スモーキン・ビリー②
「すみません、お騒がせしてしまったみたいで。何事かと思ったでしょう」
ノンフィクション作家は気恥ずかしげに、強そうな髪の毛を掻き回す。その様子に、僕は完全に毒気を抜かれてしまった──と言うか、呆れてしまった。
結論から言えば、彼はコッソリ煙草を吸う為だけに、わざわざ外の喫煙所に出て、外灯の電源を切ったとのことだった。
「初めは本当に仮眠を取るつもりやったんですけどね。どうにも落ち着かなくなってしまって。取り敢えず一服しようかなと」
「それにしても、どうして人目を気にしていたんですか? と言うか、昨日は一度も吸われていなかった気がしますが」
「実は、この間弥生ちゃんに言われてしまったばかりなんですよ。『何もペナルティがないから、禁煙が続かへんのやない?』って。それで、つい私も『今度こそ禁煙したるわ。もしできひんかったら、二人になんでも奢ったる。ビリケンさんに誓ってもええ』って宣言してしてしまって……。ですから、灯りが点かんようにして、母屋に背中を向けて吸えば、煙草の火でバレることもないやろう、と」
「でしたら、先ほど──死体が発見される前にプラグを抜いたのも、石毛さんだったんですか? 若庭たちがここで話している時、ライトが点かなくなっていたそうですが」
「ええ、それも私の仕業です。夕食の後に一服していたんですが、ウッカリ戻すのを忘れていたみたいですね」
まさか、全く手がかりでも何でもなかったとは。それにしても、隠れて煙草を吸っていただなんて、まるで中途半端に粋がっている中高生のようだ。
あと、幸福の神に禁煙を誓われても……。
「あの、できればこのことは弥生ちゃんには……」
「もちろん、秘密にしておきます。──では、僕たちは中に戻りますね」
いやに簡素な答え方をしたかと思うと、緋村はすぐさま踵を返し、歩き出してしまった。少々戸惑いつつも、僕と須和子さんはその後を追う。
途中、ふと気になって背後──喫煙所の方を、さりげなく振り返ってみた。
すると、石毛さんはまだ僕たちを見送っていた。暗がりを背に佇立するその姿は、遠ざかるにつれ周囲の闇に溶け込んで行くかのようで、青白い顔ばかりがそこに残る。
幽かに立ち昇る一穂の煙。その向こう側からこちらを見据える黒い黒眼に気付いた時、僕は咄嗟に顔を前に向けた。何か、恐ろしい秘密の片鱗を覗いてしまったかのようで……。
──まさか、彼が畔上を殺した犯人なのだろうか? そして、その事実に気付いたからこそ、緋村はすぐに引き返すことにしたのでは? そんな考えが、どうしても頭をもたげる。
無論、根拠はない。その上密室の謎だって、まだ解決への足がかりすら見えていないのだ。
砂利を踏み締めつつ、僕は自らの考えを必死に振り払おうとした──が、意外なほどそれは難しく、霧がかったような気分のまま、気付けば裏口の前に立っていた。
そして須和子さんに続いて中に入る間際、ある物が目に入る。
それは母屋の角から飛び出した、何かの持ち手だった。一瞬何かと思ったが、すぐに正体に気付く。
昨日、薪割りの時に使った手押し車だ。
僕はその時、何故か幽かな違和感を覚えたのだが、いつまでもそこにいるのが怖ろしく──こうしている間にも、あの白い顔がすぐ背後に迫っていそうで──、僕は逃げるようにドアを閉めた。
※
母屋に戻ると、比較的足の汚れが少なかった緋村が男湯の脱衣所からタオルと軽くお湯を入れた桶を持って来てくれ、僕たちはそれで足を拭いてから中に上がった。
その二つを片付けた後、再び浴場の傍の喫煙所に戻り、緋村はスパスパと煙草を吸い始める。むつりとした表情で何事か思案に耽っているらしい。
声をかけていいものか迷っているうちに、廊下の方から誰かが近付いて来るのがわかった。
気になってそちらを向くと、ちょうどロビー側の角から、意外な人物が現れる。
「……あのぉ、須和子さん」
か細い声でそう呼びかけたのは、なんと山風だった。
「ミクちゃん! ──よかった、だいぶ落ち着いたみたいやね」
「はい、お陰様で……」
彼女は小さくはにかみながら答える。確かに、先ほど食堂を出て行った時と比べ、幾分か晴れやかな表情をしていた。
もっとも、目は赤く腫れており、化粧も崩れたままだったが。
「二人に話を聴いてもらって、だいぶスッキリしました。ありがとうございます」
「ならよかったわ。ルナちゃんも心配しとったから、後で声かけてあげや」
「はい」素直に頷いた山風は、続いて「うーん」と大きく伸びをした。
それから、少々気恥ずかしげにはにかみ、
「あ、すみません。実は昨日あまり寝付けなかったので、余計疲れちゃってて……」
「そうなん? 確かに、心なしか隈ができとる気がするけど」
そんな二人のやり取りを、緋村は相変わらず無感動に眺めていた。かと思うと、彼は忖度や斟酌と言った言葉など知らないかの如く──つまり、全く空気を読むことなく、硬い声で呼びかける。
「山風さん。少し訊きたいことがあります。いいですね?」
名指しされた彼女は、怯えたように小さく体を震わせた。
「は、はい……。ただ、その前に一度顔を洗って来てもいいですか? あと、少しだけお化粧も直したいので……」
彼女の肩には、化粧道具やタオルなんかが入っているらしい、小ぶりのトートバッグがかけられていた。
「……わかりました。では、戻って来るまでここで待っていることにします」
逃げ道を塞ぐような言い方である。
会釈した山風は身を翻し、すぐに廊下の方へ消えて行った。
それを見送ってから、僕はいったい何を訊くつもりなのかと、緋村に尋ねた。
「決まってんだろ、彼女がどうこの事件と関わっているのか確かめるのさ。──もっとも、俺の考えでは確実に犯行の片棒を担がされているはずだがな」
まずそう答えると、今度は須和子さんに向き直り、
「ちょうどいいので、山風さんが戻って来るまでの間に、さっき言いかけた俺の意見を説明しましょう。と言っても、すでに他の人が話していたことを捕捉するにすぎませんが」
彼はまだ吸えそうな長さの煙草を揉み消すと、すぐさま新しい物を取り出して口に咥えた。いつ見ても健康に悪そうな吸い方だ。