いますがね」
「そうかも知れません。……しかし、注射器に付いた血痕や錫宮さんの生前の服装には、彼らも興味を惹かれるはずです。──それに、あのことも」
「……まだ、何か?」
「そもそも、僕が石毛さんを疑い始めたキッカケは、順一さんの『死の修正』を持ちかけたのが、石毛さんだと知ったことでした。これが逆であれば、異常な行為ではあるものの、心情としては理解できます。しかし、石毛さんが提案する場合は、全く状況が変わって来る。家族を失ったばかりの幼馴染に、その遺体の損壊を唆すなど──たとえ自分なりに故人の想いを尊重した結果だとしても──、まともな心理じゃない。もしかしたら、本当は違う理由があって『死の修正』を持ちかけたのではないか? であれば、それはいったい何だったのか? ──そんな風に考えた時、僕には一つしかその動機が思い付きませんでした」
ある意味、そこが推理の出発点になったのだと、緋村は喫煙所で語っていた。言われてみれば、確かに常軌を逸した発想だろう。むしろ、あの時は何故スンナリと受け入れることができたのか、今となっては不思議なほどだ。
そして、その「死の修正」とは対照的に、彼の辿り着いた答えは酷く常識的な物だった。
「結論から言えば、それは──順一さんに罪を着せる為です。順一さんの死を自殺に偽装することで得られるメリットは、それしか考えられません。彼には動機があり、犯行に用いられた注射器と毒薬は、彼の部屋から発見されています。その上写真の裏にあんなメッセージを遺して自殺したとなれば、疑いの目が向くのはある意味必定。事実、弥生さんがそうでしたから。……そして、裏を返せば、罪を着せる必要のある人物こそが、真犯人であると言うことになる」
これまでの飛躍した推測に比べ、至ってシンプルなロジックだった。
だからこそ、堅牢だと言えよう。
彼の虚無に、崩壊の兆しが見えた。