水の中のナイフ②
弥生さんたちの元へ戻ると、緋村は順一さんが倒れている旨を告げる。──すでに亡くなっているらしいことは伏せて。
これを受けた彼女は、当然だが、酷く狼狽した様子だった。須和子さんと日々瀬も、何か非常事態が起きていると察したらしく、不安げに顔を見合わせる。
「とにかく、ドアを開けなくては。──マスターキーはないんですか?」
「一応あるにはあるんですが、生憎兄の部屋で管理しているものですから……」
「それは困りましたね」緋村はわずかに考え込んだ後、「もしよろしければ、ドアを破らせてもらえませんか?」
「……そ、そうですね。状況が状況ですし、止むを得ません。──確か、昨日薪割りをする時に使っていただいた斧が、まだロビーに出しっ放しになっていたと思います。それを使いましょう」
「わかりました。では、我々が取りに行って来ます。──行くぞ」
緋村の声に頷き返し、今度は反対側へと廊下を進んだ。
水分を吸ったズボンが重く、両脚に蛇が纏わり付いているかのようだった。先ほど目にした壮絶なデスマスクが脳裏から離れず、余計に足元が覚束ない。夢の中を彷徨っているような気分だった。
──ロビーに到着すると、確かに斧は二つとも、昨夜見かけた時と同じまま置かれていた。少し床が濡れているような気がしたが、湿気の為なのか、それとも自分の靴下が水没しているせいでそう感じたのか、判然としない。
とにかく、僕らはそれぞれ一挺ずつ斧を手にし、すぐにまた来た道を引き返した。
──この時、実はある異変が二つ、ロビー内で起きていた。しかし、気が動転していた為か──あるいは、あまりにも受け入れ難い現象であった為、無意識に「意識」から除外していたのか──、僕たちは二人とも、そのことには気付かなかった……。
※
再び順一さんの部屋の前に戻る。すると、そこには三人だけではなく、石毛さんも共に待ち構えていた。
「ホンマなんですか⁉︎ 順さんが倒れてるってのは!」
彼は血相を変えて、尋ねて来る。徹夜で仕事を進めていたのか、昨晩と同じ服装をしていた。
「ええ、どうやらそのようです。今ドアを破りますから、下がっていてください」
如才なく答え──やはり、やけに落ち着いている──、緋村は彼らを部屋の前から離れさせた。
無言の目配せに頷き返し、僕たちは同時に斧を振り下ろす。数回ほど繰り返したところで、木製のドアはズタズタにヒシャゲてしまった。
最後は緋村が強烈な一振りがトドメとなり、それは部屋の内側へ倒れ、音を立てた。
──そして、ドアの取り払われた枠の向こう側に、部屋の主の変わり果てた姿が見えた。
「嘘──兄さん!」
悲鳴を上げる変わりに叫び蹌踉めいた彼女を、石毛さんが支えた。須和子さんと日々瀬の二人は、突然のことに声も出せないらしく、所在なさげに突っ立っている。
一度だけ廊下にいる人間を見渡してから、緋村はそのまま室内へ入って行ってしまう。まさか、小説の中の素人探偵よろしく「現場検証」をするつもりではないだろうが──
僕は持っていた斧を壁に立てかけ、彼の後に続いた。
抗い難い引力が、僕を不吉な場所へと吸い寄せる──
ほどなくして立ち止まった緋村は、その場に屈み、遺体の様子を覗き込んだ。彼の背後から、僕も恐々とそこを見下ろした。
やはり、順一さんが亡くなっているのは明らかだった。加えて、今度はその死因らしき物もわかる。
──白いシャツの左胸に、薔薇の花弁のような小さな赤黒い染みがあり、その中心が縦に裂けている。どうやら、刃物によってできた傷らしい。
「……残念ですが、すでに亡くなられているようです」
「そ、そんな──どうして兄さんが」
茫然自失と言った表情で、彼女は呟く。取り乱して泣き喚くようなことはなかったが、むしろまだ現実を受け入れ来れていないのだろう。
「わかりません。ですが、左胸に刺し傷らしき物があります。おそらく、これが原因かと……」
「そ、それじゃあ、つまり──誰かに刺されたってわけですか?」
今度の問いは、石毛さんによる物だ。
顔を上げた緋村は彼らを振り返り、無表情のまま頷いた。
順一さんは刺し殺された──これは殺人事件なのだ。
「凶器が見当たりませんし、だいいち『引き抜かれている』と言うことは、順一さんか亡くなる前か後に、誰かが引き抜いて持ち去ったか、どこか目に付かない場所に隠したとしか考えられません。──少なくとも、事故や自殺とは考え辛いでしょう」
淡々と紡がれる言葉を、僕はどこか幻聴のように聞いていた。
僕はその時、遺体の傍にある物が落ちているのを発見し、奇妙な感覚に囚われていたからだ。
順一さんの背中の後ろにあったは、一冊の分厚い文庫本──中井英夫の『虚無への供物』だった。