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悪の問題〜あるいはYの悲劇’18〜  作者: 若庭葉
第二章:虚無への旅立ち
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漂流教室①

 妖女(ニュムペー)たちが荊の蔓に絡まる下で、青薔薇の化身じみた怪人が弦楽器を構えて佇むと言う、あの不気味な──でありながらも、酷く魅力的な──装丁の一冊。それがどう言うわけか、殺人事件の現場に現れたのだ。

 いや、もちろん初めからこの部屋にあった物と言う可能性もある──実際、後からそうだとわかった。入り口側から見て左手に壁一面を埋めるほどの書架があり、元々そこに収まっていたのだ。……しかし、「現われた」としか表しようがないほど、その存在は異彩を放っていた。

 ──僕はふと、須和子さんの財布の中に紛れ込んでいた異国の硬貨を思い出す。

 何か、別世界の事物が、知らぬ間にこちら側に侵入していたかのような──

「とにかく、すぐに警察へ通報しないと」

「そ、そうですね。では、私が」

「いえ、僕がかけて来ます。石毛さんは弥生さんの(そば)に……」

「……わかりました。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」

 彼らのやり取りは聞こえて来ていたが、それはただ鼓膜を揺らす音でしかなく、脳には届いていなかった。意識の支配を離れた僕の体は、無意識の赴くままに動き、床に落ちていた「奇書」を手に取る。

「──おい、お前勝手に」

 緋村が僕を咎めたようだったが、一度転がり出した無意識は止められない。

 抗い難い魔力に惹きつけられるように、僕は本を開いた──

 途端に、ページの間から何かが落ちて来た。

 それは瞬く間にフローリングにぶつかり、カンッと高い音を立てる。

「──え?」

 まるでそれが催眠術を解く合図だったかのように、僕はそこで我に返った。

 そして、足元に転がったそれ──()()()()()()()()()()に目を落とす。

 頭の部分に短いストラップが括り付けられており、その先には手作りらしき薔薇を象ったプラ板が。

「こ、これは……」

 うわ言のように呟き、廊下を振り返った。

 すると、弥生さんがヨロヨロと歩み出て、蒼白い顔で床の上の鍵を覗き込む。

「──ま、間違いありません。この部屋の鍵です……」

「マスターキーは? 順一さんが管理されているとのことですが」

 すぐさま緋村が尋ねると、彼女はわずかに震えた指先で、向かって右側、勉強机の(そば)の壁に設えられた、コルクボードを示した。そこには、この部屋の物はとよく似た鍵が一本、車の鍵や乱雑に留められたメモなどと共に、フックに吊るされている。

「あれです。あれが、この宿舎のマスターキーなんですけど……」

 彼女の赤く腫れた瞳が、兄の亡骸を避けるように動きながら、部屋の窓を見やった。

 吊られて目を向けると、薄く開いたカーテンの間に見えるクレッセント錠が、しっかりと下りているのが確認できた。

 窓は内側から施錠されており、ドアの鍵は部屋の中にあった。おまけに、先ほど窓から中を覗いた時、僕は掛け金が下りているのを確認している。

 まさか、犯人はまだ──

「緋村くん」

 同じ考えに至ったのだろう。廊下の方から、石毛さんが呼びかける。

 緋村は目顔で頷くと、そちらに近付き、「斧を」と言って手を差し出した。それを受け取った彼は、再び室内を見渡す。

 人が潜んでいられそうなスペースは、右手の奥にあるクローゼットと、反対側のベッドの下くらいか。

 まず先にクローゼットへと歩み寄った緋村は、特に躊躇いや間を作ることなく、その扉を開けた。

 ──が、そこに誰かが隠れているようなことはなかった。それどころか、コートの一着もかかっていないようで、薄暗がりの中には、使わない物をしまってあるらしいダンボールが、二、三個置かれているだけだ。

 戸を閉めた緋村は、今度は床に這い蹲り、ベッドの下を覗き込む。一応、華奢な人間であれば入り込めそうではあったのだが──

 立ち上がり、振り返った緋村は、「いませんね」と無感動に呟いた。まるで、初めからわかっていたかのように。

「け、けど、おかしない? 誰も隠れとらんなんて。それじゃあ、まるでこの部屋は──」

「……密室」

 須和子さんの言葉を引き継ぐように呟いたのは、意外にも日々瀬だった。

 僕はわけもなく、緋村の様子を窺う。

 しかし、その顔には表情らしき物は見当たらない。

「電話、お借りします」

 それだけ告げると返事を待たずに、彼は閉じていた部屋を出て行ってしまった。


 ※


「緋村」追いた背中に呼びかける。「君は──どうしてそんなに冷静なんだ?」

「……そう見えたか。一応、これでもすげえ動揺してるよ。ただ、突然のことすぎて、うまく顔に出せないだけさ」

 本当だろうか? 確かに、死体を発見した時は狼狽していた様子だったが、それ以降は普段にも増して淡々としているではないか。

 改めて、よくわからない奴だと思う。自分と同じ、ただの怠惰な学生のはずなのだが──彼の振る舞いには、どこか異質なモノを感じた。

「まさか、事件に巻き込まれるのはこれが初めてじゃない、なんて言うんじゃないだろうな?」

「ねえよ。紛うかたなき初体験だ。──微塵も嬉しくねえな」

 それはそうだろう。僕だって、ミステリが好きな以上、不可思議な事件に巻き込まれ、それを解決してみたいと思ったことは、一度や二度ではない──が、実際に目の前で起きたとなると、全く喜ばしくない。と言うか、衝撃が強すぎて、それどころではなかった。

 脳裏に焼き付いた順一さんの死に顔を懸命に振り払いながら、僕は廊下を進んだ。

 ──ほどなくして、再びロビーに到着する。

 真っ先にカウンターへ向かったが、どうしたわけか、そこにあったはずの電話機が、見当たらないではないか。

 いったいどこに消えたと言うのか──勝手になくなるわけはないのだから、誰かが持ち去ったのか? 慌てて周囲を見回すと、それは存外すぐに見付けることができた。

 が、しかし──

「酷えなこりゃ……」

 彼が呟いたとおり、カウンターの足元に置かれていた電話機は、酷い有様だった。先ほど僕たちが持って行った斧を使ったのだろう。ズタズタに切り裂かれ、蜘蛛のように潰れてしまっている。斧の痕は床にまで達しており、言うまでもなく使い物にはなるまい。

 これも、犯人の仕業なのだろうか……。

「仕方ない。携帯が通じる場所まで下りて行くしかねえか」

 早くも切り替え、緋村は踵を返す。

 僕もそれに続こうと、視線を床から上に向けた──ところで、ようやくもう一つの異変に気が付いた。

 それは何よりも──ある意味では密室の謎よりも──異常な現象であり、目の当たりにした瞬間、思考が停止し、自分と世界の境目が溶けてしまったかのような錯覚に陥った。

「……いない」

 その低い呟き声が自分自身の物だと気付くのに、かなりの時間を要した。

 ──そう、「いない」のだ。

 昨日は確かにそこにいたはずの存在(もの)が。

「どうした? 何が『いない』って?」

 背後で、足を止めた緋村が振り返る気配がした。しかし、僕はそれに答えられず、そこにある物から目が離せない。

 僕が唖然と見つめる先──壁にかかった例の写真の中から、()()()()()()()、消失していた。フラウ・カール・ドルシュキーの咲く花壇や、木製の椅子はそのままに、()()()()()()姿()()()()()()()()()()()()のである。

 ──いったい、どうして?

「これは……どう言うことだ?」

 いつの間にか隣りに立っていた緋村が、同じようにそれを見上げながら呟く。その横顔には、さすがに明確な驚愕の色が浮かんでいた。

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