Please Mr. Lostman③
固く目を瞑った弥生さんは、力を抜くように息を吐き出した。
──やがて、彼女は静かに瞼を開き、
「……いいえ……何もかも、緋村さんのお話のとおりです」
「弥生ちゃん!」
「もう、ええよ。遅かれ早かれ、警察が来たらすぐにバレることやから……」
「け、けど──」
「ごめんなさい。おかしなことに巻き込んでしまって……」
穏やかな微笑を湛える彼女を見て、石毛さんも全てを察したらしい。彼は諦めるように、俯いた。
それから、僕たちの方に向き直ると、
「弥生ちゃんは、何も悪くないんです。今回のことは、私から言い出したことですから」
「では、やはり石毛さんは共犯だったんですね?」
その問いに、ノンフィクション作家は頷き返す。先ほどの緋村の「トータルとしてはそれでも変わらない」と言う発言は、彼が共犯者だと予想していたからこそ出て来た物だったのだろう。
「改めて、答え合わせをさせてください。──弥生さんが順一さんの遺体を発見された時、部屋には鍵がかかっていなかったんじゃないですか?」
「そうです。兄は最近忘れっぽくなっていましたから、かけ忘れたのかも知れません。結局、斧も片付けてませんでしたし」
「確かに、朝まで残っていましたね。──その後、弥生さんはまっさきに、徹夜仕事で起きていた石毛さんの部屋に向かった。そして、警察に通報しようとしたところ、土砂崩れに気付いたんですね?」
「はい」と、今度は石毛さんが応じる。
「ちょうど圏外のところで道が塞がっとるのを見て、すぐに警察が来られる状況じゃないと理解しました。それで、引き返して弥生ちゃんにこのことを伝えた後、例の、順さんが遺書と注射器を用意しとったって話を聞かされて……。何やしら、運命のような物を感じてしまったんです。──今なら、順さんの死を修正できるんやないか、と」
「なるほど……。正直なところ、石毛さんの提案だったのは意外でしたね。協力しただろうとは思っていましたが」
「思い返してみれば、あの時どうしてあないなことを言ったのか、自分でも不思議です」
彼にしてみれば、あの土砂崩れは神の導きのように思えたのかも知れない。謂わばこれも、「する」為にしたのではなく、「できる」からしたのだ。
ここまではなんとか理解できたが、一つだけ、ずっと気になっていたことがあった。ちょうどいいタイミングなので、僕も質問を放ってみる。
「あの、一ついいですか? ──順一さんの死を自殺に見せかけた理由はわかったんですが、どうしてわざわざ『他殺に偽装した自殺』にしたんですか? そんなややこしい方法じゃなくても、もっと他にやりようがあったんじゃ……」
僕の質問に答えたのは、二人ではなく緋村だった。
「それは、順一さんが苦悶の表情のまま亡くなっていたからだろう。さっきも言ったように、心筋梗塞の発作には激痛が伴うからな。決意の自殺を遂げた人の死に顔とは似ても似つかないさ。あと、体勢的にも前傾姿勢になるから、ちょうど左胸を刺されたみたいに見えるしな」
なるほど。つまり、苦肉の策だったわけか。
「……そのとおりです。ハンマー代わりに『虚無への供物』を使ったのも、遺体を発見した時、たまたま傍に落ちていたからでした。きっと、順さんはあの本を読んどる間に、発作が起きて亡くなってしまったんでしょう。それを見て、トリックを思い付いたんです……。
それから、あの写真のことなんですが──ホンマは、ここに来る途中、車の中で順さんから聞かされたんです。実は写真が二枚重なっていること、そして、その二枚目の裏面にメッセージが書いてあるから、自分にもしものことがあった時に読んでほしい、と言うことを」
「では、あの文章は、事前に順一さんが用意していた物だった、と?」
「ええ。どう言った意図があったのか、今となってはよくわかりませんが……」
「では、写真を入れ替えた──と言うか、二枚目だけを残したのは、その文章に気付かせる為だったんですね。つまり、メッセージを遺書代わりにしようとしたんだ。──しかし、僕たちがそれを確認する前に、弥生さんが部屋から出て来られたので、先にみんなで朝食の支度をすることになってしまった。少し、タイミングが合わなかったんでしょう。だからこそ、食堂で話を聴かせてもらった時、弥生さんは再度写真を調べ直すように、我々を誘導したんですね?」
そうだ。思えばあの時、僕たちは彼女に言われ、改めて写真を調べてみることにしたのだ。
「そう言えば、元々の写真はどちらに?」
「ああ、それでしたらここに……」
弥生さんは立ち上がり、箪笥の小さな引き出しからそれを取り出された。円卓の上に置かれた写真の中では、白薔薇の精の如き少女が微笑んでいる。
──しかし、彼女が隠していたのはそれだけではなかった。
写真と共に、押子が収納されたままの注射器と、無色透明な液体の入った小瓶、そして「遺書」とだけ書かれた封筒が、卓上に並べられる。これには、僕たちは元より、石毛さんも驚いた様子だった。
「こ、これが──順さんの!」
彼は立ち上がり、封筒に手を伸ばした。
「ホンマは、石毛くんに相談するつもりで取っておいたんです。けど、決心が付きかねているうちに、兄があんなことになってしまって……。
あの日、注射器や遺書を見付けた時は、初めは兄は自殺するつもりなんやと思いました。けど、次第に、別の考えが浮かんでしまって」
「それは、もしかして──順一さんが、例の飛田の事件の犯人ではないか、と言うことですか?」
緋村が勢い込んで尋ねると、彼女は静かに頷いた。
「……はい。兄には動機があり、尚且つ私が知る限りアリバイはありません。──すでにお話したとおり、兄はあの日、石毛くんを迎えに行っていました。ここから飛田の辺りまでは、車を飛ばせば四十分ほどで着くはずです。十六時前に電話を取ってすぐ出て行ったんやから、十分犯行時刻に間に合う。──そんな風に疑い出したら、止まらなくなってしまったんです」
そして、一人ではどうすればよいのかわからず、幼馴染に相談する為に取っておいたのだと言う。もっとも、石毛さんの反応を見るに、その機会は逃してしまったのだろうが。
確かに、写真の裏の文章も含め、状況証拠だけを見れば、順一さんは十分犯人たる要件を満たしている──ように思う。
「しかし、目撃情報によると、犯人の年恰好は二十代から四十代後半だったはずです。順一さんは微妙に外れるのではないですか?」
緋村がフォローするように言った──のだが、実際ところ、その情報はどこまで当てにできるのだろうか。犯人はニット帽やマスクで顔を隠していたのだから、正確な年齢など推測しようがないのでは?
それでも、気休め程度にはなったのか、弥生さんは「ありがとうございます……」と、小さく笑った。
「何にせよ、この写真はちゃんと戻しとかなあきませんね。やっぱり、キヨカちゃんにはロビーで見守っていてもらわんと……」
彼女は愛おしそうに少女の姿を見つめる。兄や姪やその恋人がまだ生きていた頃に、想いを馳せているのだろう。
──しばし、会話が途切れた後、手に持っていた物を円卓に戻した石毛さんが、苦笑混じりに口を開いた。
「それにしても、まさかここまで言い当てられてしまうとは。正直なところ、少し緋村くんを見くびっていたようです」
同感だ。僕も、まさか本当に彼が密室の謎を解き明かしてしまうなどとは、思ってもみなかった。事前に真相を聞かされてはいたが、ここに来て二人の反応を見るまでは、完全に信じきれなかったのだ。
「まあ、ほとんど当てずっぽうですけどね。どこまで自分が正しいのか不安でしたし」
「いやいや、十分大正解やと思いますよ。──あ、ただ、一つだけおかしなことがありましてね……」
そう呟くと、石毛さんはにわかに表情を曇らせた。何か、緋村の推理に訂正すべき点があったのだろうか。
「実は──」
しかし、彼がそれを切り出すよりも先に、僕の背後にあるドアがノックされる。
「すみません、今ええですか?」
続いて聞こえて来たのは、湯本の声だった。弥生さんが応じると、彼は控えめにドアを開ける。
予想以上に人が多く驚いた様子だったが、すぐさま申し訳なさそうな顔で、意外なことを言い出した。
「あの、冷やしてもらってるスイカなんですけど、今取って行っても大丈夫ですか?」
「スイカですか? ──ええ、構いませんよ。何でしたら、食べやすいように切りわけてからお出ししましょうか?」
「あ、いや、そのままでお願いします。その、スイカ割りに使うので……」
スイカ割り? こんな時に?
おそらく、四人とも同じ疑問を抱いており、尚且つ顔に現れたのだろう。湯本は気まずそうに短髪を掻きつつ、
「すみません、非常時やのに。──ただ、うちの部長がどうしてもやるって聞かなくて……」
「けど、こんな天気じゃスイカ割りなんてできないんじゃ」
言いながら窓の方に目を向けると、なんと雨が止んでいるではないか。しかも、濁った雲間から、幾らか晴れ間が覗いており、天候は回復に向かっているようだった。
窓辺に置かれた青薔薇も、陽の光を一身に浴びており、匣の中で生まれ変わろうとするかの如く、それ自体が輝いて見えた。
「あら、いつの間にか止んでたんですね」頬に手を当た弥生さんが呟いた。「でしたら、私共のことは気にせず、みなさんで楽しんでください。スイカは厨房にあるんですが、私も一応付いて行きますね」
恐縮しきった様子の湯本と共に、彼女は部屋を出て行った。自分たちの犯行──とは言え、全く悪意の介在しない行為なのだが──を暴かれた後とは思えないほど、晴れやかな顔付きをして。
「『部長が』ってことは、佐古さんが言い出したんだよな? 案外子供っぽいって言うか、かなりマイペースみてえだな」
確かに。なんだか、一気に毒気が抜かれてしまった。
「ところで、さっき言いかけていたのは何だったんですか?」
思い出したように、緋村が尋ねる。
すると、石毛さんは腕組みをしながら、一人むつかしい顔で首を捻っていた。
いかにも「釈然としない」とばかりに。
「それがですね、私にも不思議なんですが……」
そんな前置きをしてから、彼はまるで怪談話でもしているかのように、青褪めた顔で唇を戦慄かせた。
「あの電話、私が見た時には──すでに壊されていたんですよ……」
──瞬間、僕はその言葉の意味を理解することができなかった。
そして、数瞬置いて理解が追い付いた途端、ゾォーッと総毛立つのを感じた。緋村も似たような感覚を味わっているのか、ほとんど睨み付けるような勢いで、唖然と相手の顔を見つめている。
食堂の方から、誰かが談笑する声が聞こえて来た。風が止んだように静まり返った部屋の中、ドアの外とのアンビバレンツに気付く余裕すらなく、僕は転がり出した無意識で考える。
もしかしたら──本当の殺人劇は、まだ幕を開けてすらいないのではないか、と。