若者のすべて
今いる場所とすぐ目と鼻の先にある──はずの惨状に思いを巡らせ、僕は改めて慄然とした。暑さの為に体中に滲んでいた汗が、急速に冷やされて行くのを感じる。
──人身事故だ。
つい何分か前、すぐそこの線路に人が転げ落ち、通りがかった快速列車に轢き殺されたのである。
亡くなったのは、僕と同じ──若者だった。
僕は直接衝突の瞬間を目にしたわけではないのだが、
「──学生っぽい兄ちゃんが突然倒れよって、そのまま線路に落ちてったんや。それで、ちょうどタイミング悪く電車が来てもうて……」
「──可哀想になぁ。まだ若そうやのに」
「──ヤバイわ。人が死ぬとこ初めて見てもうた」
「──もしもし? ごめん遅れそうやわ。──ううん、そうやなくてなんか人身事故でな」
「──どうせ自殺なんとちゃう?」
「──あー、クソ暑」
「──死ぬなら誰もおらんとこで死ねや」
などと、かまびつしく話し合う、あるいは文句を垂れる野次馬の声が周囲から聞こえて来る為、茫然とした頭でも状況は理解できた。
──そうしたわけで、現在、大阪環状線新今宮駅の線路上では復旧作業の真っ最中だった。
所在なくホームに佇んだ僕は、青年の死など全く気にしていない体を装う。しかし、どうしてもその不吉な場所に意識が引き寄せられてしまい、なかなかうまくいかない。
そうかと思うと不意に、以前とある昏い目をした男から聞いた話が、彼の声で、その時彼が吸っていた煙草の匂いと共に、脳裏に再生された。
──実体二元論って知ってるか? ……そう、デカルトの「二元論」も同じだ。古くはプラトンにまで遡ることができるようだが──まあ、その辺は今は措いておくとして。
──保江邦夫って言う理学博士がいるんだが、この人の見解が面白いんだ。彼は物質世界を、「泡」の内側に喩えているのさ。
──対して「泡」の外側は非物質の世界──絶対無限、そして完全調和の世界なんだそうだ。で、ある時この何も起こらないはずの完全調和が「揺らぐ」ことで「泡」が産まれ、それぞれの「泡」のカタチに応じた素粒子や物質が、その内側にできるんだとよ。
──そして、人間が死ぬとこの「泡」が割れ、非物質の魂は外側の絶対的な素粒域、謂わゆる霊界に溶けて行く……。これだけ聞いてると、まるで俺たちが生きていることの方が、何かの間違いなんじゃねえかって、思えて来るよな。
「……そう、かもな」
我知らずそんなことを口走っていることに気付き、ハッとなる。
気恥ずかしさを紛らわせる為、僕は意味なく──なるべく事故現場の方は見ないように──顔を上げた。すると、ホームの屋根に切り取られた空が、毒々しい赤紫に燃えていることに気付く。
それはまるで、先ほど死んでしまった若者の血を、一滴残らず吸い上げたかのような──
二〇一八年八月一日、僕はしばし、暮れなずむ夏空に釘付けとなっていた。
夕焼けは立ち並ぶ墓石群の如き街並みを見下ろしながら、僕を嘲笑うように沈んで行った。