ロストマン②
別の地域に移り住んだ被災者への虐めと言う物が存在することは、僕も知っていた。テレビの報道でそれを知った時は、全く自分とは関係のないことだとしても、素直に憤りを感じた。大切な人やかけがえのない物を失い、命からがら生き延びた者に、何故そのような心ない仕打ちができるのか、と。
「何の根拠もない、しょーもない噂です。キヨカちゃんは、別に原発の近くに住んでいたわけでもありません。……ですが、それでもこの手の話は広まりやすい。信じる信じないに拘わらず、そうした文言があると言うこと自体が、重要なんでしょうね」
憤懣やる方ないと言った風に、彼女は虚ろな笑みを浮かべた。
──根も葉もない噂話が、人を苦しめる。確か、被災者に対する虐めの中には、「義援金をもらっており、金を持て余している」と言う根拠薄弱な理由が、虐めや差別に発展するパターンもあった──と、聞いたことがある。しかも、それは生徒や児童──子供たちだけで言っているのではない。多くの場合、彼らの親が話しているのを耳にして、影響を受けたのだとも。
──これが「悪」でなくて、いったい何だと言うのか。
「……結局、私も兄も、虐めについては最後まで気付けませんでした。キヨカちゃんが隠し通していた、と言うのもありますが……気付いた時には、彼女はあの廃墟の中で」
「あの廃墟? ──それでは、キヨカさんは《バブルランド》で……?」
「ええ。あのスケートリンクの真ん中で、手首を切っていました。兄のナイフを使って……」
スケートリンク──僕はMike the HeadlessのPVを思い出す。彼女はあんなに淋しい場所で、投棄物に囲まれながら、自ら命を絶ったのか……。
「今でもよく覚えています。私たちが見付けた時、キヨカちゃんはお気に入りの白いワンピースを着ていて、しっかりとお化粧もしていました。死んでいるのが信じられないほど綺麗で、おかしな表現ですが、まるで──」
「ウエディングドレスのようでした」と、彼女は結んだ。
話を聞いているうちに、順一さんが廃墟探索に向かおうとした木原さんたちを咎めた理由が、わかった気がする。彼にとってあそこは愛する娘が自ら命を絶った場所だ。特別な想いがないわけがない。
「兄は、キヨカちゃんのことを、相当後悔していたと思います。虐めに気付いてあげられなかった自分を、いつまでも責め続けていたようですから。──兄が憎んでいた三人目の人間と言うのは、兄自身のことなんです」
弥生さんはそう言って一息ついた。
すると不意に、耳の奥で、昨日の順一さんの独語が蘇る。
──いやぁ、どうしていつも、気付いた時には手遅れなんですかねぇ。
あれは、病める白薔薇と喪った娘のことを重ね合わせての発言だったのではなかろうか……。
「……それに、兄だけではありません。当時キヨカちゃんと付き合っていた男の子も、そのことがキッカケで精神を病んでしまって……。一時期は自殺未遂なんてこともありました」
「ロビーに飾ってある写真を撮影した方ですね? その方は、今はどちらに?」
「それが……彼も、すでに亡くなっているんです。もう、二年前も前のことです」
──また、死者の話をさせてしまうのか。
この家族は、あまりにも人の死に触れすぎている。
「彼──錫宮平司くんと言うんですが──は、元々ここでアルバイトをしてくれていました。働き始めた当時は大学生で──そう、ちょうどみなさんと同じ、阪南芸術大学の生徒やったんですよ? 写真を撮るのが趣味で、この辺りの景色や、《バブルランド》の廃墟なんかも、よく撮影していました」
「と言うことは、写真学科の方で?」
「あ、いえ、確か文芸やったはずです。兄ともよく小説の話で盛り上がっていましたから。──物静かなんですけど、思い遣りのある文学青年って感じでした。ある意味では、兄と少し似ていたのかな、と思います」
言ってから、「あそこまで根暗ではなかったですけどね」と苦笑する。その表情は、辛い思い出を語っていると言うよりは、幸福だった日々に思いを馳せている、と言った風に見えた。
「でも、意外と行動力は凄くて、働いているうちに料理人を目指すことを決めてからは、すぐに大学を辞め、海外に修行の旅に出たくらいです。キヨカちゃんと付き合い出した時も、まっさきに兄に報告して……兄の方も彼の人柄を知っていましたから、安心して任せていたようです。親公認と言う奴ですね」
「なるほど。では、行く行くは《マリアージュうたかた》の跡取りになるかも知れなかったわけですね?」
「ええ。──ですが、二年前、料理修行をしていた国で亡くなってしまいました」
「それは、もしかして自殺だったんでしょうか? 先ほどそう言った話が出ましたが……」
「あ、いえ、違うんですよ。事故、らしいですから。──ただ、キヨカちゃんが亡くなったばかりの頃に、後追い自殺を図ったことがあったみたいで……。
当時、彼はすでに海外にいて、訃報を知ったのも向こうでした。それで、すぐに帰国したんですが、その後一ヶ月間ほど、誰にも何も告げずに、どこかへ行ってしまったんです。私は警察に届けを出した方がいいんじゃないかと提案したんですが、兄が『好きにさせたろう』と言うものですから、結局、彼が帰って来るまでただ待っているだけでした。──戻って来た錫宮くんは、かなりやつれていて……まるで何年も放浪していたかのように見えました。……彼がいったい、どこで何をしていたのかはわかりません。本人は何も言いたがりませんでしたし、私たちから尋ねることもありませんでしたから。ただ、久しぶりにここへ来た彼は、悲しそうに笑いながら、一言、『死ねませんでした』とだけ……」
恋人を失った若者は、死に場所を求めて彷徨っていたのかも知れない。しかし、当てのない放浪の末、彼は彼女のいない世界で生き続けることに決めた──そうすることしかできなかったのだ。
──災害に、虐めや自殺、そして今回の殺人事件。悲劇的なエピソードが頻出し、ただ聴いているだけで気が滅入って来る。
と、同時に、ふと例の、実体二元論の泡の喩えを思い出していた。
絶対無限の淀みを揺蕩う、泡沫の中に、僕たちは生きているのだと──
「ところで、一つ気になっていることがあるんですが……」言いながら、彼はこちらに目配せして来る。お前から訊けと言う意味なのだろう。
僕は、偶然言い争うような声を聞いてしまったことを伝え、それが何だったのか教えてくれませんかと訊ねる。
弥生さんは、しばし困ったような様子で言い淀んでいたが、ほどなく意を決したらしい。
「……お恥ずかしいところを聞かれてしまいましたね。すみません。──実は、一昨日兄の部屋である物を見付けてしまいまして、私がそれを勝手に捨てたことで、兄に怒られていたんです」
「ある物? それは、何だったんですか? ──もしよかったら、教えていただけませんか?」
「……注射器、です。それと、遺書と書かれた封筒……」
注射器と遺書? それではまさか、順一さんも──
「……兄は、きっと自殺するつもりなんやと思いました。それで、私は兄がアホなことしてしまう前に、勝手に処分してしまったんです」
「ですが、本当に順一さんは自殺するつもりだったのでしょうか? 以前から、そんな兆候でも?」
「さあ、わかりません……。でも、わからないからこそ、不安になりました。ずっと近くにいながら、私は兄のことを少しも理解できていなかったのではないか、と……。──もしかしたら、キヨカちゃんを喪ってからの人生は、兄にとって無味乾燥な物だったのかも知れません。……いえ、むしろ、苦痛でさえあったのかも……」
首筋に手を当てたまま、彼女はすっかり湯気の消えたコーヒーの水面に目を落とす。完全調和の世界を切り取ったかのような、黒い淀み。それはあたかも、彼女の大切な者たちが旅立って行った、無限の「虚無」のような──
「……実を言うと、少し後悔しているんです。こんなことになるくらいだったら──誰かに殺されてしまうくらいやったら、いっそ楽に死なせてあげればよかったんやないかって……。少なくとも、あないな苦しそうな顔で死ぬこと、なかったはずですから……」
呟いたきり、弥生さんは口を噤んだ。重苦しい沈黙が降り立ち、時計の音や窓の外の雨音が、やけに鮮明になる。
──それにしても、順一さんは本当に自殺するつもりだったのだろうか? キヨカさんの後を追うのだとしたら、五年も経つ前に実行しているのでは?
口論の原因がわかった代わりに、また新たな疑問が生じてしまった。