サニー①
日々瀬がそれを受け取り、恐々と開いたページを、僕たちは一緒になって覗き込む。
初めの何ページかは、授業で描いたと思しきイラストやデッサン、または暇潰しの落書きと思しき物──とは言えさすがにうまい──が、しばし続いた。
「──あっ、これって矢来先輩ですよね」
確かに、そこに描かれているのは須和子さんのようだった。ライブ中の様子なのかそれとも練習なのかは不明だが、体でリズムを取りながらギターを弾いている姿を模写した物らしい。
それはいいのだが、一つ気になることが。
「でも、髪が長いですね」
そう、僕が知る限り須和子さんはずっとショートヘアーのはずなのだが、畔上のスケッチでは背中に着くくらい髪が長くなっていた。
「ああ、それはウィッグや。Mike the Headlessのライブの時、たまに着けんねん」
そんなことだったのか。ウィッグ自体イメージになかったので意外である。
「ん? でも、なんでうちの絵なんて描いてたんやろ?」
本当に不思議そうな表情であった。全く好意に気付かれていない辺り、やはり畔上がリードしていたと言う事実はないらしい。
わざと彼女の疑問には触れないことにしたのか、日々瀬は「あ、まだ何か描いてあるみたいですよ」と、ページを捲る。
そして、彼が生前最後に描いたと思しきその絵こそが、緋村が「気になる」と言った物なのだと、一目で理解した。
──それは、思わず目を見張ってしまうほど異様な絵だった。枯れ木のように細い体と四肢を持つ何かが、それまでのスケッチとはかけ離れた荒々しいタッチで描かれているのだ。大きく体を傾かせたその何かは、どうやら豪雨の中を彷徨っているらしい。打ち付ける雨粒に必死に耐えるように首を垂れている。
そして、力なく地面に向けられた右手の先には、なんと人の生首を握っているではないか。
間違いない──これは、畔上が目撃した「亡霊」を描いた物なのだ。
絵から伝わる迫力のあまり、僕は二の句が継げずにいた。まるで寺院の壁に描かれた幽霊画と目が合ってしまったかのように。
「不気味な絵ですねぇ……もしかして、さきほど言ってはった『亡霊』って、このことなんですか?」
「そのようです。──いったい、畔上くんは何を目にしたんでしょう。みなさんは、どう思いますか」
かなりザックリとした問いを無感動に投げかけて来る。僕たちの反応を観察するつもりなのだろうか。
「ちょっと、ええですか?」
石毛さんは日々瀬の手からスケッチブックを受け取り、しげしげとそのページを見つめた。
「幽霊なんてモノが実在するとは思えない──少なくとも私は信じてません──ですし、やっぱり誰か生きた人間なんでしょうが……しかし、この生首は……まるで『サロメ』やな」
「人の頭──あっ、もしかして」
ミステリ好きの一回生には、何か思い付いたらしい。
「これって、マネキンの頭なんじゃないですか? だとしたら、先輩たちが目にした『女性の左手』も、本当はマネキンの腕だったのかも」
「なるほど、もしそうであれば女性でなくとも、若庭たちを手招くことができますね。──と言うことですが、実際に目にした二人はどうですか? 例の手が偽物だった可能性は?」
あり得ない──と、僕は言下に答えた。須和子さんも同意見のようで、一緒に頷いてくれる。間違いなく、あれは本物の人間の手──亡霊か否かはともかくとしても──だった。
「そう、ですか。やっぱりダメですね、実際に見てもないのに迂闊なことばかり言って」
彼女は照れ隠しのように苦笑する。先ほどの足跡云々の発言をまだ気にしているようだ。
「そんなことはないですよ。むしろ参考になりますから、気になったことはドンドン言ってもらいたい。もちろん、他の人たちもお願いします」
人のことを気遣う優しさを彼が持ち合わせていたことに、少々驚いてしまった──と言ったら、さすがに失礼か。……いや、しかし、僕が見立て説を持ち出した時と、随分態度が違うような。
「──わかりました。そこまで言うのなら、私もできる限り協力させてもらいますよ」
観念したように言いながら、石毛さんはスケッチブックのページを閉じ、緋村に返した。
──それから、床の上に広げていた物を鞄に戻した彼は、その後ベースケースや机の引き出し、そしてクローゼットなどを次々と調べて行ったが、大した収穫は得られなかったようだ。
「……ねえな」
口許を隠すように手を当てがった彼は、一言そんな風に呟いた。初めは手がかりがないことをボヤいている──のかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「……畔上の携帯が見当たらない」
訝るようなその声は、何故だか僕たちを酷く困惑させた。
「ホンマにどこにもなかったん? もしかして、遺体が身に付けとるってことは」
「そっちにもありませんでした。鍵を探す時に服は一通り調べましたから。それに、現場や別棟内にも落ちていなかったはずです」
「じゃあ、いったいどこに──アゼちゃんって、携帯持って来とったやんな?」
「はい。昨日の飲み会の時に、この間のライブの時の写真を見せてもらいましたから」と、日々瀬が首肯する。
「しかし、そうなると……犯人が持ち去ったってことですか?」
緋村の表情を横から窺うようにして、石毛さんが尋ねた。
「そう考えることもできますね。もちろん、事件とは全く関係なく、単に畔上くんがどこかに落としてしまったと言う可能性も、あるにはありますが……」
確かに、今の段階では犯人の仕業だと断ずることはできないだろう。が、しかし、事件と無関係とは思えない。これと言って根拠はない為口にはしなかったが、やはり何かの意味のある出来事なのではないか、と僕は考えていた。
──結局、畔上の部屋の調査での一番の収穫は、携帯電話の消失が判明したことだった。緋村もこれ以上は何も発見できないと判断したのか、ほどなく僕たちは引き上げることになる。
すると、部屋を出る直前、僕はある異変に気付いた。
踵を返し、戸口へと向かいかけた時──ちょうど進行方向に佇んでいた日々瀬の姿が目に入ったのだ。部屋の奥の方に視線を向けていた彼女は──まるで何かに怯えるかのように、元から白い顔をさらに蒼白くさせ、凍り付いているではないか。
いったい、彼女は何を見てそんな反応をしたのか──僕は、すぐさまその目線の向かう先を振り返る。
しかし、そこにはただ夜を映す窓があるばかりだ。
畔上が「亡霊」を見たと言う、あの窓が。
「なんだ? どうかしたのか?」
部屋の中側にいた緋村と石毛さんが、訝るようにこちらを見ていた。
「……いや、別に──なんでもない」
もごもごと答えた僕は、改めて体の向きを変える。そして、目だけで日々瀬の様子を窺ったが、彼女はやはり青い顔をしたまま、視線を足元に這わせていた。
──ここは二階だ。それなのに、彼女は窓を見て怯えていた。まさか、あの黒く塗り込められた窓ガラスの外に、何か恐ろしい物でも浮かんでいたとでも言うのか……?
例の「亡霊」のスケッチと言い、消えた畔上の携帯と言い──そして、この日々瀬の怯えた表情と言い、どうしたわけか、捜査すればするほど謎が増殖して行くではないか。それこそ、緋村が口にした「無限後退」に嵌り、抜け出せなくなってしまったかのように。




