漂流教室①
妖女たちが荊の蔓に絡まる下で、青薔薇の化身じみた怪人が弦楽器を構えて佇むと言う、あの不気味な──でありながらも、酷く魅力的な──装丁の一冊。それがどう言うわけか、殺人事件の現場に現れたのだ。
いや、もちろん初めからこの部屋にあった物と言う可能性もある──実際、後からそうだとわかった。入り口側から見て左手に壁一面を埋めるほどの書架があり、元々そこに収まっていたのだ。……しかし、「現われた」としか表しようがないほど、その存在は異彩を放っていた。
──僕はふと、須和子さんの財布の中に紛れ込んでいた異国の硬貨を思い出す。
何か、別世界の事物が、知らぬ間にこちら側に侵入していたかのような──
「とにかく、すぐに警察へ通報しないと」
「そ、そうですね。では、私が」
「いえ、僕がかけて来ます。石毛さんは弥生さんの傍に……」
「……わかりました。申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
彼らのやり取りは聞こえて来ていたが、それはただ鼓膜を揺らす音でしかなく、脳には届いていなかった。意識の支配を離れた僕の体は、無意識の赴くままに動き、床に落ちていた「奇書」を手に取る。
「──おい、お前勝手に」
緋村が僕を咎めたようだったが、一度転がり出した無意識は止められない。
抗い難い魔力に惹きつけられるように、僕は本を開いた──
途端に、ページの間から何かが落ちて来た。
それは瞬く間にフローリングにぶつかり、カンッと高い音を立てる。
「──え?」
まるでそれが催眠術を解く合図だったかのように、僕はそこで我に返った。
そして、足元に転がったそれ──年季の入った一本の鍵に目を落とす。
頭の部分に短いストラップが括り付けられており、その先には手作りらしき薔薇を象ったプラ板が。
「こ、これは……」
うわ言のように呟き、廊下を振り返った。
すると、弥生さんがヨロヨロと歩み出て、蒼白い顔で床の上の鍵を覗き込む。
「──ま、間違いありません。この部屋の鍵です……」
「マスターキーは? 順一さんが管理されているとのことですが」
すぐさま緋村が尋ねると、彼女はわずかに震えた指先で、向かって右側、勉強机の傍の壁に設えられた、コルクボードを示した。そこには、この部屋の物はとよく似た鍵が一本、車の鍵や乱雑に留められたメモなどと共に、フックに吊るされている。
「あれです。あれが、この宿舎のマスターキーなんですけど……」
彼女の赤く腫れた瞳が、兄の亡骸を避けるように動きながら、部屋の窓を見やった。
吊られて目を向けると、薄く開いたカーテンの間に見えるクレッセント錠が、しっかりと下りているのが確認できた。
窓は内側から施錠されており、ドアの鍵は部屋の中にあった。おまけに、先ほど窓から中を覗いた時、僕は掛け金が下りているのを確認している。
まさか、犯人はまだ──
「緋村くん」
同じ考えに至ったのだろう。廊下の方から、石毛さんが呼びかける。
緋村は目顔で頷くと、そちらに近付き、「斧を」と言って手を差し出した。それを受け取った彼は、再び室内を見渡す。
人が潜んでいられそうなスペースは、右手の奥にあるクローゼットと、反対側のベッドの下くらいか。
まず先にクローゼットへと歩み寄った緋村は、特に躊躇いや間を作ることなく、その扉を開けた。
──が、そこに誰かが隠れているようなことはなかった。それどころか、コートの一着もかかっていないようで、薄暗がりの中には、使わない物をしまってあるらしいダンボールが、二、三個置かれているだけだ。
戸を閉めた緋村は、今度は床に這い蹲り、ベッドの下を覗き込む。一応、華奢な人間であれば入り込めそうではあったのだが──
立ち上がり、振り返った緋村は、「いませんね」と無感動に呟いた。まるで、初めからわかっていたかのように。
「け、けど、おかしない? 誰も隠れとらんなんて。それじゃあ、まるでこの部屋は──」
「……密室」
須和子さんの言葉を引き継ぐように呟いたのは、意外にも日々瀬だった。
僕はわけもなく、緋村の様子を窺う。
しかし、その顔には表情らしき物は見当たらない。
「電話、お借りします」
それだけ告げると返事を待たずに、彼は閉じていた部屋を出て行ってしまった。
※
「緋村」追いた背中に呼びかける。「君は──どうしてそんなに冷静なんだ?」
「……そう見えたか。一応、これでもすげえ動揺してるよ。ただ、突然のことすぎて、うまく顔に出せないだけさ」
本当だろうか? 確かに、死体を発見した時は狼狽していた様子だったが、それ以降は普段にも増して淡々としているではないか。
改めて、よくわからない奴だと思う。自分と同じ、ただの怠惰な学生のはずなのだが──彼の振る舞いには、どこか異質なモノを感じた。
「まさか、事件に巻き込まれるのはこれが初めてじゃない、なんて言うんじゃないだろうな?」
「ねえよ。紛うかたなき初体験だ。──微塵も嬉しくねえな」
それはそうだろう。僕だって、ミステリが好きな以上、不可思議な事件に巻き込まれ、それを解決してみたいと思ったことは、一度や二度ではない──が、実際に目の前で起きたとなると、全く喜ばしくない。と言うか、衝撃が強すぎて、それどころではなかった。
脳裏に焼き付いた順一さんの死に顔を懸命に振り払いながら、僕は廊下を進んだ。
──ほどなくして、再びロビーに到着する。
真っ先にカウンターへ向かったが、どうしたわけか、そこにあったはずの電話機が、見当たらないではないか。
いったいどこに消えたと言うのか──勝手になくなるわけはないのだから、誰かが持ち去ったのか? 慌てて周囲を見回すと、それは存外すぐに見付けることができた。
が、しかし──
「酷えなこりゃ……」
彼が呟いたとおり、カウンターの足元に置かれていた電話機は、酷い有様だった。先ほど僕たちが持って行った斧を使ったのだろう。ズタズタに切り裂かれ、蜘蛛のように潰れてしまっている。斧の痕は床にまで達しており、言うまでもなく使い物にはなるまい。
これも、犯人の仕業なのだろうか……。
「仕方ない。携帯が通じる場所まで下りて行くしかねえか」
早くも切り替え、緋村は踵を返す。
僕もそれに続こうと、視線を床から上に向けた──ところで、ようやくもう一つの異変に気が付いた。
それは何よりも──ある意味では密室の謎よりも──異常な現象であり、目の当たりにした瞬間、思考が停止し、自分と世界の境目が溶けてしまったかのような錯覚に陥った。
「……いない」
その低い呟き声が自分自身の物だと気付くのに、かなりの時間を要した。
──そう、「いない」のだ。
昨日は確かにそこにいたはずの存在が。
「どうした? 何が『いない』って?」
背後で、足を止めた緋村が振り返る気配がした。しかし、僕はそれに答えられず、そこにある物から目が離せない。
僕が唖然と見つめる先──壁にかかった例の写真の中から、その存在だけが、消失していた。フラウ・カール・ドルシュキーの咲く花壇や、木製の椅子はそのままに、キヨカさんの姿だけが、忽然と消えていたのである。
──いったい、どうして?
「これは……どう言うことだ?」
いつの間にか隣りに立っていた緋村が、同じようにそれを見上げながら呟く。その横顔には、さすがに明確な驚愕の色が浮かんでいた。