スーパーカー①
「そう言えば、あの五セント硬貨なんですけど……」
須和子さんと二人きりになった僕は、ずっと引っかかっていたことについて、話を振ってみた。彼女の財布の中に紛れ込んでいた異国の硬貨が、何故密室の中に残されていたのか、確かめる為に。
順一さんの死に事件性はなかったのだから、彼女が犯人であり犯行時に落としてしまった──なんてことは、ないはずなのたが。わかっていても、妙に落ち着かない。僕は知らず、ポケットにしまったままのそれを、ズボンの上から手で抑えていた。
すると、一瞬キョトンとした表情をした後、
「ああ、あれやったら、ちゃんと今も持っとるで? ほれ」
そう言うと、須和子さんは財布を取り出し、小さな侵入者を僕に見せてくれた。
間違いなく、それは例の五セントユーロである。
──では、現場で僕が見付けた物は、いったい何だったのだろうか? もしかして、単に順一さんの持ち物だったとか……?
だとしたら早合点もいいところだ。なんだか、勝手に焦っていた自分が恥ずかしくなって来る。
「けど、なんでそんなこと訊くん?」
「いや、別に大した意味は……。ちょっと、その、気になっただけです」と、慌てて誤魔化す。「それにしても、不思議な話ですよね。いつの間にか財布の中にあっただなんて」
「せやなぁ。釣り銭と一緒に紛れ込んだんやとしたら、考えられるのはコンビニか本屋かスタジオか……後は、K駅前の煙草屋くらいなんやけど……。──あ、でも、あの後ネットで調べてみたんやけど、こう言うことって割とあるらしいねん。中には、バスの中で両替したら、十円玉に混じって出て来たって話もあったわ。せやから、学食の券売とか、切符を買うた時に混ざった可能性もあるわけやな」
機械と言えど、意外といいかげんなところがあるのかも知れない。結局、いつ紛れ込んだのか特定するのは難しいようだ。
「そう言えば、昨日の呑み会の時に、緋村くんにもこの話をしたんやけど、そしたら彼、『まるでボルヘスの短編みたいですね』って言っとったわ。なんて言うか、結構読書の趣味が広いみたいやな」
彼女の形のいい唇の隙間から、白い歯が覗く。緋村も『トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス』を読んでいたのか──と考えかけて思い出した。そもそも、僕があの難解な短編を読んだのは、彼に借りたからではないか。
──物語の初まりとなるのは、主人公が友人と共に、海賊版の百科事典を発見したことだった。この百科事典には架空の地「トレーン」ついての記述が載っていたのだが、この時点では単なる悪戯によって仕込まれた物だと、筆者は断じる。そして第二部になり、「トレーン」とはある秘密結社が創り上げようとした架空の世界であり、その為に海賊版の百科事典が刷られたと言う結論に至る。
が、それだけでは終わらない。第三部になると状況が一変、「トレーン」はもはや単なる空想の産物ではなく、少しずつ現実世界に影響を及して行き、いずれはこの現実その物が別の世界へと塗り替えられてしまうだろう──と言うことが示唆されて、物語は閉じるのである。
では何故今回の出来事で、僕がこの奇想小説を思い浮かべたかと言うと、一つはシンプルに作中にコインを用いた喩え話──九枚の銅貨の実在性──が出てくること。そしてもう一つは、知らぬ間に紛れ込んでいた点が、第三部における異世界の流入を思わせたからだ。
まるでその存在を認識してしまったが為に、この現実がそれの実在する世界へと作り替えられたような──と言ったら大袈裟だが。
「何にしても、『匣の中の失楽』を買おうとした時に気付いたってのが、何とも暗示的よな。どうや、葉くん。これをネタに一本幻想小説でも書いてみいひん? 今ならタダでこのネタ譲ったげるで?」
「うーん、課題で書く物に困ったら使わせてもらうかも知れませんけど……」
──それから、彼女が煙草を灰皿に捨てるまで、僕たちは他愛のない会話を続けた。その間、僕は密かに、先ほどの木原さんの言葉について考えていた。
──ライバルが多くて。
その言い方だと、彼女に想いを寄せているのは彼らだけではないと言うことになる。そして、あの意味ありげな笑み。もしや、木原さんは僕もその一人だと思っているのだろうか。
まさか──と、胸の内で否定する。僕は何も特別な感情を抱き、彼女と接しているわけではない。ない、はずだ。
正直なところ、その辺りに関しては自分でもよくわかっていなかった。ただ、今はこうして適当な話ができて、楽しく過ごすことができるなら──モラトリアムを共有することができるのなら、それで十分だった。
「話は変わるんやけど、葉くんはどう思う? 緋村くんの言ってたこと。──結局のところ、オーナーさんの死は本当に自殺やったんかな」
ついさっきも同じような話をしたばなりだ。やはり、みんな自殺説には疑問を抱いているのだろうか。
「まあ、いきなり『犯人はいない』なんて言われて、戸惑いはしましたね」と、当たり障りのない返事をしておいた。
「やんね。『密室なんだから自殺に違いない』って言うのも、なんか言いくるめられとる気がするし。まあ、かと言ってトリックの見当は付いてへんけど」
いや、割といい線行っていたみたいですよ。そう思ったが、敢えて口にはしまい。
「まあ、トリックを用いた密室殺人なんて、現実にはそう起きないんやろうけど──」
と、言いかけたところで、彼女の声が消え去った。
──何故急に黙り込んだのろう? 訝しみながら隣りを見返すと、その顔はたちまち青褪めて行き、ただでさえ大きな瞳をさらに瞠って、何かを凝視しているらしい。
それは、まるで何か異常な物を目の当たりにした為に、理解が追い付かずエラーが発生したかのような表情だ。
「……須和子、さん?」
「あ──あれ……」
唖然と呟きつつ、ヨロヨロと手を挙げた彼女は、視線の先を指差した。
いったい、彼女は何を見ているのか。僕は恐る恐る、そちらを振り返る。
──須和子さんが見つめていたのは、庭の先にある別棟のようだった。先ほどスイカ割りに使ったブルーシートが屋根から垂れ下がっており、壁を隠している。ここの備品で元々別棟の倉庫にあった物なのだが、洗って干している間に雨が降って来た為、後で改めて回収することになっていた物だ。
それ自体は何らおかしくはない──問題は、僕らがいる位置から見て斜めに建っている別棟の、入り口側の角にあった。
建物の陰から、ある予想外な物が飛び出していたのだ。
──それは、人間の腕。
月明かりの下でボウッと浮かび上がるような、生白い細腕──どう見ても女の手──が、昏い海底に生えた珊瑚のように、別棟の角から突き出ているのだ。




