MANGA SICK①
「あの現場の状況は、謂わゆる見立てって奴だったんじゃないかな」
「見立て? いったい何の」
「『不思議の国のアリス』。あの薔薇や斧、そしてぶち撒けられていた赤いペンキは、全て『不思議の国のアリス』のあるシーンの見立だったんだ」
「あるシーン──ああ、もしかして、庭師たちが白薔薇の花を赤く塗っているところか?」
「そう」僕は頷く。
それは、第八章“女王陛下のクロッケー”の冒頭部分だ。庭園を訪れたアリスは、大きな薔薇の木と、その花を必死に赤く塗る、三人の庭師たちを発見する。赤い薔薇と間違えて白薔薇を植えてしまった彼らは、女王の癇癪を恐れ、ペンキで色を塗り替え誤魔化そうとしていたのだ。
「文中に『薔薇の木』とあるくらいだから背の高い白薔薇なんだろうし、フラウ・カール・ドルシュキーならピッタリだろ? それに、庭師たちは女王にバレて打ち首になることを恐れていた。つまり、犯人は斬首刑を連想させる為に、ドラムセットを壊し、現場に斧を残したんだ」
僕としては、なかなか自信のある説だった──のだが。
「まあ、言われてみればそう思えなくはねえけど……それにしちゃあ、中途半端な気がするな」
彼の反応は芳しくない。どの辺りが中途半端なのか、ご教授願うことにする。
「だって、もし斧によって斬首刑を表したいんだったら、普通は死体の首を刎ねるもんじゃねえか? 腕力あるいは時間の問題で、ちゃんと切断するのが難しかったんだとしても、首に突き立てるくらいはできるはずだ。なのに、実際に被害に遭っていたのはドラムセットの一部だった。ほら、中途半端だろ?」
「けど、それならどうして犯人は……」
「さあな。──ただ、やっぱり見立てってのはどうも受け入れ難い。推理小説の中ではお馴染みなのかも知れないが、現実の事件じゃ最もあり得ない演出だと思わねえか? 何かを誤魔化す為に現場を弄るのならまだわかる。が、何かしらの物語に見えるよう装飾を施すなんて意味の薄いこと、犯人がするかな。人を殺したばかりの人間に、そこまでの余裕があるとは思えない。──もし、そんなことが考えられるとしたら、そいつはチカチーロ並みにネジが飛んだ奴か、あるいは、見立ての題材自体に相当強い思い入れがあって、その再現もはなから目的に含まれていたかのどちらかだろう」
「わからないぞ? 犯人は自分をハートの女王だと思い込んでいるのかも知れない」
「それじゃあ『レッド・ドラゴン』じゃねえか。──そんなイカレた人間、関係者の中にいると思うか?」
思えない。と言うか、いたら嫌だ。
──と、盛大に脱線どころか脱輪しかけたところで、僕たちは別棟に到着した。
中に入るとまず廊下の灯りを点け、そのまままっすぐに突き当たりの現場へ進む。現場のドアは開けたままだ。
戸口に立つと、ドラムセットと畔上の死体のシルエットが重なり、異形の怪物のように暗がりに浮かんでいるのが見えた。入り口側の壁のスイッチを入れ、蛍光灯の光の下、緋村は調査を開始した。
ちなみに、今回も僕の分のビニール手袋はないので、大人しく彼の作業を眺めることにする。
真っ先に彼が手に取ったのは、先ほども話に上がった薔薇だった。花に付着したペンキは乾ききっておはず、持ち上げた側から鮮血のようにネットリと糸を引く──かと思うと、途端に花冠がボロボロと崩れてしまう。
薔薇は首がもげ落ちるように瞬く間に散り、彼の手には茎ばかりが残った。
「……おい」
大事な遺留物を損壊した素人探偵に、呆れた眼差しを送る。
「不慮の事故だ。切り替えて行こう」
カケラも悪びれずにそう言うと、緋村は薔薇の残骸をカーペットの上に戻した。
その後ペンキの缶と斧を順番に手に取り観察して行ったが、どちらも大して気になる点はなかったのか、すぐに元どおりにする。
続いて緋村は、ペンキを踏まぬように注意しつつ、死体に近付いた。畔上の体には、順一さん同様シーツが頭から被せられており、すでに赤い汚れが滲んで来ていた。
今回もまた、彼は躊躇なくそれを剥ぎ取り、ペンキに触れない場所に置く。
「かなり見辛いが、左胸以外に傷はないみてえだ。正面から一突きし、凶器を抜き取ったんだろう。結構血が飛び散ってるな……」
呟き声に吊られ、僕も死体の足元に目を向けた。と言うか、なるべく顔や胸の傷を見ないようにした結果そうなったのだが。
そして、彼の言葉どおり周囲には血が飛んでいるようで、赤いペンキの下に、暗褐色の汚れが幾つも散見された。
「真正面からとなると、犯人は顔見知り──って当然か。やっぱり、僕たちの知らない第三者が潜んでいて、そいつが殺害したって可能性はなさそうだな」
「だろうな。畔上は何かに怯えずっと自室に引き篭もっていたんだ。そんな奴が、こんな状況で見ず知らずの人間に付いて行ったとは考え辛い」
「付いて行った? 犯人と畔上は一緒にここに来たと考えてるのか?」
「いや、別にそう言うわけじゃねえよ。呼び出されたのかも知れねえし。──ただ、現場がこの練習室ってことは確かだと思う」
「別の場所で刺してから、ここまで運んで来た可能性はないのか?」
「ないな。それなら、こんなに血が飛び散りはしねえだろう。そもそも、そんな面倒なことするよりも、生きているうちに自分の足で現場まで来てもらった方が遥かに楽だ。──死体を運ぶってのは、俺たちが思っている以上に大変な作業らしいぜ?」
それもそうか。となると、母屋の裏口から続いていたあの足跡は、やはり畔上本人の物たったのだろうか……? もしそうであれば、犯行時刻は雨が上がってからか、あるいはその直前だと考えられるが……。
一度ここで、簡単に状況を整理してみるよう。
まず、スイカ割りが終わってしばらくした後、またしても天候が崩れ、雨が降り出した。
次に、十七時頃に弥生さんが夕食の準備をしようとした時には、すでに凶器と見られる包丁は厨房から消えていた。
その後、十八時過ぎから夕食を食べ始め、十九時頃に終了。ちょうどそれと同時に雨が上がる。
そして、二十一時過ぎに僕は木原さんと一緒に外の喫煙所へ。しばし会話した後、須和子さんが出て来て、入れ替わりに木原さんが母屋に戻る。
それから、例の女の手に須和子さんが気付いて──二人で様子を見に向かい、死体発見に至ったわけか。
──こうして考えを纏めているうちに、ふとあることに気付く。そして、思い付くがままに──やはり、意識の支配を離れた無意識に従い──僕は知らず、それを口にしていた。
「……本当の犯行時刻は、雨が降る前だったんじゃないのか? だから、犯人の足跡は行きの物も帰りの物も残らなかった、とか」
もちろん、あれしきの雨で完全に掻き消されるとは思わない。しかし、当然形は崩れるわけである。ならば、スイカ割り後にブルーシートを片付けた際の足跡に紛れ込み、ほとんどわからなくなるはずだ。
「……ナルホド、それなら足跡の問題は解決だな──と、言いたいところだが、残念ながらあり得ねえな」
「どうしてだ? 犯人の足跡がないってことは、犯行は雨が降る前か降っている間に行われたと考えるのが自然だろ?」
「普通はそうだろうが、実際の状況には当て嵌まらないんだよ」
そう答えた緋村は遺体にシーツをかけ直した。今度は割れたフロアタムをしげしげと眺めつつ、彼は説明してくれる。
「何故断言できるのかっつうと、それは雨が降り出す前に、この練習室が使われていたからさ。湯本たちが練習してたんだ」
つまり、少なくともその時点では、まだこの「練習室1」に死体はなかったと言うことか。
「さっき聞いたんだけどな。矢来さんを抜かしたMike the Headlessの三人で練習室に入っていたらしい。──一時間ほど練習してから母屋に帰ろうとした時に、ちょうど雨が降り出したんだと。確か、だいたい十六時すぎ頃だったそうだ」
「じゃあ、三人が帰った後、まだ雨が止まないうちにここに来た可能性は?」
「もちろん、それなら大いにあり得る話だ。木原さんの推理でもそう言ってたしな。──が、いずれにせよ、あることが問題として残る。……畔上のクロックスさ。死体発見時、畔上のクロックスは現場のすぐ傍にあった。そして、母屋の裏口から続いていた足跡とも一致した。あれほどクッキリと跡が残っていたってことは、雨が上がる直前か上がってからか、誰かが履いて来たのは間違いないわけだ。当たり前だけどな」
無感動に言いつつ、緋村はドラムセットの周囲に視線を這わせていた。確かに彼の言うとおり、当然の話である。
密室とは言え、現場自体に鍵がかかっていたとか、衆人環視の中起きた事件と言うわけではない。この事件を密室殺人たらしめているのは、「犯人の足跡がない」と言う一点のみなのだ。
にもかかわらず、トリックはおろか、そもそも犯人は何故にこの状況を作り上げたのかさえ、よくわからない。
──この密室は、単純なようでいて難しい。
知らず、そんな言葉が口を突いて出る。
すると、緋村は何故か釈然としない様子だった。
「どうだろうな。……そもそも、この現場は本当に密室だったのか?」
予想外の発言に、思わず彼の顔を見返した。犯人の足跡が残されていないんだから、密室状態じゃないのか?
「けど、それは暗い中素人が探索した結果だろ? 警察がちゃんと捜査をしたわけじゃないんだ。何か見落としていることがあるのかも知れない」
「まあ、否定はしないけど……」
「もしかしたら、誰かさんみたいな推理小説偏執狂が『現実に起きた密室殺人』を望むがあまり、他の可能性に目を向けていないだけなんじゃねえか?」
わからない話ではないが、ずいぶんな言い方である。まるで「お前たちが自分の嗜好を満たす為に、事件をややこしくしているんだ」と言われているような。
「いずれにせよ、すぐに答えが出せるようなもんじゃねえさ。見立て云々に関してもな。と言うわけだから、今はできるだけ情報を集めたい」
──それから緋村は、ドラムセットの裏側に回り込んだ。すると、「おっ」と小さく声を上げ、しゃがみ込む。
何かを発見したらしい。
僕はとうとう重要な手がかりのお出ましかと、身を乗り出すような思いであった──のだが、立ち上がった彼の両手にあった物を目にした途端、その期待は裏切られる。
「ずっとねえなとは思っていたが、まさかこんなにも無造作に捨ててあるとはな」
鍵と暗証番号付きのボックスを手に待ち、彼はニヒリスト然とした表情で苦笑した。
念の為確認してはみたものの、それは案の定現場の鍵で間違いなかった。