シミ②
その後の昼食にも、山風と畔上の姿はなかった。畔上はともかく、山風の方はあんなやり取りの後で、僕たちと顔を合わせるのが気まずい、と言うのもあるのかも知れない。
唯一、朝食抜き組の中で、湯本だけは食欲が沸いて来たらしく、しれっと食卓に着いていたが。
昼食には、予定どおり野ウサギのジビエが供される。とても美味だった──はずなのだが、事件のショックが抜けきっていなかった為か、正直味はよくわからなかった。
──全員の食事が一通り済んだところで、緋村が座に声をかけた。
「食堂を出て行かれる前に、みなさんにお伝えしたいことがあります。さほどお時間は取らせませんので、少しだけここに残っていただけますか?」
「お伝えしたいこと? ──もしかして、事件の真相がわかったとか?」
あくまで軽口の一環と言った口調で、木原さんが尋ねる。
しかし、緋村はあくまでも無表情で、
「ええ。わかってしまいましたので、一応報告しておかなくては、と。みなさんも、気になっているのではないですか? 本当は、何があったのか」
「そりゃあ、そうやろ。自分たちが巻き込まれた事件なんやから」頬杖を突きながら、須和子さんが切り返した。「少なくとも、うちは知りたいわ。いったい誰が犯人なのか、そして──どうやってあの密室を作り出したのか、な」
挑発的な視線を向け、彼女はそう結んだ。その言葉に、木原さんたちは少なからず驚いたらしい。死体を発見した人間以外は、現場が密室状態だったことを知らないのだ。
「密室? ──じゃあまさか、現場は密室だったんですか⁉︎」
「ああ。それも、閉じたドアの中にその部屋の鍵があるって言う、むっちゃベーシックな密室や。……ただ、なかなかどうして堅牢でなぁ。さっき幾つかトリックのアイデアが出たんやけど、どれも実際の状況には当て嵌らんかった」
「へえ、それはますます気になりますねぇ。さっそく、聴かせてもらいましょうよ。彼の推理とやらを」
他の者も、緋村の辿り着いた真相とやらに、興味がある様子だった。
無論、それは僕も同じなのだが、同時に聞くのが恐ろしくもあった。もし、緋村の指摘した犯人が、彼女だったら……。
僕はまだ、例の硬貨のことを、須和子さんに確かめられずにいた。迷っているうちにズルズルとタイミングを逃し、五セントユーロは今も、ポケットの中だ。
とは言え止めることもできず──緋村は朗々たる声音で、語り始める。
「回りくどいのはあまり好きではないので、単刀直入に行きます。今回の事件ですが──犯人はいません」
いきなり予想だにしない発言が飛び出した。他の者も完全にノーマークだったのだろう、みな咄嗟に反応できずに、奇異な物を見るような目を彼に向けている。
「い──いやいや、それはおかしいやろ。今朝ここで聞かされた時には、事件性があるって言う話やったやないか。なのに、犯人がおらんなんて」困惑した様子の湯本が尋ねる。
「ああ、今のは俺の言い方が悪かったな。──つまり、俺が言いたいのは、本当は殺人なんて起きてなかったってことだ」
しかし、順一さんが胸を刺されて亡くなっていたのは、紛うかたなき事実だ。
まさか、緋村が言っているのは──
「……つまり、兄の死は自殺やったと仰るんですね?」
彼女の視線をまともに見返し、緋村は頷いた。
「ええ。それ以外に考えられません。──順一さんは、謂わば『他殺に見せかけた自殺』を実行したのです」
「し、しかし、凶器はどうなるんです? あの部屋の中からは、見つからなかったはずですよ?」と、今度は石毛さんが訝るような顔で尋ねた。
「それに、血痕の問題もある。もし仮に、順さんが自らの胸を刺した後、最後の力を振り絞って窓から投げ捨て、その後窓の鍵を閉めのだとしたら、必ず床の上やクレッセント錠なんかに血が付着するはずでしょう? やのに、実際には傷口の周り以外には、全く血痕は見られへんかった。──これはつまり、順さんを殺した何者かが、犯行後血を拭き取ったと言う証拠やないんですか?」
「違います。先ほども現場で言いましたが、死体を隠そうとしていないことと矛盾します。血を拭き取ると言う行為は、事件の存在を隠蔽したい時に取る行動ですから」
「じゃあ、凶器はいったいどこに」
「あったんですよ。まだ、現場の中に。僕と若庭は、先ほどそれを発見しました」
先ほど発見した──と言うことは、やはりアレが凶器だったのか。
「その凶器の半分は、こいつです」
そう言って、緋村は事前に現場から持ち出していた『虚無への供物』を掲げてみせる。しかし、その奇書が「凶器の半分」とは、どう言う意味なのだろう?
「注目していただきたいのは、背表紙のこの部分。少々わかり辛いかと思いますが、タイトルの真ん中の辺りに、小さな痕が付いています」
その言葉に、何人かが身を乗り出し、彼が示した場所を見つめる。
「……ホンマやな。確かに、何かを細い物を押し付けたような痕がある。──けど、それがどうしたんや? まさか、ホンマの死因は脳震盪とかで、鈍器として用いられたとでも言うんやないやろな? いくら分厚い本やからって、さすがにそれは無理やろ」
佐古さんの問いに、緋村は本をテーブルに置きつつ答える。
「もちろん、違います。……ですが、人を昏倒させるのは無理でも、ハンマーとして使うことは、可能だと思いませんか?」
「ハンマー?」
「ええ。──犯人、と言うか順一さんは、この本の背表紙で、自らの胸に凶器を打ち込み、自殺したんです」
彼が言い放った瞬間、誰もがハッと息を呑むのがわかった。本の──それも奇書の背表紙をハンマー代わりに使い、自殺する。その異様な光景を想像し、僕は慄然とした。
──暗い部屋の中、シルエットとなった順一さんが佇んでいた。その右手には、一冊の分厚い文庫本が。ほどなくして、静かに呼吸を整えた彼は、無言のままそれを振り上げ──自らの左胸に、力一杯振り下ろす。
堅く閉ざされた密室の内側で、彼は崩折れた。その時の物音も、わずかに漏れたかも知れない呻きも、全て雨音に掻き消されてしまっただろう。
彼は誰にも知られることなく、自らの意思で、虚無へと旅立ったのだ。
「……こうすることで、あたかも何者かが順一さんを刺殺し、凶器を引き抜いたように見える。実際には、打ち込まれた物は、まだ死体の左胸に残っていたわけですが。
また、極端に血痕が少なかったのもこの為です。胸に刺さった凶器が栓の役割を果たしているが為に、あまり血が出なかったのでしょう」
「そ、それは何やったんですか? 順さんが使ったんは、いったい」
「……おそらく、ナイフの刃かと思います。順一さんは、折りたたみナイフを解体し、刃の部分を楔のようにしたのでしょう。──昨日、若庭が、順一さんが折りたたみナイフを持っているのを見たと話していましたから」
僕は思い出す。「病める薔薇」を踏み潰していた彼の手の中で、鈍く煌めくナイフの刃を。
そして、何故か、直感として確信することができた。順一さんの傷の中に埋もれていた異物は、あの冷たい刃だったのだ、と……。