シミ①
再び背中を向けた緋村は、コルクボードにかけられたマスターキーを観察しているらしい。この部屋の物同様年季が入っている程度で、特に変わった様子は見られなかった。
──結局、大した収穫を挙げられないまま──むろん、僕が密かに発見した五セント硬貨は別にして──、緋村は現場検証を終えようとしていた。
と、その時。
戸口に石毛さんが現れた。
「どうも。弥生ちゃんから、ここにいてはるって聞きました。──どないですか、成果のほどは」
「残念ながら、特になにも」
「そうですか……。なかなか簡単にはいかないものですね」
落胆しているのではなく、素人探偵を気遣うような口調だった。
「ところで、昨日の順一さんの様子について、何か普段と変わったところはありませんでしたか? 幼馴染の目から見て、気になったことなどがあれば、教えてください」
先ほど弥生さんから聞いた、遺書の件を受けての質問だろう。彼は本当に自殺の準備をしていたのか。そして、もしそうだとしたら、それが何か事件と関係しているのか……。
「そうですねぇ、別段いつもと変わらなかったとは思いますが……。強いて言えば、飲み会の時に嵐を気にしとったくらいですかね。『心配やなぁ』って」
彼も「薔薇の遺児」たちが蹂躙されてしまわないかと、気を揉んでいたのだろう。いずれにせよ、あまり事件とは関係ないようだ。
緋村は早々に質問をシフトさせる。
「では、昨夜──特に犯行があったであろう深夜はどうでしたか? 何か物音を聞いたり、異変に気付いたりは?」
「さあ、どうでしょう……みなさんが仰っていた揺れには気付きましたけど、そのすぐ後くらいに寝てしまったので」
「徹夜で仕事をなさっていたんではないんですか?」
「ええ。初めは朝まで頑張るつもりやったんですけとね。結局睡魔に負けてしまいました」
悪戯が露呈した少年のように、彼はモジャモジャの髪を掻き回しながらはにかむ。夕食の際に言っていた「山籠り」とは何だったのか。
それから、数拍置いて問いの意図に気付いたらしく、
「ああ、もしかして昨日と同じ格好やったから、徹夜で仕事してたんやと思ったんですか? せやったら、黙っとった方がよかったかな。──いやね、本当は単に着替えるのが億劫だっただけなんですよ。こう見えて──どう見えとるかはわかりませんが──結構ズボラなんです。普段から何日も着の身着のままでいることもザラですし、無精髭もよくほったらかしにしとりますね」
そう言われてみれば、今朝も髭を剃った形跡がない。電車を寝過ごした件と言い、「いいかげん」と言う弥生さんの評価は、あながち大袈裟ではないのかも知れない。
いずれにせよ、大した情報は出て来そうになかった。
最後に、緋村は八月一日のことを尋ねる。
「あの日は、ホンマに久しぶりにここで花火を見たんですよ。ちょうど前日──三十一日に帰って来たんですけどね。家から出ずに資料の整理やら仕事の連絡やらをした後やったんで、帰国してから最初に出かけた場所ってことになります。……何と言いますか、三人とも童心に返ったようでしたよ。幼い頃、毎年一緒にPL花火を観ていたことを思い出して……」
弥生さんの話をなぞるかのような答えだった。その声は次第に湿り気を帯びて行ったが、感情が溢れ出すよりも前に、言葉を切った彼は一つ息を吐いた。
僕と緋村が礼と謝辞を述べる。
「いえ、こちらこそお役に立てず、面目ないです。……にしても、わからんことばかりですね。密室にしろ動機にしろ、私にはサッパリです。──それに、犯人が凶器をどうしたのかも」
「そのことなんですが……一つ、奇妙に思っていることがあるんです」
そう前置きした彼は、僕と石毛さんを等分に見据えながら、
「血です。犯人は順一さんを刺した後、凶器を引き抜いたはずです。それなのに、死体の左胸以外に全く血痕が見られないなんて、おかしいと思いませんか?」
言われてみれば、確かに妙だ。凶器を引き抜いたのなら、普通はもっと、血が噴き出したり、滴り落ちたりして、死体の周囲に痕跡が残る物なんじゃないのか?
「今回の場合、犯人は順一さんの遺体をそのまま放置しています。つまり、事件を隠す意思はなかったはずですから、犯人が拭き取ったとも考えられません」
「た、確かに、変ですね。──もしかして、順さんが殺されたのは、別の場所なんやないですか? つまり、犯人は本当の犯行現場で凶器を引き抜き、完全に血が止まってから、順さんをここへ運び入れた、とか」
「しかし、どこかから運んで来たような形跡は見られませんし、そうするメリットも考え付きません。明確な証拠はありませんが、犯行現場はこの部屋で間違いないと思います。
それに、もし別の場所で殺害されたのだとしても、ここまで血で汚れてないと言うのは変ではありませんか? 血が付着しているのは、順一さんの左胸だけなんですよ? ──普通、胸を刺されたのなら、傷口を触ってしまうなどして、服や手にももっと血が付くはずです。これではまるで──」
言いかけた彼は、突如消音したかのように、言葉を失ってしまう。それどころか何もない宙空を見つめたまま、青褪めた表情で凍り付いているではないか。
「……そう、か。それなら……」
血色の悪い唇を痙攣させるように呟いたきり、緋村は再び黙り込む。口許に手を当て、何事か思案しているらしい。
いったい、どうしたのだろう? 何かに気付いたのか? ──わけがわからず、僕と石毛さんは顔を見合わせた。
すると、彼は唐突に顔を上げ、
「石毛さん。今から僕がすることに、目を瞑ってもらえますか?」
「は、はい? ──いったい、何を」
「確認ですよ」
言うが早いか、彼は遺体の傍らに跪き、被せてあったシーツを引き剥がした。
そして、あろうことか、順一さんのシャツのボタンを外し始めたではないか。
「お、おい、緋村! そんな風に死体を弄ったら」
「関係ねえよ──警察にさえ言わなければな」
答えている間も少しも手を止めず、彼は一思いに、シャツをはだけさせる。丸まった背中側から覗き込むと、白い肌着の左胸にも、薔薇の花弁のように血が滲んでいるのがわかった。
──緋村は躊躇うことなく、肌着を捲り上げた。
蒼白い痩せた胸板が露わになり、小さな傷が見て取れた。僕は、もちろんそのオゾマシイ場所から目を逸らしたかった──が、何故かそれができない。
またしても、意識が体の制御を手放したのだ。
傷は数センチほどの細い裂傷で、あまり痛々しさはなかった。暗褐色に変色した血が、周囲にコビリ付いている。
──そして、僕はその傷の内側に、奇妙な物体を発見した。
異質な光沢のある、細い何かが、赤黒い肉の隙間から覗いているのだ。
あの、生物感の一切ない質感は──金属か? ……しかし、いったいどうしてそんな物が、死体の胸の中に?
「……やっぱり、そうだったのか」
一人納得したように零した彼は、肌着だけ元に戻すと、今度は何を思ったか、反対側へ回り、『虚無への供物』を取り上た。そして、どう言うわけか、背表紙をジッと凝視する。
「──あった、これか」
またしても、何かを見付けたらしい。
慌ててそこを見てみると、白い文字が記されたタイトルの真ん中辺りに、二センチほどの筋が付いているのがわかる。おそらく、緋村はこの何かの跡を見付けて呟いたのだろうが、いったいこれがどうしたと言うんだ? ただの傷にしか見えないが……。
「緋村、もしかして──真相がわかったのか?」
「ああ、どうやらそうらしい……」
奇書を床に戻しつつ、曖昧な返事を寄越す。その声には、真実を掴んだ喜びは微塵も感じられず、異様にも思えるほど無機的だった。