夢①
遅れじとアリスも飛び込んで、あとでどうやって出てこられるかは考えもしなかった。
ルイス・キャロル(柳瀬尚紀訳)『不思議の国のアリス』
轟音と幽かな振動を感じ、ベッドに横たわっていた山風未来は目を開いた。
──今のは、地震?
天井を眺めたまま耳を澄ませるも、激しい雨音や悲鳴のような風の音以外には、何も聞こえて来ない。何にせよ、ようやく寝付けたと思ったのにこれかと、舌打ちしたくなった。
例の写真のせいだろうか、彼女は床に就いた後もなかなか眠れずに輾転反側としていたのだ。そして、そうしているうちに、いつの間にか彼女は短い夢を見ていた。
──よく覚えてはいないが、それはとても恐ろしい夢だったように思う。確か、その中で自分は激しく糾弾され、挙句もがき苦しみながら、誰にも救われることなく死んだのだったか……。
おかしな夢だと考えつつ、寝返りを打つ。
カーテンを閉じた窓の向こうで、青白い雷光が瞬いた。
──きっと、あの娘の写真を見てもうたせいや。だから、あんな怖い夢を見たに違いない。そう決め付けながら、再び瞼を閉じたものの、すぐには眠れそうになかった。
──あの娘が死んでから、もう五年も経つのに……やっと忘れられたと思っとったのに……私は何をそんなに怖れているんやろう?
誰かの報復?
宇佐見が殺されたから?
まさか。悪いのはあんな噂を流した宇佐見と、それを間に受けて死んだキヨカ自身ではないか──自分が怯える必要なんて、どこにもないはずだ。
それに、飛田の事件だって五年前のことと関係があると決まったわけではない。ただ、頭のおかしい奴が狂った欲望を満たす為に殺人を犯した可能性だって、十分考えられるだろう。
──そう、私が気に病むことなんて、何もないんやから。とにかく、さっさと眠ってしまおう。自らに言い聞かせ、無心になるように努めた。
どれくらいの間そうしていただろうか。定かではないが、気が付けば萎みかけていた眠気が蘇って来ていた。
まるで浜辺の砂が波に浚われるかのように、少しずつ意識が薄らいで行く感覚。死ぬ時もこんな風なのだろうかと、よくわからない疑問がふと浮かんだ。少なくとも、夢の中で体験した「死」は、ここまで安らかではなかったと思う。
緩やかな波に揺られながら、彼女の意識はやがて暗い水底に引き込まれていた。
そして、完全に眠りに落ちる間際、頭に浮かんだのは、大輪の白い薔薇を背に微笑む、キヨカの姿。
──あの写真を綺麗だと感じたのは、確かに本心だったのだろう。
そんなことを考えたかと思う間もなく、彼女の意識は今度こそ暗転し、昏い夢寐の底へと沈み込んで行った。
※
「いったいどう言う意味かしら? これだけ自殺を裏付ける証拠に溢れているのに、何をどう考えたらそんな結論に至るわけ?」
全く理解できないとばかりに眉根を寄せ、木原さんが尋ねる。
正直なところ、僕も彼と同意見だった。山風の自殺には納得できないものの、この状況を覆せるとは思えない。
しかし、どうしたわけか緋村は確信を得ている様子であり、まっすぐに相手を見返す。
「本当にそうでしょうか? むしろ、僕には逆のように思えます。──先ほど調べてわかったことは、全て山風さんの自殺を否定する材料でしかない」
「……やけに断定的な言い方やな。何故そう思うんか、説明してくれへんか?」
「ええ」佐古さんの言葉に、緋村は余裕タップリに頷く。「まず、僕がまっさきに違和感を覚えたのはこれです。見てください、床が濡れていますね。──無論、これは山風が失禁した為です」
「ああ、そうみたいやな。──で? 首を吊って死んだら、漏らしてまうもんやないのか? よう知らんけど」
確かに、そう言った話はよく聞くし、何ら不自然な状況とは思えないが……。
「確かに、意識を失う際の痙攣によって失禁が見られる場合もあるようです。──が、しかし、女性が覚悟の上で自殺する場合は、話が変わって来ます」
それから、緋村は「いいですか?」とばかりに一同を見回した。まるで黒板の前に立つ教師のような立ち居振る舞いであり、実際そこから先の話は講義に似たところがあった。
「女性が自殺を図る際、必ず事前にしていることが、二つあります。一つは化粧。そしてもう一つが、用を足しておくことです。つまり、女性の自殺者は男性と違い、死後が発見された時のことを考えて準備をする、と言うわけですね。実際、ある高名な法医学者も、たとえ自殺としか思えない状況でも、女性の死体がノーメイクであれば、他殺の可能性を疑うべきだと言っています」
その言葉に、弥生さんから聞いたキヨカさんの話を思い出す。彼女と綺麗に化粧をし、あの白いワンピースを着て亡くなっていたそうだ、と。
「また、江戸時代の人が自殺する場合、男性は首吊りがほとんどだったのに対し、女性は井戸に飛び込むことが多かったそうですが、これも死後流れ出る体液を水に浸かることで誤魔化す為だったのではないか、と言う説もあるそうで……。
若干話が脇道に逸れましたが、何にせよ、彼女が自らの意思で命を絶ったとしたら、事前に用を足していないのは明らかにおかしい。もし仮に失禁が見られたとしても、それはごく少量であるはずです。──特に、山風さんの場合、化粧はちゃんとしている上に、トイレはすぐそこ」死体の背後を指差す。「まっさきに目に付く場所にあるんですよ? それなのに、何故その発想に至らなかったのでしょうか? 腑に落ちないを通り越して、あり得ないことだと思いませんか?」
言われてみれば、少しどころではなく異常なこと思えて来た。遺書を用意し化粧を直しておきながら、その点に気が回らないことなど、あり得るだろうか? 緋村の言うとおり、手洗いはすぐ目に付く場所にあるのだから、見落としようがないし、自殺だとすれば詰めが甘すぎるのでは?
僕は改めて彼女の死に疑問を抱き始めていた──が、ほとんどの者は、今の話だけでは納得していない様子である。
「なるほど、興味深い講義ね。──でも、自殺を否定する根拠としては少し弱いんじゃない? 緋村くんが言ったのは、あくまでも『一般的な状況に当て嵌まらない』って話でしょ? 言いたいことはわかったけど、正直それだけじゃ納得できないわよ。──ねぇ」
「……せやな。専門的な観点からしたら変なんかも知れんが、その程度のこと、俺は大した矛盾とは思えへんわ。他に何か理由はないんか? もしもないんやったら──」
「もう一つあります」緋村は彼の言葉を遮る。