脳①
変わり果てた姿の畔上を発見した僕たちは、しばし戸口に立ち尽くした。しかし、いつまでもそうしているわけにもいかず、須和子さんに頼み、他の人たちにこのことを知らせに行ってもらうことにする。
彼女は未だ茫然自失とした様子だったが、それでもすぐに頷き返し、母屋へと走ってくれた。
他の関係者たちが駆け付けるまでの間、僕は暗い廊下の中でそれを待つ。
しかし、なかなか応援は来ない。殺人現場のすぐ傍に一人きりでいる為か、やけに時間の経過が遅く感じられた。
──実際、彼らが到着したのは、十分ほど経った頃だった。緋村と石毛さん、それから《GIGS》の部長、副部長に湯本と言った男性陣が、血相を変えて別棟の中に入って来る。
母屋から来たにしては、いやに遅かったような……。
「本当か? 畔上が死んでるって言うのは」
「ああ……」
呻くように頷いた僕は、言葉で説明する代わりに半身になった。すると、そこからでも中の惨状はよく見えたようで、彼らは一斉に瞠若する。
同じサークルの仲間である三人はもちろん、緋村や石毛さんも動揺を隠しきれない様子だった。湯本に至ってはすぐに顔を背け、口許を手で覆っていた。
一番最初に──それも二連続で──死体を発見した為か、あるいは、他の人間が狼狽している様子を見ているうちに冷静になれたのか、その時の僕は、不思議なほど落ち着いていた。
そして、すぐさまあることに気付く。
「……みなさん、靴はどうしたんですか?」
そう問いかけると、彼らは死者の声でも聞いたかのように、こちらを振り向いた。
──そう、どう言ったわけか、五人とも自分の靴を履いておらず、従業員用らしいサンダルや中にはスリッパを履いている者もいるのだ。
「じ、実は──なくなっていたんですよ。矢来さんと若庭くん以外の全員の靴が。ちゃんと探す時間がなかったものですから、こんな格好で来たわけです」
答えてくれたのは、石毛さんだった。
僕と須和子さん以外の靴が消えてしまった──つまり、何者かが盗んだと言うことか。しかし、いったい誰が、何の目的で?
そして、その人物は畔上殺しの犯人と同じなのか……?
「それより、死体を見付ける直前、誰かがここにおったってのはホンマなんか? さっき、須和子さんから少し聞いたんやけど、誰かが手招いとったって……」
佐古さんの言葉で思い出す。
例の、揺れ動く白い女の手を。
そして、その指先に付着した「赤」を。
死体発見のショックで忘れかけていたが、あの人物はどこに消えてしまったのだろう? それとも、まだこの建物の中に潜んでいるのか……?
考えつつ、僕は目にした光景をありのまま伝えた。話しているうちに、ほとんどの人間の顔が青褪めて行く中、緋村だけはやけに落ち着いている──どころか、むしろ普段の調子を取り戻しつつあることが、少し気になった。
その彼が、わずかに考え込んだ後、こう提案する。
「念の為、他の部屋の様子も見てみましょうか。その手の主とやらが隠れている──かどうかはわかりませんが、何か発見があるかも知れません」
誰もそれに反対する者はなく、僕たちは別棟内を見て回ることになった。
まずは近場から──「練習室2」の扉を開ける。ちなみに、練習室の鍵は、どちらも、ノブにぶら下がった暗証番号付きのボックスによって管理されている為、番号さえ知っていれば、誰にでも開けることが可能だった。
今回は木原さんが番号を入力し、鍵を取り出す。練習室を利用したことのある《GIGS》の面々は、全員鍵を開けられるわけだ。
ドアを開け、灯りが点る──設備はほぼ「練習室1」と同じだが、こちらの方がわずかに狭い空間だった。部屋の向きが違う関係で、機材の配置が変わっている。
しかし、現場と同様人が隠れられるスペースはなく、完全に無人であることは一目瞭然だ。
「特に、おかしな点はないようですね。──みなさんから見てどうですか? この練習室も、今回すでに利用していますよね? その時と比べ、何か変わったところは?」
促されるまま室内に入った《GIGS》の三人だが、大して確認するまでもなかったようだ。
「いや、特におかしなことはないみたいだけど……ねえ?」
副部長の言葉に、部長と部員は頷いた。
──結局、ここにはあまり見る物がなく、早々に隣室へ向かうことになる。こちらは前にも述べたとおり物置になっており、普段から鍵はかかっていないらしい。
何も表示のないドアを押し開け、石毛さんが壁のスイッチを押した──
すると、先ほどとは打って変って、今回は明らかに誰かが入り込んだ形跡が見て取れた。片付けたはずの斧が現場に残されていた為、当たり前と言えば当たり前なのだが。
物置内は、奥に見える窓の横と、左右の壁にスチール製の棚があり、主に日曜大工に使うような道具や掃除具など、雑多品々が収納されていた。
また、例の斧の片割れは床に転がっおり、その下──左手の棚の前のスペースに、ドス黒い水溜りが見えた。一瞬何かと思ったが、すぐにそれはペンキが溢れただけだと気付く。ちょうど近くに丸いペンキの缶がまとめて置かれていたのだが、そのうちの「黒」が横倒しになり蓋が開いているのだ。
犯人が赤いペンキを取り出した時に、誤って倒してしまったのだろうか?
石毛さんに続いて中に入った緋村は、溢れたペンキを迂回しつつ、まっさきに奥の窓に向かう。吊られてそちらに目を向けると、彼の肩越しに、クレッセント錠がかかっていないのが見えた。
「……鍵が空いていますね。この大きさなら、よほど大柄でもない限り通り抜けられそうだ」
呟いた彼は、最初の現場検証の際にも嵌めていたビニール手袋をした手で、窓を開ける。
枠に手をかけて顔を突き出し、緋村は周囲を軽く見回した。
そのすぐ目の前では、屋根から垂れたブルーシートが、茫漠と横たわる海面のように波打っていた。
「と言うことは──例の手の主は、須和子さんと若庭をこの建物に呼び寄せた後、素早くここに入って、二人が死体に釘付けになっとる間に、その窓から逃げたってわけか?」
「そう考えることもできるな」湯本の問いかけに応じつつ、彼は窓を閉めた。大した発見はなかったらしい。
それから、彼は例の黒い水溜りの傍らでしゃがみ、まじまじとそれを見下ろす。
「慌てて蹴飛ばしでもしたのか……?」
不思議そうに独語した彼は、思考を巡らせる為か、口許に手を当て黙り込んだ。
「そんなことより、外を見に行った方がええんやないか? もう犯人はおらんようやし」
「ええ、そうですね。ちょうどそうしようと思っていたところです」
業を煮やした様子の佐古さんに、涼しい顔で答え、立ち上がる。
やはり、緋村は妙に冷静だ。と言うよりかは、心なしか平時よりもイキイキとしているようにさえ見えた。
改めて、よくわからない男だ。彼は、本当に起きてしまったこの殺人事件を、どう受け止めているのだろうか……? 相変わらず死んだ黒眼からは、その心情を窺い知ることはできなかった。
※
その後、僕たちは別棟の周辺を探索した。
が、特に気になる物は見受けられず、昨夜の風で飛ばされたらしい薔薇の花びらや木の葉など──昼間も目にした嵐の爪痕を再確認した程度だった。
──代わりに得られた収穫は、たった一つの重大な「謎」のみ。
別棟の周囲に、犯人の足跡は残されていなかった。
僕らはスマートフォンのライトや懐中電灯で各々照らしながら、何か痕跡はないかと地面に視線を這わせた。幸い月明かりがあった為、存外辺りの様子はよく見えた。
と、同時に、あるべきはずの犯人の足跡がどこにも見当たらないことに気付いたのだ。
泥濘に残されていたのは、
喫煙所から歩いて来た僕と須和子さんの物、
別棟から母屋の裏口へと続く須和子さんの物、
母屋の裏口から来た五人の物、
そして、初めに別棟に来た際に見付けた、母屋の裏口から続く誰かの物のみ。一応、これらの他にブルーシートを片付けた時の物もまだ微かに残っていたが、前にも描写したとおりほとんど消えかけている為、ハッキリとした足跡は上に挙げた四つとなる。
そして、この最後の足跡だが、緋村の提案で畔上のクロックスと照合してみたころ、ピタリと一致した。つまり、これはどうやら畔上の残した物らしい。
現場に向かった被害者の足跡はあるのに、犯人の物は「帰り」はおろか「行き」すら見当たらない。
──この現場もまた、密室状態だったのである。