おめえだよ①
「ええっと……すみません、ちょっと話が見えないんですが」
豊かな髪を掻きつつ、彼は困惑を面にした。
「私が三人を殺したと仰ったように聞こえましたが、要するにこの事件の犯人やと言う意味ですか? ──そんなアホな」呆れた様子で腕を広げてみせる。「そもそも、『三人』と言うのがおかしいやないですか。緋村くんが推理したとおり、順さんの死因は病死やったんですから」
「そうですね。少し言葉足らずでした。──僕が言った『三人』とは、畔上と山風、そして宇佐見愛里紗のことです」
つまり、緋村は、彼が飛田密室殺人の犯人だと睨んだのだ。
そして、今回ここで起きた事件も、その延長線上にあると考えているらしい。
「い──やいや、余計意味がわかりませんよ。何をどう考えたら、そないな結論に至るんでしょう? 確かに、宇佐見はキヨカちゃんを自殺に追い込んだ虐めの主犯格でしたが、かと言って、私にとって殺したいほど憎い相手でもありません。さっきは『彼女たちを裁く動機がある』とか仰いましたけど、まさか。そこまで過剰な正義感は持ち合わせてませんよ」
「確かに、平時はそうなのかも知れません。しかし、あの日──八月一日のあの時だけは、違ったんだ」
「どう言うことです? できれば、ちゃんとわかるように言ってもらいたいですね。──それに、今回の事件も私の仕業だと仰るのなら、畔上くんはどうなるんでしょう? 彼は五年前の虐めには関係ないどころか、キヨカちゃんとは全く繋がりがないんですよ?」
「畔上はただの巻き添えです。おそらく、犯人にとって不都合な物を目にしてしまった、もしくは行動を取ってしまったが為に、側杖を食ったのでしょう」
「つまり、彼の見た亡霊とやらの正体は、私やった、と? ──アホらしい。そんなん、ただの妄想やないですか。よう自信タップリに言いきれますね」
ある意味感心だとばかりに苦虫を噛み潰す。
対して、素人探偵は一ミリも動じず、
「もちろん、確信していますので」
「ほう、と言うことは何か証拠があるんや。凶器から私の指紋でも出て来たとか?」
「……いえ。正直なところ、現段階では物的証拠は得られていません」
臆面もなく放たれた言葉に、石毛さんは大袈裟に仰け反ってみせた。
「それやのに、私が犯人やと確信している、と? 緋村くんは神通力でも持ってはるんですか?」
「いえ、この事件を解くのにそんな物は必要ありません。ただ少し、想像を捏ね回せばいいだけです」
「捏ね回すって、陶芸家やあるまいし」と言う軽口は受け流し、彼は開戦の合図のように姿勢を変える。
「まずは、これを見てもらうのが手っ取り早いでしょう」
寄越された視線に応じ、僕は後ろ手に持っていたビニール袋を彼に渡す。
緋村が最初に取り出したのは、注射器だ。
「針の先が赤黒く汚れているのがわかりますか? これはおそらく人の血です。──つまり、この注射器はすでに一度使われているわけです」
「ははあ、要するにそれが凶器やと言うつもりなんですね? 犯人が宇佐見を毒殺するんに用いた注射器や、と。──根拠薄弱どころの話やないな。それに、もし仮にそうやったとしても、その注射器は順さんが用意していた物なんでしょう? 自然な考え方をするのなら、それを使うて宇佐見を殺したんは、順さんやと言うことになるのでは? ──無論、あの人のことを疑いたくはありませんが」
「しかし、その前提が違っていたら話は別です。注射器も遺書も、あの時点ではまだ順一さんの手元にはなかったんだ」
その言葉に、ほんのわずかながら彼の表情が強張った。
「ここが重要なポイントです。この遺書や注射器──そしてついでにあの便に入った毒薬も──は、それぞれ別の人物が用意した物でした。そう、それは他ならぬ石毛さん、あなたと、もう一人──錫宮さんです。実は、ここにある遺書も、彼の遺品の一つだったんです」
この部屋へ来る前に緋村の推理を聴いた時、ある意味犯人の正体以上に、驚かされた部分だった。僕は完全に、全て順一さんの物だと思い込んでいたものだから、俄かには信じられなかったのだ。
「弥生さんから伺った話では、確か錫宮さんは自殺未遂をしたことがあったそうですね。結果的に彼は死にきれなかったわけですが、それでも生への絶望は付き纏っていたのでしょう。錫宮さんは遺書を処分せず、手元に置いていたんです」
事故で急逝する日まで。
「ほう、これまた意外な展開ですね。いったい何を根拠にそないな突飛なことを仰るんです?」
「根拠と呼べるかどうかはわかりませんが──そうでなければ、事件は起こらなかったとだけ言っておきましょう」
苦笑したまま、石毛さんはわずかに眉皺を寄せた。昏い瞳の奥では、相手の真意を測りかねている様子だ。
「ひとまず話を進めます。──今度はこの遺書を見てください。封筒のベロの裏側にも、小さな赤いシミがあります。そして、これもどうやら人間の血液らしい……。それでは、何故遺書にそんな物が付着しているのか。簡単なことです。先ほど見ていただいた針の血が、そこに移ったと考えればいい。──つまり、その二つは犯行直後──まだ血が乾いてすらいない時点で──、ごく近くにあったわけです」
「……それで? たとえその話が本当やとして、どうなるんです? 私が犯人やって言う話には、いつ繋がるんやろ」
「心配せずとも、すぐそこまで来ています。──犯行に用いられた凶器と錫宮さんの遺書は、すぐ傍にあった。と言うことは、当然犯人は、あの日遺書を持っていた人間に限られる。であるならば、それが誰なのかを考えればいい」
「ふむ、いったい誰なんでしょうね。妄想やったらナンボでも考えられますが」
その言葉を聞いた瞬間、反射的に緋村の口角が吊り上がった。おそらく、彼はその時確信したのだ。自らの描き出した「妙な画」が、間違っていないことを。
「何がおかしいんです?」
「いえ。ただ、今の発言を聞いて、少しは自信を持つことができました。──石毛さんは『ナンボでも考えられる』と仰いましたが、その発言は弥生さんから伺った話と矛盾します。弥生さんの話では、錫宮さんの遺品は彼女たちの家で保管している、とのことでした。この場合、普通であればまっさきに順一さんを疑うはずです。にもかかわらず、あなたはそんなこと思いも寄らない、と言った風だった。──つまり、弥生さんの発言を予想できなかったわけだ」
石毛さんは何か言いたそうに口を開きかけたが、彼はそれをさせない。
「では何故予想できなかったのか。それは、錫宮さんの遺品はすべて、犯行のあった日の前日に、あなたがフランスから日本に持ち帰った物だったからではないですか? だからこそ、弥生さんの家で保管していると言うイメージを持っておらず、先ほどの発言が出た」
言い放った緋村の視線は、真っ向から相手の姿を見据えている。その黒眼に映った彼の顔が、俄かに青褪めた。
学生は容赦なく畳みかける。
「弥生さんは、あの日あなたが『たくさんお土産を持って来てくれた』と仰っていました。そのお土産の中には、フランスの知人が預かっていた錫宮さんの遺品も含まれていたんですね? ……そして、だからこそあなたは凶行に及んだのでしょう」
「……それこそ妄想や」
「さらに言えば、あの日、あなたは本当は遅刻なんかしていなかった。それどころか、待ち合わせの時間よりも早く、K駅まで来ていたんじゃないですか? ……そして、その際、ある種奇跡のような出来事が起きました。あなたは、偶然にも出勤中の宇佐見を見かけてしまったんです。それも、よりによって錫宮さんの遺品──変装に使える衣類──と、それとはまた別に、順一さんに渡す為に用意していた注射器と毒薬──すなわち凶器となる物を持っている時に」
確かに、それは「奇跡」に違いあるまい。自分が遺品を引き取った人間の仇が、偶然目の前を通り過ぎて行ったのだから。
宇佐見と言う苗字から、非常に安易ではあるが、僕は『不思議の国のアリス』を連想せずにはいられなかった。
「順さんに渡す為に、私が注射器と毒を用意した? ──いったい、どうしてそないなことせなあかんのです? 意味がわからんな」
「そこに関してはまた後で話します。
とにかく、宇佐見の姿を見たあなたは、さぞかし驚いたことでしょう。何せ、彼女が東京から地元に帰って来ていたことは、みなさんも知らなかったそうですね。──と、同時に、許しがたい者を誅殺するまたとない好機だと気付いたあなたは、彼女を尾行したんです」
その結果彼が辿り着いたのは、目を覚ましたばかりの遊郭街だった。「迎春」の提灯に迎えられ、異世界へと迷い込んだのだ。
『虚無への供物』風に表すのなら、ワンダランド。
失楽のワンダランドだ。
「あの事件の報道を目にした時、まっさきに疑問に感じたのは、『そもそも何故あんな場所で殺人が起きたのか』と言う点でした。いったいどう言った経緯を辿れば、風俗店の店内で殺人を犯すに至ったのか……。無論、これが衝動的な犯行なのであれば、まだ理解できます。が、しかし、それでは犯人が毒薬を犯行に用い、さらに変装までしていたことと矛盾してしまう。
であれば、犯行は計画的な物だったのか? ──もしそうだとすれば、やはりあんな目立ちやすく人目に付きやすい場所を犯行場所に選ぶとは思えない。出退勤の時を狙ったり自宅を特定して一人でいる時に押し込んだりと、他に幾らでも方法があるでしょう。
この疑問への最適解を思い付いたのは、先ほど錫宮さんの写真を見せていただいて、彼の服装が犯人の物と全く同じだと気付いた時でした。──単純なことです。偶然犯行に必要な道具──凶器と変装用の服──が手元に揃っていた時に、衝動的に犯行に及んだと考えれば、矛盾は解消する」
犯人からすれば、錫宮さんの霊魂がその身に乗り移ったかのような気持ちだったのかも知れない。一種の入神状態と言ってもいいだろう。
神霊一体となった彼は供物を求め、職場へと向かう兎を追跡したのだ。
「ちなみに、犯人はマスクをしていたようですが、それもたまたまその日着けていた物だったんじゃないですか? 確か、石毛さんは無精髭を放ったらかしにしていることがままあると仰っていましたよね? ──フランスから帰国した翌日で初めて外出したあなたは、髭を剃るのを面倒臭がったんだ。だから、取り敢えずマスクを着けて隠していた。いますよね、そう言う人。──まあ、こんなことは些細な点です。コンビニで買えばいいだけですし」
緋村が話す間、ノンフィクション作家は虚ろな双眸でその姿を見返した。彼の顔に今や表情はなく、完全なる虚無だけがのっぺりと張り付いている。
不気味なほど静かな面持ちに、僕は何やら空恐ろしさを覚えた。