ロストマン①
弥生さんは食堂にいた。コーヒーを淹れて一人で飲んでいたらしく、薄く湯気の立つマグカップを目の前に置いたまま、ボンヤリと窓の外を眺めている。
雨は未だ降り続いており、真夏とは思えないほど肌寒く感じられた。
──僕たちが声をかけると、そこで初めて気が付いたらしく、彼女はハッとこちらを向いた。
「あ、すみません。──何かご用意ですか?」
「はい。少し伺いたいことがあるんですが……よろしいですか?」
「はあ。……どうぞ、おかけください。お二人も、コーヒーでよろしいですか?」
コーヒーを淹れてくれようとするのを慌てて辞し、緋村はさっそく本題に入る。
「順一さんのことは、本当にご愁傷様です。──僕は、できればこの事件の真相を、可能な限り自分たちで調査したいと考えています。そこで、もし差し支えなければ、幾つか質問させていただけないでしょうか? もちろん、ご気分を害されるようであれば、答えていただかなくて結構ですので……」
「……そう、ですか。──わかりました。私は大丈夫ですから、何なりとお訊きください。私も、兄に何があったのか知りたいんです。……むしろ、兄の為にそこまでしてくださる方がいるやなんて、ありがたいくらいですよ」
意外なほどあっさりと、彼女は快諾してくれた。気丈に振る舞っているのは、それだけ芯が強いのか、あるいは無理をしているのか……。
とにかく、僕たちは改めて礼を述べ、事情聴取を始めさせてもらうことにした。と言っても、聞き手は主に緋村だったが。
「ではまず──いきなり不躾な質問で申し訳ないのですが、順一さんが殺害された理由について、何か心当たりはありませんか? 誰かの恨みを買っていたと言うことは? どんな些細な物でも構いませんので、教えてください」
「兄を恨んでいた人物、ですか……」彼女は頬に手を当ててしばし考え込む。「……私の知る限りでは、そのような人はいないと思います。もちろん、兄妹だからと言って、人間関係の全てを把握しているわけではありませんが」
「そうですか。──では反対に、順一さんが誰かを憎んでいた、と言うことはありませんでしたか?」
今度の問いは、当たりだったらしい。 弥生さんの表情が、俄かに強張る。
「……なかった、と言えば嘘になります。少なくとも、三人はいました。兄が、心の底から憎んでいたであろう人間が」
「それは誰のことなんでしょうか? 今、ここに滞在している人間と関係があると言うことは……?」
「い、いえ、そうではありません。──それに、そのうちの二人は、もうこの世にはいませんから」
意味深長なフレーズが飛び出した。さすがに緋村も面食らった様子で、相手の顔を見返す。
視線をテーブルに這わせた彼女は、やがてポツポツと語り始めた。
「兄の娘──キヨカちゃんは、今から五年前に亡くなりました。……それも、普通の死に方をしたのではありません。虐めが原因で、自殺してしまったんです」
「では、順一さんが恨んでいたと言うのは……」
「……虐めの主犯となったクラスメイトは、二人いたそうです。と言っても、学校側はずっとその存在を否定していたので、そのうちの一人の名前しか、ハッキリとはわかりませんが……。──とにかく、兄は彼女たちを恨んでいた、と思います。それこそ、殺したいほどに」
そこで面上げた弥生さんは、皮肉っぽい笑みを浮かべ、
「でも、兄は先を越されたようですけどね。……その主犯の一人は、今月の初めに、誰かに殺されてしまいましたから」
「殺された?」
「ええ。──この間あった、飛田での事件の被害者。彼女が、キヨカちゃんを自殺に追い込んだ元クラスメイトの一人やったんです」
飛田での事件の被害者──宇佐見愛里紗と言う名の風俗嬢か!
まさか、現実に起きた二つの密室殺人に、そんな接点があったなんて。僕は何か、巨大なカラクリの片鱗に触れたような、奇異な感覚を味わっていた。
「驚きましたか? 私も、事件のことを知った時はビックリしました。まさか、キヨカちゃんを虐めていた娘が、誰かに殺されてしまうやなんて……」
「では、虐めの主犯格のうち、名前がわかっていた方が彼女だったわけですね?」
「もっとも、あないなところで働いていることや、こっちに帰って来ていたことは、私どもも知りませんでしたが……」
「宇佐美さんは、どこか別の場所に?」
「確か、高校を卒業した後すぐに東京へ行っていたそうです。それこそ、大阪から逃げ出すように……。でも、いつの間にか地元に帰って来ていたみたいですね。職場へは、どうやら実家から通っていたらしいですから」
と言うことは、当然ながら家族には内緒であの仕事をしていたのだろう。実家で暮らしつつ風俗で働く女性が多いとは思えない──が、案外少なくもないのかもなと、どうでもいいことを考える。
「なるほど……。宇佐美さんの地元と言うのは、この山の麓の辺りなんですか?」
「いえ、どちらかと言うとK駅寄りの方だったはずです。私も詳しくは知りませんが、キヨカちゃんが通っていた高校はそちら側から来る生徒も多かったので」
「そうですか……」呟いた緋村は、暫時黙り込んだ。思案投げ首の体だが、何か引っかかったと言うよりは、次の質問を迷っている様子だった。
ややあって、彼は無機的な面差しを上げ
「では、もう一人のクラスメイトついては? 何かご存知のことはありませんか?」
「さあ、そちらの娘に関しては、あまりよくわかっていなくて……。ただ、みっちゃん──石毛くんが調べてくれたんですが、その女生徒のイニシャルは、“Y”やったみたいです。苗字なのか名前なのかは判然としませんが」
「Y、ですか……」緋村が低い声で繰り返す。そのクラスメイトの「Y」こそが、順一さんが恨んでいた人間の二人目と言うことか。
それにしても、どうしてキヨカさんは虐めの標的となってしまったのか。明確な原因があったのか、もしくは運悪く、理由なき悪意を向けられたのだろうか……?
同じ疑問を、緋村が投げかける。
「……全ては、あの震災が悪いんやと思います。七年前のあれさえなければ、きっとキヨカちゃんは虐められずに済んだし、自ら死を選ぶこともなかった。それに、義姉さんも──キヨカちゃんのお母さんが亡くなることも……」
「どう言う意味です? 七年前の震災と言うと、東日本大震災のことですよね?」
「ええ。──キヨカちゃんが小学校高学年の頃に、兄たちは離婚し、キヨカちゃんは義姉さんに引き取られました。義姉さんの実家は福島にあって、キヨカちゃんはそこで被災したんです。そして、同時に義姉さんを──お母さんを失ってしまいました」
キヨカさんが被災者だと言うことはわかったが、そのことがどう虐めに繋がるのか。
──その答えは、想像もできなかったほどの「悪」だった。
「その後、身寄りをなくしたキヨカちゃんは、もう一度兄さんと暮らすことになり、急遽大阪の高校へと進学しました。そして、そこで、『被災地から来た』と言う理由だけで、虐めに遭ったんです」
「それだけのことで?」
「はい。──正確には、ある心ない噂が流れたせいらしいですが……」
辛いことを思い出しているのだろう、弥生さんはそこでわずかに言い淀む。
「……キヨカちゃんは生れ付き難病で、脚の筋肉がとても弱かったんです。一人で歩くことはできるんですが、よろけるような感じでした。走ることなんてもっての外で、当然ですが、体育の授業や運動会は、全て見学です。……そして、そんな姿を見た高校のクラスメイトが、こんなことを言い出したそうです。──『震災の時に放射性物質の影響で、体がおかしなったんやないか』って……。──それが、虐めの始まりやったそうです」
予想だにしなかった言葉に、僕たちは咄嗟に反応することができない。全く想像もできなかったほど、そこには悪意が満ちていた。




