透明少女②
「ありがとー! ホンマ助かったわ! 持つべきモノは物わかりのいい後輩やね」と、屈託のない笑顔で一人頷いた彼女は、そこで僕の手に持っている物に目を向け、「それ、買うん? やったら、先輩がいっちょ奢ったるわ」
──まさか、百円の古本で埋め合わせをするつもりなのか?
呆れはしたものの、まあ断る理由もないので、遠慮なく奢ってもらうことにする。
「ほお、『匣の中の失楽』か。君も好きやなぁ」そう言うあなただって、ミステリ好きではないか。「そう言えば、もう一人の当てって、例の彼なん? 確か、おもろい友達がおるんやろ?」
図星だ。元々友達の少ない僕には、今から誘っても予定が空いていそうな知り合いなんて、「例の彼」くらいしか思い付かない。
ただし、「おもろい」かどうかは保証しかねる上、正直友人と呼べるほどの仲とも言い難いが。
「ええ、まあ」と答えると、須和子さんはやや意地悪そうな笑みを湛え、
「頭ええんやってなぁ、その子。二人でコンビ組んで、事件の調査とかすんのやろ? ワトソンくん」
「しませんよ。あいつにホームズは役者不足です。確かに、多少頭の回転は速いみたいですけど……そもそも本当に頭いい奴が、うちの大学に通ってると思います?」
「うわ、失礼な奴やなぁ。──まあでも、言えてるわ」
彼女は、ヘヴィースモーカーらしからぬ白い歯を零した。
それから、須和子さんと僕は店内に入り、伴ってレジへと向かう。大袈裟に「ありがとうございます」と「どういたしまして」を交換した後、彼女はボディバッグからやけに年季の入った革財布を取り出し、会計を済ませようとした。
──が、しかし。
「あれ? なんやこれ」
須和子さんは、長い睫毛に縁取られた瞳を見開いた。何事かと横から覗き込んでみると、彼女の細い指が、会計の為に出した硬貨を摘み上げる。
それは、十円玉よりもひと回りほど小さい、銅色のコイン──五セントユーロ硬貨だった。
「いつの間に入っとったんやろ……」
つまり、普通に十円玉のつもりで財布から取り出したところ、何故かそれは五セントユーロだったと言うことらしい。
僕たちは暫時顔を見合わせた。
これは、実にささやかではあるが立派な「謎」である。まさか、ボルヘスの『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』ではないが、何か別世界の存在が知らず知らずのうちに流入し、こちらの世界を少しずつ書き換えようとしているかのような──
などと、もちろん、真剣に考えていたわけではない。
しかし、どこからともなく紛れ込んだ異国の硬貨は、何かしら特別な意味を持って出現したかのように思えてならなかった……。
※
須和子さんと別れた後、僕はこれまた行き着けの喫茶店──《喫茶&バー えんとつそうじ》に来ていた。ウィリアム・ブレイクの詩から名前を取った店の中には、やはり彼の銅版画や挿絵のレプリカが多数飾られており、流れているBGMも『エルサレム』のアレンジが、幽かな音量でループしている。
やけに日当たりの悪い店内は普段どおり空いていた。僕が入った時には、客はカウンター席で新聞と睨めっこしているオジサンと、一番奥の四人がけを陣取っている大学生の、二人だけだった。
僕が用があったのは、無論学生の方である。
彼の真向かいの席に腰下ろした僕は、挨拶もそこそこに、先ほどの須和子さんとのやり取りを伝える。
「──と、言うわけで、八月二十六日から二十九日にかけて、三泊四日の合宿に参加することになったから。どうせ予定なんてないだろうけど、空けておいてくれよ──って、痛っ」
単行本で頭を叩かれ、僕はやや大袈裟に声を上げた。向かいの席に目をやると、彼は持っていた物を横の席に置きつつ、ウンザリしたように紫煙を吐き出す。
「何が『と言うわけで』だ。行くわけねえだろ、入部ってもないサークルの合宿なんて。しかも、ご丁寧に働き口まで紹介してくれるってか。──自分の親切に、人を巻き込むんじゃねえよ」
皮肉屋で口が悪い──達者でもあるが──彼は、無駄に歯切れのいい口調で批難して来た。憮然とした表情で煙草を喫むこの男──緋村奈生こそが「例の彼」であり、僕の選んだ道連れだった。
緋村は僕と同じ阪南芸術大学の二回生で、芸術企画学科と言う、イマイチ何をしているのかよくわからない学科に所属していた。魚の腹のように生っ白い肌をしており、店内が暗ぼったいせいで、顔や首が不気味に浮かび上がって見える。反対に、やや長めのコワそうな髪や、洗濯に失敗したのかクタクタのシャツは、まるで陰に溶け込もうとするかのようにか黒かった。
「だいたい、いつの間にバンドサークルなんかに入ったんだ? 小説家になるのを諦めて、ロックスターでも目指すのか? ──やめとけ。似合わねえし、あと七年しか生きられなくなるぞ」
片頬を引き攣らせ、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
もっとも、阪芸生らしく、目の奥は死んだままだが。
顔貌自体は割と端正な、女好きのしそうな部類なのだが、この黒く濁った黒眼と、ご覧のとおりの愉快な性格が、全てを台無しにしていた。
──こいつは本当に口が悪い。が、彼の言うことももっともか。
それでも須和子さんと約束してしまった──そして『匣の中の失楽』を奢ってもらった手前、やすやすと引き下がるわけにはいかない。
「でも、君だって暇なんだろ? いいじゃないか。金もあまりかからないし、むしろ稼ぎにもなるんだから。──少なくとも、昼間っから喫茶店で無為に時間を過ごすよりはマシだと思うけど」
「何言ってんだ。冷房の効いた店の中で読書するなんて、これ以上ないくらい有意義な夏の過ごし方だろ」
「そんなこと言うならせめて図書館にでも行けよ。──それで? 今は何を読んでるんだ?」
押してダメなら引いてみろ式で、一旦別の話題を振ってみることにした。まあ、純粋に気になったのもあるが。
「これか。上野正彦だ」
そう言って、緋村がテーブルに置いて示した表紙には、著者名や肩書きと共に、『監察医が触れた 温かい死体と冷たい死体』と言うタイトルが踊っていた。上野正彦──死体鑑定の権威として知られる法医学者だ。多数の著書があり、中でも『死体は語る』は特に有名か。僕も、そちらは高校の時に読んだことかある。
「へえ、おもしろそうだな。君の学科は、読書感想文の宿題でも出てるのか?」
「くだらねえこと言うなよ。──まあ、実際面白いけどな。特に、腹上死に関する件は」