トレモロ①
ひとまず食堂に立ち寄ると、ちょうどタイミングよく弥生さんと出会った。奥の壁に設置された棚の前で背伸びをして、何か──救急箱をしまっているところだった。
肉親を喪ったショックから、体調を崩してしまったのだろうか? 心配になり、声をかけると、
「え? ──あ、いえ、大したことじゃないですよ。針仕事をしていて、少し指を刺してしまっただけですから」
そう言って苦笑する彼女の左手には、人差し指に絆創膏が巻かれていた。確かに大した怪我ではなさそうだ。が、やはりまだ普段どおり働くのは難しいのではないだろうか?
「あの、差し出がましいかも知れませんが、もう少し部屋で休んでいた方がいいんじゃないですか? 何か仕事が残っているんでしたら、僕と緋村でやりますから」
「お気遣いありがとうございます。そうですね、後は夕食の仕度くらいですし、アドバイスどおり大人しくしておきます」
これしきのことで礼を言われると、むしろ恐縮してしまう。
「ところで、スイカ割りはもう終わったんですか?」
彼女の問いにより、僕は本来の使命を思い出す。塩をもらいたい旨を伝えると、厨房にあるから好きに持って行ってもらって構わないと、快い返事だった。
今度はこちらが礼を言い、さっそく厨房へ向かいかけた──ところで、弥生さんに呼び止められる。
「あの、一つお訊きしたいんですが……畔上さんは、お外にはいらっしゃらないですよね?」
「あ、はい。外どころか、僕は今朝以来見かけてないです」
「そうですか……」呟いた彼女は、心なしやつれたように見える頬に手を当て、黙り込んでしまう。よくわからないが、何やら思案しているらしい。
それも、単に篭りきりの宿泊客のことを案じている、と言うわけではなさそうだ。
「畔上が、どうかしたんですか?」
「え、ええ……。実は、先ほどロビーでお会いしたんですが、その時の様子が気になったもので……」
なんと、畔上は部屋から出て来ていたのか。
しかし、弥生さんの言葉を聴くに、どうやらスイカ割りを楽しむ声に誘われて、思わず天岩戸を開いたわけではないらしい。興味をそそられた僕は、自分で休むよう勧めておきながら、何があったのかを尋ねる。
「はあ、それが……先ほど私がキヨカちゃんの写真を直そうとロビーに向かったところ、すでに畔上さんがいて、写真を見上げていらしたんです。すごく驚いていたと言うか、怯えているような感じで。──もしかしたら、私たちが写真を入れ替えたせいで怖がらせてしまったのかも知れません。
それで、申し訳なくなって、『ちょっとした事情があって写真を取り替えていたんです』とだけ、説明致しました」
すると、畔上は「その人が写っている方の写真をよく見せてほしい」と言い出したので、彼に手渡してやったと言う。
畔上はしばし食い入るようにそれを見つめていたそうだが、ほどなくして、小さな声で何事か呟いたそうだ。
「小声でしたので、あまりハッキリとは聞き取れなかったんですけどね。確か、戸惑った様子で一言、『どうして……?』と呟いてはったはずです」
どうして? ──いったい何に対しての「どうして」なのだろう?
「それから、畔上さんは写真を戻すのを手伝ってくださった後、また二階に上がって行かれました。たぶん、ご自分のお部屋に戻られたんだと思います」
そんなやり取りがあったとは。結局のところ、彼は何の為に部屋から出て来たのだろうか……?
──そう言えば、さっき須和子さんたちが畔上と山風の様子を見に行こうかと話していたか。戻ったら、二人にも話を訊いてみよう。
そんな風に考えつつ、弥生さんと別れた僕は、今度こそ厨房へと向かった。
※
「アゼちゃんの様子がどうやったか? ──そうそう、さっき他のみんなには話したんやけどな、ちょっとおかしなこと言っとったんや」
「おかしなこと、ですか?」
「そう。なんや、ようわからんけど、『幽霊を見たかも知れない』って」
屋外喫煙所にて。前屈みの姿勢のまま、須和子さんは灰皿に灰を落とした。その隣りには、共に二人の部屋を訪ねた日々瀬が座っており、彼女らの向かい側に僕と緋村が立っている。奇しくも、ババ抜きの時と同じ面子だ。
突飛なワードに困惑していると、それが伝わったのか、須和子さんが説明してくれた。
「順を追って話すわ。──まず、うちらは最初にミクちゃんの部屋に行ったんや。中には入らんかったんやけどな。取り敢えず、オーナーさんの死は自殺やったらしいことを、戸口で話したわ。めっちゃ顔色悪かったから、『ホンマに大丈夫なん?』って聞いたら、『ちょっと横になってようと思います』って言うから、さっさと退散したわ」
続いて畔上の部屋に向かうと、こちらもやけに元気がない──と言うか、何かに怯えているような様子だったらしい。弥生さんと同じ感想である。
「ほんで、『どないしたん?』って訊いたら──」
二人を室内に入れた畔上は、オズオズと真夜中に目にした物について話し出したと言う。午前二時過ぎ頃──例の土砂崩れがあってから、五分ほど経った時、庭の中に「亡霊」の姿を見たのだと。
その存在は、ちょうど今僕たちがいる喫煙所の前を、異様なほどフラついた足取りで、横切って行ったそうだ。
──真っ白い体と、揺れるような歩き方。それってまるで……。
僕はどうしても、キヨカさんのことを連想せざるを得なかった。写真の中の彼女は、純白のワンピースを着ていた。そして、弥生さんの話では、生前脚が悪かったはずだ──と。
「しかも、それだけではなくて、その亡霊は人の生首のような物を持っていたそうです。嘘を言っているような感じはなかったので、何かを見たのは確かだと思うんですけど……いったい、何を見たんでしょうか……」
頬に人差し指を当て、日々瀬は不思議そうに呟いた。嵐の真夜中にそんな不気味な存在を目撃したとなれば、血が凍るような思いをして当然か。真偽はともかくとして、想像したら少し身の毛が粟立った。
すると、二人の話を聞いている間、興味なさそうに煙草を吹かしていた緋村が、ブッキラ棒な口調で、
「少なくとも、実体を持つ人間であることは確かでしょう。外灯が点いたと言うことは、センサーに反応したと言うわけですから。
そして、その誰かは十中八九俺たちの中にいて、何故か昨夜出歩いていたことを隠している、と……」
「わからんで? 幽霊も、センサーに反応するらしいからな。──例えば、うちの大学の音楽棟あるやろ? あそこの渡り廊下の灯りも、夜になるとセンサーで点くようになるんやけど、たまに明らかに誰もおらんのに点いとることがあるらしい。で、そう言う時、警備の人らは『あ、今日はいてはるから、見回りはせんとこう』って言って、音楽棟には行かんようにするんやと。──まあ、あくまでもただの噂やけどな」
「信じるか信じひんかは、君ら次第や」と言って、彼女は結んだ。怪談と言うほどのことはない、本当にちょっとした噂話だ。
そして、僕らの通う阪芸にはやたらこの手のエピソードが多い。そもそも大学の敷地自体が巨大な古墳の上に建っているのだと──それすらも真偽のほどは定かではないが──聞いたことがある。ただ、僕自身はそうした経験をしたことはないし、ロクに信じてもいなかった。
「でも、その話が本当だとしたら、阪芸の警備杜撰すぎませんか? だいいち、誰もいないのにセンサーが点いていたら、普通に考えれば、『今はいないだけで少し前にここを誰かが通った』ってことじゃないですか。余計に見回りに行くべきですよ」と、意外にも日々瀬が反論する。
「確かにそうやけど、うちに言われても」
納得がいかなそうに眉根を寄せる後輩に、彼女は苦笑した。
すると、緋村は短くなった煙草を灰皿で揉み消し、そのまま何も言わずに踵を返す。
「戻るのか?」と尋ねると、気の抜けた声で、「ああ」とだけ返って来た。
砂利の上を歩き出した彼を、僕たちは見送る。須和子さんは組んだ膝に片肘を立てたまま、不思議そうに、
「緋村くん、前にも増してテンション低いようやけど、何かあったん?」
「さあ。まだ不貞腐れてるんじゃないですか?」
「不貞腐れてる? なんで?」
「いやぁ、それが……」
弥生さんの部屋での顛末を話すべきか迷っていると、入れ替わりに他の喫煙者三名がやって来た。僕はこれ幸いにと、返答を有耶無耶にする。まあ、電話の件を話して不用意に不安がらせてしまうわけにはいかないし、これでよかったのだろう。
何より、僕はこの時点では「真の事件」が起こるなどとは考えていなかった。唐突に始まったスイカ割りのせいか、緋村同様スッカリ毒気を抜かれてしまっていたのだ。
──それから、何事もなく時間は過ぎて行き、僕たちは土砂崩れに閉じ込められたまま、二日目の夜を迎えることとなる。
そして──
第二の死体は、またしても「密室」の中で発見される。