デッドマンズ・ギャラクシー・デイズ①
「それにしても……少し遅いですね、山風さん」
緋村は灰を落としつつ、苛立たしげに壁にかかった時計を見上げた。いつの間にか零時を回っている。
「そう? 化粧しとるんやったら、こんなもんやない?」
彼女が廊下に消えてから、まだ十五分ほどしか経過していない。
「かも知れませんが……」全く納得していない様子である。まあ、彼女が何らかの形で犯行に関わっているのは確かな以上、ヤキモキする気持ちはわかるが。
「まあ、もうちょっと待ってみようや。──それより一つ訊きたいんやけど、結局のところ、緋村くんは誰が怪しいと考えとるの? 真犯人の目星は付いとるんかな?」
「いえ、そこまではまだ。あれだけ喋っといてなんですが、今までの話も単なる推測ですから。──少し、気になる人物はいますが……今はまだ話さないでおこうと思います」
それが誰なのかまでは、ここで明かすつもりはないらしい。突然の店じまいには少なからず面食らったが──さっきまで、あんなに饒舌だったのに──、須和子さんもそれ以上尋ねようとはしなかった為、僕も黙っていることにした。
しばし、秒針の音が聞こえて来るほどの「無風」状態が訪れる。
──ややあって、彼がスッカリ短くなった煙草を揉み消すまでは。
「……だめだな、やっぱり待ってるだけじゃ落ち着かねえ。──少し、山風の様子を見て来ます」
「えっ? でも、ミクちゃんがおるのって女湯の脱衣所やけど……」
「……そうでしたね。危うくこっちが犯罪者になるところでした。すみませんが、矢来さん、少し行って来てもらえませんか?」
「ええよー。て言うか、なんならみんなで行こうや。二人はドアの外で待っとったらええんやし」
それもそうか。そうでなくとも今が非常事態なのは間違いない。単独行動を取らせるのは危険だろう。
もっとも、他の人間はすでにバラバラになってしまっているが……。
こうしたわけで、僕たちは三人で女湯に向かった。ちなみに男湯と女湯は細い廊下を挟んで向かい合っているが、ドアの位置は互い違いになっており、男湯の方が喫煙所に近い。
ドアの前に立った須和子さんはノックしつつ、「ミクちゃん? おるやろー?」と声をかけた。が、返事はない──どころか、衣擦れの音一つ聞こえて来ない。
閉ざされた扉の向こう側は、恐ろしいほど森閑としている。
──まさか、逃げられてしまったとか?
「えっとぉ……入るで?」
訝ると言うよりもむしろ不安げな表情を浮かべながら、彼女はドアを押し開けた。旅館やホテルなどがそうであるように、開けてすぐが短い通路になっていることで、脱衣所内の様子は戸口からでは見えない。
角の向こうに消えて行ったパーカーの背中を、僕と緋村は細い廊下から見送った。
──その直後。
閉じたばかりのドアの中から悲鳴が上がり、静寂を切り裂いた!
暫時顔を見合わせた僕たちは、すぐさま弾き出され、体当たりをするようにドアに駆け寄った。
「矢来さん、どうかしましたか⁉︎ ──入りますね?」
言いつつ、彼はすでにノブを捻っていた。もどかしげにそれを開くのに続き、僕たちは中に入った。この時点で、すでに須和子さんが何度も彼女の名前を呼ぶ声が聞こえていた。
短い通路の角を曲がり、脱衣所へ足を踏み入れる。
──瞬間、飛び込んで来たのは、今日一日だけですでに二度も目にした、「死の光景」だった。
向かって左手に見えるドアに持たれかかるようにして、彼女は死んでいた。その青白い喉には、輪になった細いベルトが蛇のように纏わり付いており、華奢な体をドアノブに吊るしている。
四肢を投げ出して座り込む格好は、操り手に捨てられたマリオネットを思わせた。
「ミクちゃん……」
彼女の体にむしゃぶり付いた須和子さんは、もうそれ以上その名を言葉にすることはなかった。
──脱衣所の中、山風未来は一人で首を括っていた。彼女の顔には激しい苦悶の表情が刻み付けられており、涙や涎によって滲んだ化粧と歪んだまま固まった口や、歯の間から覗く舌べらも相俟って、まるでピエロが首を吊っているかのようだ。
また、スカートから伸びた素裸足や両の腕の所々には、擦り傷や打撲痕が見られ、そこだけを切り取れば、誰かと争ったようにも思われた。
もっとも、この考察はすぐに否定されることとなるのだが……。
「矢来さん、離れてください」
硬質な声音で言い、緋村が二人の方へ歩み寄る。その際、床が濡れていることに気付き一瞬足を止めた──山風は失禁していた──が、極僅かに眉をひそめるただけで、すぐにまた歩き出す。
須和子さんが体をどけると、山風の傍らに膝を突いた彼は、その左手を取り脈を確かめた。
が、何も言わずに、骨のように白い腕を丁重に床へと戻す。やはり、彼女はすでにこと切れているようだ。
どこかでこうなる予感があったのか、それともすでに感覚が麻痺しているのか、僕は意外なほど冷静に、その死を受け入れていた。だからこそ、喫驚するよりも先に、ある問題について考えずにはいられなかった。
──すなわち、山風の死は他殺なのか自殺なのかと言うことだ。
「おい、どないしたんや! 今の悲鳴は──」
正直なところ、その怒鳴り声を聞いた時の方がよっぽど驚いた。
振り返ると、いつの間にか通路の中に佐古さんが立っていた。血相を変えた彼の後ろには、木原さんや石毛さんに湯本、そして日々瀬の姿も。みな須和子さんの声を聞いて駆け付けたのだろう。誰もが驚愕に目を剥き、それに釘付けとなっている。
「山風、なんやな……?」
わかりきったことを尋ねたのは、混乱の為か、それとも壮絶な死に顔故に、そこから見ただけでは瞬時に誰なのかわからなかったのか。
「し、死んどるんか?」
「はい」その問いかけに、立ち上がった緋村が答える。
続いて何かを探すように、彼は周囲を見回した。
と思うと、その視線はある場所に止まる。それは荷物や着替えを入れる籠がしまわれた棚であり、その中の一つに、山風が携えていたトートバッグと、三つ折りにされたルーズリーフらしき物が置かれていた。
緋村は躊躇うことなくそれを手に取り、広げた。そして、しばし目を通しただけで、こちらに近付き、他の者にも見えるように紙を差し出した。
しゃがみ込んだままの須和子さんが、大義そうに緋村の方を振り仰ぐ。
そこに認められていたのは、意外な内容だった。
畔上くんを殺したのは私です。
動機に関しては言いたくありません。ただ、どうしても彼に死んでもらう必要があったのです。
私は二人もの人間を殺してしまいました。
これ以上罪を負って生きて行くことは耐え難く、自らの命に幕を引くことに致します。
さようなら。
山風未来
「これは……遺書みたいやな。じゃあ、やっぱり犯人は」
「ミクちゃんだったのね」
部長の言葉を継ぐように、副部長が呟いた。その声に驚きの色は少しもなく、むしろ自説が証明されたことの誇らしさすら感じられたのは、気のせいではあるまい。
「文面どおりに受け取ればそう言うことになりますね。──しかし、一つ気になる点が。震えた手で書いたのでしょうか、やけに汚い字で書かれているような気がします」
緋村の言うとおりだった。「遺書」に綴られた文字は、蚯蚓がのたくったように崩れており、正直かなり読み辛い。
「これではまるで、わざと筆跡を誤魔化しているみたいだ。──どうですか、みなさん。普段から、彼女の字は汚かったのでしょうか?」
「いや、さすがにここまでやなかった気がするけど……正直なところ、よく知らんから何とも……」
腕組みをした湯本が首を捻る。
すると、その後ろから控えめな声が上がった。
「あ、あの、私にも見せてください」
男性陣が体をずらした横を通り、前に出て来た日々瀬は、受け取った遺書に目を落とす。
「このルーズリーフ、さっき私が山風さんにあげた物です! 山風さんに、紙か何か持っていたら、何枚かほしいって頼まれて……。でも、いつもはもっと丁寧に字を書くのに、どうしたんでしょう……?」
「感情が昂ぶってうまく書けなかったんやないですか? いずれにせよ、自殺であることは間違いないと思いますが……」
石毛さんは気まずげに呟いた──が、ある声がそれに待ったをかける。
「そう決め付けるのは、早計でしょう。せめて、一度周囲を探索してみませんか?」
緋村の提案により、彼らは手分けして、脱衣所や浴場、そして外の廊下などを見て回った。「彼ら」と言ったのは、その間僕は須和子に付き添って戸口の傍で待っていたからだ。
続け様に後輩を失った為か、消沈しきった様子の彼女は、やがて小さな声で「ごめんな」と呟いた。
「うちが合宿に誘ったせいで、こんなことに巻き込んじゃって……」
「別に、須和子さんが気にすることじゃないですよ。悪いのは、全て犯人なんですから」
僕が慌ててフォローすると、彼女は「せやね」と、弱々しい笑みを浮かべる。もっと気の利いたことは言えないものかと自己嫌悪に駆られているうちに、探索隊が戻って来た。