水の中のナイフ①
一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」にする供物の為めに。
P・ヴァレリィ(堀口大学訳)『失われた美酒』
轟音と幽かな振動を感じ、僕は目を覚ました。
──今のは、地震か?
ドキドキと心臓が早鐘を打つのを感じつつ、ベッドの中でジッと耳をそばだてる。しかし、相変わらず激しい雨音や、吹き荒ぶ風の声以外には、これと言って物音は聞こえて来ない。
気のせいだったのだろうか? ──訝りながら、枕元に置いておいたスマートフォンに手を伸ばす。表示されている時刻は午前二時過ぎ。まだまだ真夜中だ。
もうすでに鼓動も落ち着いて来たし、さっさと寝直すことに決めた。
瞼を閉じると、スマートフォンの画面の光が、奇抜な色で闇の中に焼き付いていた。
──後になって思えば、この時すでに、事件は動き出していたのだ。
この宿舎を舞台に繰り広げられる、陰惨な殺人劇の序章は、誰にも知られぬまま、密かに幕を開けていた……。
※
その後、僕は六時半頃には起き、寝巻きから着替えて部屋を出た。思いの外肌寒く、ブルリと体を震わせた後、この日も上着を羽織ることにする。
早起きをしたのは、七時半からの朝食の準備を、手伝うことになっていたからだ。
部屋を出ると、ちょうど隣室の緋村も起きて来たところだった。眠り足りないとばかりに欠伸をしつつ、「よお」と気の抜けた挨拶をして来る。
黒々とした髪をバクハツさせている彼と共に廊下を進み、食堂へ向かった。
「そう言えば、昨日の夜中に地震がなかったか? 二時頃だと思うんだけど」
「地震? さあな、爆睡してたから気付かなかったよ」
やはり僕の思い違いだったのだろうか。あるいは、本当は落雷の音だったとか?
そんなことを考えながら歩いているうちに、管理人室の一つ──順一さんの部屋の前に差しかかる。
すると、そのドアの前には、何故か弥生さんが佇んでいた。ふくよかな頬に手を当てた彼女は、「おかしいわね」とでも言った風に、首を捻っている。
「おはようございます。──どうかされましたか?」
目元を擦りながら、緋村が尋ねた。
「あっ、お二人とも、おはようございます。──それが、妙なんです。兄が、まだ起きて来なくて……」
「順一さんが? 寝坊するような人には思えませんが……」
「ええ、朝食の仕込みに出て来ないなんてこと、今まで一度もございませんでした。それに、昨日も二十二時半には部屋に引き上げて行ったはずですから、寝過ごすなんて考え辛いですし……。様子を見ようにも、このとおり鍵がかかってるみたいで」
彼女はドアノブを捻り、前後の揺すってみせる。ガチャガチャと金属の擦れる音がした。
「ちょっといいですか?」
そう断った後、弥生さんと場所を変わった緋村も、同じようにノブを回した──が、やはり鍵がかかっていて開かないようだ。
「仕方なく何度もドアをノックして声をかけとったんですけど、それでもまだ起きないんですよ」
「ふむ、心配ですね。何でしたら、外に回って、窓から様子を見て来ましょうか?」
彼の提案に、弥生さんは「よろしいんですか?」と申し訳なさそうに尋ねる。
「ええ。雨もだいぶマシになってますし、何より急病で倒れていたら、大変ですから」
緋村の言葉どおり、雨は未だ降り続いているものの、昨夜に比べ勢いは弱まって来ていた。
「申し訳ありませんが、お願いします。私はここで、もう一度声をかけてみますから」
そう言って頭を下げる彼女を残し、僕たちは裏口を目指して歩き出そうとした。
──が、体の向きを変えたところで、反対側から声をかけられた。
「おはようございまーす。──って、三人ともどないしたんですか?」
振り返ると、不思議そうに小首を傾げていたのは須和子さんだった。今朝は動きやすそうはジーンズに、モスグリーンのパーカーを着ている。
また、彼女の隣りには日々瀬が。こちらは女の子らしい、桜色のパジャマ姿だった。
それにしても、二人はどうしてこんなに早くから、起きているんだ?
「ええ、実は……」
緋村は、順一さんがまだ起きて来ず、これから様子を見に行くと言う旨を伝える。
「そうなん? それは確かに心配やな。──二人だけで大丈夫そう? うちも付いて行こか?」
「平気です。少し裏に回って来るだけですから」
一応愛想のある口調で答えると、彼はさっさと踵を返し歩き出してしまった。本当は受け答えも煩わしかったのかも知れない。
そんな彼の様子を見ているうちに、僕は得体の知れない不安感を覚え始めた。急速に膨れ上がるそれに戸惑いつつ、僕は「行って来ます」とだけ言い、緋村の後に続いた。
廊下を進んだ先──誰もいない厨房に入り、勝手口から外へ出た。
ドアの脇にあった傘立てから、それぞれ一本ずつ傘を引き抜いて行く。
昨夜ほど雨脚は激しくないものの、それでもズボンの裾や靴はすぐさま水没してしまった。泥濘んだ地面を苦労しつつ足早に進み、僕たちは建物の裏側へ回り込んだ。
「ここだな」
緋村は立ち止まり、窓の中を覗いた。白いカーテンが敷かれていたが、幸い閉じきってはおらず、隙間から室内が見えるようだ。
そして、彼は桟に嵌った窓ガラスに顔を近寄せた──途端に、その横顔が凍り付く。
どうやら、ただごとではないらしい。
隣りでその反応を見ていた僕は、曖昧だった不吉な感覚が、今や明確な形を持って現れたのだと悟った。
「な──何が見えるんだ? 順一さんは、どうしてる……?」
「……倒れてる」
掠れた声でそれだけ言うと、緋村は窓の前から離れた。茫然としている様子だが、冷静さを失ってはいないらしい。
いったい何があったのか──彼は何を目にしたのか──確かめるべく、僕も窓の方へ近付いた。
「見ない方がいい」
ゾッとするほど無機的な声がして、僕は思わず緋村のことを見返した。二つの昏い黒眼が、咎めるようにこちらを見つめている。
よほど恐ろしいモノがそこにあるのはわかった──が、しかし、それと同時に、どうしてもこの目で確認せずにはいられなかった。
僕は彼の視線から逃げるように、カーテンの隙間を覗き込んだ。
──部屋の真ん中辺りに、確かに順一さんは倒れていた。
ベッドの陰に両脚が隠れるような形で、こちらに体の前面を向けて倒れている。わずかに背を丸め、胸を掻き毟っているような状態だ。
それだけでは、安否はわからない──が、その顔を見れば、彼がすでにこと切れていることは、一目瞭然だった。
──順一さんは、それほど壮絶な表情を浮かべていたのだ。苦痛の為か見開かれた瞳には一縷の光も宿っておらず、すでに膜がかかったように淀んでしまっている。
僕は、恐怖を覚えることすらできなかった。あまりにもショッキングな情景を受け入れきれず、脳の機能が麻痺してしまったかのように。
「……戻るぞ。弥生さんに伝えねえと」
緋村の言葉に、僕はハッと我に返った。彼はこちらの返事も待たずに、すでに歩き出している。
慌ててその背中を追いかける直前、何気なく再び室内に目を向けた僕は、ある物を見てしまった。
カーテンの隙間から辛うじて見えるドアには、打掛錠が下りていたのだ。